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【広告本読書録:036】壽屋コピーライター 開高健

坪松博之 著 たる出版 刊

あけましておめでとうございます!令和二年がはじまりました。今年も、あと何回続くかいまひとつ読めませんが、広告本読書録をどうぞよろしくお願いいたします。あ、昨年までは「広告本書評」というタイトルでしたが、一年の締めくくりに振り返ってどうもこれはなにも評論していないな、ただの感想文だ、との結論に至り、書評の看板を降ろすことにした次第です。

さて新年一冊目にとりあげる広告本は…ぼくの盟友でもあるアメリカ在住のまっちゃんも大好きな、偉大なる開高健さんのコピーライター時代にフォーカスを当てた一冊『壽屋コピーライター 開高健』です!

どうですか、このケレン味のないタイトル。まさにおせち料理で胸焼け気味なお正月にぴったりだとおもいませんか?内容もまさに表題通り、作家として、というよりもサントリー宣伝部の、そしてサン・アド創立者のひとりとしての、コピーライター開高健に迫っています。

“大開高”のもうひとつの顔

ここで開高健さんについて解説する必要もないでしょう。昭和を代表する文豪にして博覧強記、いまだに多くのファンを持つ稀代の作家です。その開高さんが作家以外のもうひとつの顔として、壽屋(現サントリー)宣伝部に所属するコピーライターであったことも有名な話。

そもそも壽屋へはすでに学生結婚を果たしていた開高さんの妻である牧羊子(真木よう子にあらず)が勤務していました。物書きの道を志すも明日の米を買う金も稼げない夫のために、牧羊子はウィスキーの宣伝文案を開高さんに書かせては当時の専務であった佐治敬三氏に売り込んでいたのです。

そのうちに、牧と開高さんをトレードする、という話がまとまり、するりするりと壽屋への入社が決まった開高さん。当時、壽屋宣伝部には組織改革を狙っていた佐治氏によって各社各界から綺羅星の如く人材が集められていました。

三和銀行からトレードしてきた山崎隆夫さんを筆頭に、後の『アンクルトリス』の生みの親である柳原良平さん、知らないことは何もない“小エンサイ”坂根進さん、そして杉木直也さんや酒井睦雄さん。みな、それぞれのフィールドで一流以上の実績を持っていました。そういう才能を見抜いて入社させるのが、山崎さんのスタイルだったのです。

そこに、ただ一人と言っていいほど、山崎さんの眼力とは無関係に入社してきたのが開高さん。入社当初は機関紙「発展」の取材撮影執筆で日本中を駆けずり回ります。まるで下積みのようです。あの大開高が下積みとは!

当時のようすを引用します。

このように、壽屋に入った開高はすぐにコピーライターとして活躍したわけではない。(中略)最初は与えられた既定の編集方針を守りながら着々と仕事をこなし、徐々に自分なりのアイデアを差し込んでゆく。まずは記者として短い記事、そしてキャプションに開高タッチを盛り込み、読ませる誌面をつくる。さらにコンテンツのひとつひとつに工夫を凝らし、手を加え、グラビアページ全体のクオリティを引き上げてゆく。いつの間にかPR誌の範疇を超える面白さを備えてゆく。そのプロセスは実にきめが細かく、職人的仕事ぶりである。

下積み、の仕事を単なる下積みで終わらせない。そこにシビれるあこがれるというヤツですね。さらに機関紙を独自のセンスで読み物へと発展させていくあたり、開高さんが表現者であるとともに「ものづくり」の人であることがわかります。

ほほえましいエピソードも満載

そんな「発展」取材のために全国を奔走していた開高さんに「コピーでも書けば」と勧めたのは坂根さんだそうです。

まさにここから、今度はコピーライターとしての下積み時代がはじまります。その頃のエピソードがほほえましい。ふたつほど引用しましょう。

「出来ないものは何もない男」坂根はデザイナーでありながら、実はコピーづくりもうまい。その眼から見て、開高がつくる宣伝文案はエッセイとしては良いが、コマーシャルメッセージとして成立していなかったという。坂根は容赦なく開高のコピーを直す。最初の頃は原型をとどめないほどにズタズタに直されていた。しかし、開高はそのやりとりの中で次第に独自のコピーの文体を見出してゆく。

坂根さんのコピーチェックは、なんということかその後も続き、一人前になってからも、さらに芥川賞作家となってからも続いたんだそうです。

坂根に容赦なく手を入れられるたびに、開高は「お前は新潮社や文藝春秋の編集長でもやらないことを平気でやる」「芥川賞作家の文章に手を入れるなんて何事だ、天をも恐れぬ行為や」と半ば本気半ば冗談で大声を張り上げていたという。

いかにも開高さんの言いそうなセリフですが、同時にすごい胆力の持ち主なのは坂根さんその人だとおもいます。

坂根さんといえばのちのサン・アド社長。かの仲畑さんが会社を辞めると言い出した時「もう一発花火を打ち上げてからにしたら」と慰留し、その結果、あの名作CM「トリスと犬」が生まれたという逸話があります。

話を戻しましょう。

開高さんはその後、柳原さんとタッグを組んでトリスウヰスキーの新聞広告を量産していきます。その「量」が「質」に転化するのは言うまでもありませんが、この本では当時のふたりの仲睦まじい様子が描かれています。

当時のトリス新聞広告の作り方はこうです。宣伝課から出稿計画が来ると、この日はバーのハイボールにするか、次は家に帰って晩酌にするか、などふたりで相談しながらテーマを割り振ります。スペースもさまざまで、テーマが決まるとおおまかなレイアウトを柳原さんが決め、コピーを置く場所と分量を開高さんに伝えます。コピーが先にできる場合もあれば、絵が先のこともある。でもたいがいは仕事の早いや柳原さんが先行していたそうです。

一方の開高さんはなかなか苦労していたようで、出来上がったイラストやレイアウトを見せられるとイライラして不機嫌になったとのこと。ブツブツ呟いたかと思えばウロウロ歩き回る。原稿用紙に文字を書き付けたかと思えば、クシャクシャにまるめて捨てる。

そうしたいつものプロセスを経て、どうにかこうにかコピーが絞り出されてゆくのである。苦労して出来上がったコピーを割り付けるとき、柳原はわざと開高のコピーを声に出して読む。それは開高が最も嫌がる行為だった。いつも「よせー!」と叫び、耳を塞ぎ、どこかへ飛んでいってしまったという。
柳原はどんな大きな仕事でも必ず時間内に仕上げ、「決して残業をしないクリエイター」といわれていたが、この時期だけは開高と二人仲良く並んで、会社に夜遅くまで残っていたという。撮影に使用した角瓶をグラスに入れて少しずつすすりながらである。そして、仕事がひと段落すると二人で飲みに出かける。もちろんいつものサントリーバーである。

この頃の開高さんと柳原さんは、秋山晶さんと細谷巖さん、あるいは仲畑貴志さんと副田高行さんのような関係だったんでしょうね。コピーライターにとって相棒ともいえる、仕事だけでなくさまざまな価値観においてシンクロできるデザイナーを見つけることは、己の才能を伸ばす以上にもしかしたら大事なことなのかもしれないな、と思いました。

二足のわらじはなかなか難しい

さて、いよいよこの本の核心に迫ります。時系列をググっと昔に戻し、壽屋入社の前のころ。開高さんは学生時代より職業作家を目指して同人誌に出稿したり、文学青年としてそれなりの活動を行なっていました。しかしいずれの行動も実を結ぶことなく終わります。

そんななか同人仲間である牧羊子と恋仲になり、妊娠を経て学生結婚。同棲を余儀なくされることに。否応なく家長として稼ぎを得る必要がでてきました。しかし捨てきれない作家への道。一度は北尾書店という洋書専門の輸入販売会社に就職するも、事業縮小により籍がなくなってしまいます。

そんな主人のふがいない(?)状況を見かねた牧羊子が自らの身柄(??)とのトレードという形で開高さんを壽屋宣伝部に送り込む。これが開高さんのコピーライターとしてのキャリアのスタートであり、同時に大作家・開高健の事実上のデビューにつながっていくのです。

作家になりたいと願う傍ら、壽屋宣伝部での活躍も目立ってきた開高さん。当初はそのことについて、必ずしも肯定的ではなかったと描写されています。つまりコピーライターとしての活動が盛んになればなるほど、本業としたいはずの作家としての筆が止まるのです。

もちろん後になればコピーライター修行は作家・開高健誕生において欠かせない過程だということはわかります。しかし、開高さん自身はそれを意識してコピーライティングに打ち込んではいなかったそうです。残念ながら、開高さんにとってコピーライターであることは決して幸せなことではなかった、とあります。

洋酒の壽屋の宣伝課に入った。この頃になると、体のなかのかぼそい音楽はほとんど途切れてしまい、もう小説を書こうとも小説家になろうとも思わなくなった。(「開高健による開高健年譜」より)

デビュー直前の開高さんは仕事に忙殺されて、いつの間にか創作意欲そのものを失いつつあったようです。同書にはそれが「書けない」時代と位置づけられています。その頃の開高さんは、同人時代に文芸誌に寄稿していた作品たち同様に極めて内向的な作品を志向していました。要はテーマを自分の内側に探りに行くスタイルの小説ですね。

しかし、そのスタイルに固執するがゆえに「書きたいものが見つからない」という状態に。これ、多くの「ぼく作家になりたいんです」といいつつなれない人にとっては思い当たるフシではないでしょうか。書きたいことを自分の中に探しに行くのは、ある意味、高尚な取り組みだからです。

もちろん開高さんも文壇デビューの後に、自分の内在するものに光を当てた作品をいくつかものにするのですが、まだこの頃はそれが上手くいかなかったのでしょう。

東京へ。そして本物の作家へ

そんな苦悩の日々を送るうち、運命的な転機が訪れます。それは壽屋宣伝部の東京移転です。ここでは詳細には触れませんが、坂根さん、開高さん、柳原さんはそれぞれ大阪から離れ、東京は蛎殻町(のち茅場町へ移転)の壽屋東京支店に仕事場を構えます。

茅場町は日本橋の丸善(書店)まで歩いて5分。この環境が、開高さんに光を与えます。毎日のように丸善に通い詰め、立ち読みを重ねて完成した作品『パニック』が「新日本文學」に掲載されるのです。

心の中の源泉から作品を絞り出すエネルギーが枯渇してしまった開高さんを救ったのは、1957年2月8日付の朝日新聞夕刊に掲載された「木曽谷ネズミ騒動記」というタイトルの記事。普段新聞を読む習慣がなかった開高さんは、この野ネズミの異常発生を絶対に手放してはいけない題材だと感じます。

そして丸善に通い詰め、立ち読みを重ねて野ネズミの習性などを把握し、執筆にこぎつけたというのです。

この『パニック』は文学界で話題となり、各メジャー文芸誌、商業誌は開高さんをつかまえるために奔走します。そして自らが所属するマス広告を舞台とした『巨人と玩具』、さらには坂根さんから提供されたネタを素に『裸の王様』を発表。それまでの「書けない」時代が幻だったかのように創作活動を活発にします。

そのころ、彼は、しっかりした題材さえあれば、人をとらえる力のある小説がすぐにも書けるはずだということにようやく気づき、何を見ても、何を聞いても、何を読んでも、もちろん何を書いても、小説の題材として用いるに堪えるかどうか、まずその力の強弱を量らずにいられなかったらしいからである。
(向井敏『開高健 青春の闇』文藝春秋 1992年)

ここで、この読書録の肝です。
この開高さんの、良質なテーマがあれば作品が書ける、という気づきは、どう考えてもコピーライターとしての経験があってこそではないでしょうか。著者の坪松さんもこう書いています。

コピーライターは必ず題材が与えられる。好きなものを勝手に書いても仕事にはならない。広告づくりとはそういうシステムである。題材が与えられなければ仕事ははじまらないのである。そして与えられたら必ず書かなければならない。

そして続くこの一節で、見事にコピーライターの仕事のあり方を表現してくれてもいます。

コピーライターはその題材と対峙して、さらに吟味して、どこを取り出すか、何を切り捨てるか、考える。さらにその題材をころがしたり、寝かせたり、立てたり、折り曲げたりしながらメッセージをつくり出していく。ウィスキーの場合は眺めているだけでは済まない。香りを嗅ぎ、舐めて、飲みこんで、酔っ払って、痛い目にあって、そこからコミュニケーションの可能性を見出すのである。

まさにこれこそが、コピーライターの仕事のプロセス。どう言うか、の前に何を言うかが大切と言われることの根拠でもあります。「コピーは足で書いて、恥をかいて、汗をかいてうまくなる」にも通じるところがありますね。

開高さんがコピーライターの仕事をどうとらえていたかは、わかりません。筆者は残念ながら幸せには思っていなかったのではないか、と仮説を立てています。しかし、コピーライターの仕事を通じて題材との向き合い方、付き合い方、取り組み方を身に着けていったことは間違いないでしょう。

一人前の小説家になるまではこの仕事を続けることに絶望していたとしても、コピーを書く事自体には愛着を覚えていた、とおもうんですよね。そうでなければその後も「二足のわらじ」にこだわるわけないでしょうし、この書評シリーズでも何度も取り上げている“サン・アド”設立を企てるわけないでしょうから。​

開高さんはこのあと作家として再び「書けない」時期を経て珠玉の名作『闇三部作』をものにしていくのですが、この本はあくまで“壽屋コピーライター”である開高さんにスポットを当てたものです。作家としての苦悩などには触れず、あくまで広告宣伝の分野における開高さんの活躍を綴っています。

開高さんは、コピーライターとして作家になり、コピーライターとして作家であり続け、最後までコピーライターであった。そんなふうに思わせてくれる一冊です。現役コピーライターで「いつかは作家に…」なんて夢想している人にはピッタリではないかとおもいます。

おしまい

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