そのオフィス移転、私心なかりしか

ぼくが20代に六本木のアウシュビッツと呼ばれた事務所で毎日徹夜していたことはすでに有名な話なんですが、実はその事務所、最終的には青山一丁目の不夜城になったんです。どういうことか。

もともとその会社は六本木に現存する『金谷ホテルマンション』の5階にオフィスを構えていました。いまだに健在ということからもわかるように、良い建物だったんですね。いろんな有名人の方が事務所や仮住まいの部屋として借りていたんです。

いちばんステキだったのは世界のナベサダの愛称で知られるサックス奏者の渡辺貞夫さん。一年のほとんどを海外で過ごすナベサダさんですが、日本に帰ってくると必ず金谷ホテルマンションにいらっしゃいました。

ナベサダさんが帰国されると一発でわかります。昼下がりになると数階下のベランダからサックスの音が聞こえてくるんです。たぶんお遊びというか、腹ごなし程度に音を鳴らしていらっしゃるんだとおもうのですが、そこは世界のナベサダ。めっちゃいい音、いいフレーズの連発なんです。

あとナベサダさんってとっても腰が低いんですよ。いまから25年以上前ですからおそらく60歳を超えてらしたとおもうんですが、エレベーターで「どうぞ」って先に譲ってくれたり、ぼくらが「ナベサダさん、こんにちわ」って声をかけると「どうも、ジャンボ!」ってスワヒリ語で返してくれる。またその笑顔がいいんだよなぁ。

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…と、ナベサダさんの思い出だけで何万字もいっちゃうので話を戻します。

ある日、ボスが怒り心頭といった表情で事務所に登場します。結構ひんぱんに怒り心頭なので、ぼくは放っておくのがいちばんだとおもっていました。しかし秘書が「どうしましたか?」と聞くと、どうやら自分たちのフロアより高層階に、シンクロナイズドスイミングの元日本代表でもあるMK選手が事務所を借りたんだそう。それはいいんだけど、その家賃がウチの事務所の半額なんだって。

「あったまきちゃってさあ、ケン・コーポレーションに文句言ったんだよ。いくらMKが美人で有名だからってウチの半額ってのはねえだろうって。しかも9階だぞお前。そしたらよお、だったら退去されますか?とか言いやがったんだ。もう俺も返す刀でわかったよ、出てってやるよって!」

世の中には恐ろしい理由でオフィスの移転が決まることもあるんですね。また当時、ぼくの事務所は過去最高益を出していました。そのこともあってボスは強気一辺倒だったのです。ボスはバブルの落とし子みたいなところがあって、いわゆるイケイケドンドンだった。この好調の波に永遠に乗っていけると踏んでいたんですよね。

さっそくボスは赤坂にあるマンションを見つけてきました。最寄り駅は『青山一丁目』、青山ツインタワーのお膝元。あの百恵ちゃんもご出産にお使いになったセレブご用達の『山王病院』裏手です。

建物自体はそんなに大きくはないのですが、レンガ造りで重厚な印象。しかし、ひとつだけ気になったのは借りる物件が半地下だということ。そのせいでほぼ一日を通して陽が差さないんです。つまり暗いんですね。それがぼくには個人的にひっかかるのですが、もちろんボスの命令は絶対ですから一切逆らえません。

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引っ越し当日。もちろん業者を使うなどという発想はボスにはありません。ぼくと同僚のコウちゃん、そしてデザイナーの卵として事務所に出入りしていたコマツくんの三人は休日返上、朝5時集合で移転作業を行ないます。以前のオフィスとは間取りが大きく異なり、ボスの眼の前にぼくらのデスクが並びます。

以前だったらその瞬間にびらん性結膜炎でもひきおこしそうなぼくでしたが、さすがにその頃は「番頭さん」と呼ばれるぐらいには慣れていました。そして、相変わらずの徹夜の日々がはじまったのです、が…

悪い予感は当たるといいます。

このマンションに引っ越してきてから、とにかく碌でもないことが続くのでした。まずコウちゃんがバイクで事故を起こします。詳しい話は聞かなかったのですが、いわゆる人身事故で結構なダメージを負いました。

デザイナーの卵のコマツくんはある日、大事なカンプを地下鉄の網棚に置いたまま事務所に戻ってきました。そのときのボスの怒りぶりといったら…いま思い出しても口内炎ができます。結局、そのカンプは出てくることなく、コマツくんはそのままクビに。

そして、とっておきがボスです。ある日、新宿にある弱小広告代理店の営業マンに誘われて生まれてはじめてフィリピンパブに足を踏み入れたのが最後、超弩級のどハマり。いわゆる沈没というヤツです。

翌日の夕方からやたらボスの携帯電話が鳴るようになります。当時はまだ珍しかった携帯ですが、ボスはその機動力を駆使してやがてトイレやベランダで受電するようになります。最初のうちは笑い話のタネみたいなノリだったのですが、次第に秘書の眼が三角に。

気づけばほぼ毎日お店に足を運ぶように。それどころか、ひとりだと気がひけるのかぼくを誘うようになります。もちろんおごりじゃないので3回に1回ぐらいしかお付き合いできないのですが、断ると不機嫌になるのが困りものでした。

ぼくからすればお金の問題もありましたがそれ以上に仕事が溜まる一方だったので、夜な夜な遊んでる場合ではなかったんですね。

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その後もボスのハマり度合いはエスカレートする一方で、ついに会社に来なくなります。会社には来ないけど、一応体裁上で外回りの直行直帰、という小芝居をかますようになりました。すべての仕事はぼくにお任せです。

「おはよう。今日も直行で営業だから」
「おはようございます。かしこまりました」
「あと今日はもうこのまま戻れないからね」
「承知しました。何かあったらいかがしましょう」
「何かあったら?大丈夫だよなんにもないよ」
「はあ…」

あんなに厳しかった鬼のコピーチェックも電話です。

「あのマンションの新聞5段のキャッチ、できてる?」
「はい」
「読み上げてみて」
「はい、えー、漢字でよこはま、てん、おかのて、まる」
「横浜、丘の手。ね」
「はい」
「お前、上手くなったじゃねーか」
「ありがとうございます」

全然うれしくないです。上手いかどうかもわかりません。

■ ■ ■

その頃のボスは昼すぎからタレントさんと会い、お昼ごはんを一緒に食べ、そのままデパートでお買い物などを楽しみ、夕方からフィリピンレストランでお酒とお食事を。そして同伴で出勤、ラストまで一緒という生活でした。

日曜日、ぼくが事務所のデスクに突っ伏して寝ていると、朝方会社の電話がなります。自動的に留守録にセットしてあるのですが、起きてから再生すると幼い子供のこんな声が。

「パパー、パパー、どこにいっているのー!パパー、でんわくださいー」

ボスには息子さんと娘さんがいる、と聞いていたぼくは胸がしめつけられそうでした。

そしてコーポレートカードの利用明細には1ヶ月で300万円以上の出金記録です。ぼくはボスが担当する予定だった鉄道会社の仕事、旅行会社の仕事、そして輸入車の仕事まですべて請け負うことになり、しかも給料が3ヶ月遅配で、未払いも2ヶ月目を迎えていました。

そうだ、その年の4月にぼく、昇給したんです。その額なんと50円。

秘書の方が怒りながら「そんな無駄金使うならいつまでも据え置きの早川くんの給料上げてあげてよ!」と迫ったら「おお、わかったよ、上げてやるよ、50円」とボスに返されたんだそうです。11万とんで50円。それがぼくのその事務所でいただいた最後の給与でした。あ、正確にはいただいてないのか。いまだ未払いですからね。

ぼくは、いよいよだな、とおもいました。そしてボスがお気に入りのタレントに会うためにマニラに飛んだGWに夜逃げしたのでした。

それ以来、ぼくは「登り調子の会社はオフィスを移転しないほうがいい論者」となったのでした。

ちなみにぼくの前職の会社が偉いところは、設立から一切移転していないことです。1年半で新興市場に上場、それから数千名に社員が増え、海外にも進出し、リーマンや大震災などに見舞われながらもせんだって東証一部に市場替えしましたからね。

どっかで成長を鼻にかけて、調子にのって六本木だの渋谷だの東京駅だのって移転していたらいまの隆盛はあったかどうか。その点だけは素晴らしい会社だとおもいます。

そしていまぼくが軒を借りている会社も、このコロナ禍でリモート勤務の比率が増えたり、業態のアレンジなどを経て、オフィス移転を決行しました!でもこの移転はきっと吉とでるでしょう。だって動機善なりや、私心なかりしか、での移転なんですから。

BGMは斉藤和義で『引っ越し』でした。

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