見出し画像

【広告本読書録:102】三行で撃つ <善く、生きる>ための文章塾

近藤康太郎 著 CCCメディアハウス発行

今回は厳密にいうと広告本の類ではありません。しかし、広告制作に携わる方、特に長めのボディコピーやステートメントを書く仕事に就いている人は読んだほうがいい本です。

『三行で撃つ <善く、生きる>ための文章塾』近藤康太郎さんの著作です。

近藤さんは朝日新聞の記者を経て現在編集委員・日田支局長。同時に作家、評論家、百姓、猟師、私塾塾長とそれぞれが一見するとまったくつながらない肩書をお持ちです。

朝日新聞の読者であるぼくは近藤さんの“アロハにサングラス”姿をよく紙面で見ていました。近藤さんが描く『多事奏論』はその出で立ち以上に他の編集員とは大きく異なる筆致で、毎回惹きつけられます。

もともと渋谷生まれで渋谷育ちの慶応ボーイでしたが、7年前から九州の山奥で百姓と猟師をしながら、社内外のライターに文章を教えているそうです。もうそれだけでもワクワクしませんか?どんな人なんだろうか、と。

この本、もうぜったいにひとすじなわではいかないぞ、とおもって読みはじめました。そうしたら、やっぱり、ひとすじなわではいかなかったのです。

■ ■ ■

新聞記者への偏見

これは完全に偏見であり、最初にお詫びしちゃうのですが。ぼくは長いあいだ新聞記者出身者は文章がそんなに上手くない、とおもっていました。

ある求人広告の会社で制作部門の責任者を務めていたとき、コピーライターの採用を任されていて。山のように寄せられる応募の中でちょくちょく新聞記者の方がいらっしゃったんです。しかも天下の中央紙出身者。

こちらとしては無芸大食無学を地でいく高卒エリートです。その新聞社名を履歴書でみつけるだけで興奮するわけ。もう、すげえぞってさっそく面接するんですね。でもなんかピンとこない。

おっかしいなあ、俺に見る目がないからかなあ。とりあえず課題を提出していただくことにします。テーマに沿った3000字ぐらいの作文。

そうするとですね、その作文の出来がお世辞にもよいとはいえない。読みにくいことこの上ない。ぜんぜん頭に入ってこない。

俺が頭わるいからかなあ、とおもって何度も読み返すんですが、やっぱりいまひとつなんです。あれ?履歴書に書いてあること嘘なの?なんて疑いながら泣く泣く不採用の枠に入れることに。

それが5人も続くとさすがに「もしかしたら新聞記者の人って…」っておもうようになるわけ。

それでも20人目ぐらいに悪くない文章が書ける新聞記者出身者と出会えます。さっそく採用してみました。そうしたら、やっぱりいまいち。

教え方がまずかったのかもしれないんですが、硬いんですよね、考え方も文章も。たまたまなのかもしれないけれど。

以来、ぼくはコピーライター採用時には新聞記者出身者にあまり期待をしなくなったのです。

そもそも文章の目的が違う

どうして新聞記者出身の人の文章が、あくまでぼくからするとですが、いまひとつにかんじてしまうのか。だいぶ時間が経ってからではありますが、ぼくなりに考えました。

それは「文章の目的が違う」ということ。

新聞記事はとても忙しい人は大見出しだけ、まあまあ忙しい人は小見出しを、わりと忙しい人はリード文まで読めば成立するような仕組みになっています。

さらに本文も順を追って詳しくわかるように書かれている。結論から順に詳細に追いかけていく構造なんですよね。そしてその構造を取る以上、読みやすさを犠牲にすることもあるんじゃないか。

あるいはふくよかな表現、読者の想像力をかきたてる言いまわしは必要ないのかもしれません。

いわばインフォメーションですね。情報伝達を目的とした文章。特に正確さが第一なので絶対に誤解を生まない、スクエアな言葉の選び方をするのは当然のことでしょう。

一方でぼくが求めるのはコミュニケーションの文章です。読者に考える余白を与え、アクションを促す。実際の行動にならなくとも、思考のスイッチを入れる。特別感を覚えてもらったりする。

そういう文章に必要なのはリズム感、グルーヴ感、ボキャブラリー。本当に誤解を恐れずにいえば日本語が多少まずくてもいい。その文章の中に感じるものがあることを、文法の正しさよりも優先します。

水と油、具体と抽象、月とスッポンぐらい違う。どっちがいいとか悪いとかって問題ではなくて。

そういえば新聞記者出身者クンは、コピーはいまひとつだったけど、取材はものすごく綿密だったし、ファクトベースで作る募集要項などはピカイチだったなと。

そう考えると、ぼくがちゃんとわかっていなかったことで彼に申し訳ないことをしたのかもしれません。反省します。あと、正しくわかっていないくせに新聞記者の方の文章が云々と決めつけてしまい、それも反省です。ごめんなさい。

情報VS情緒

それから十数年が経ちました。相変わらずぼくの「新聞記者さんが書く文章はとってもインフォメーションに優れている」説は揺るがないのですが、新聞を読んでいてときどき切り抜いてとっておきたくなるような文章に出会うことがある。

朝日新聞だと『窓』という連載に多い。

あきらかに、レギュラーの記事とは異なる文章です。そして今回の『三行で撃つ』の著者、近藤康太郎さんが書く『多事奏論』もそのひとつ。

書き出しからグッとつかまれる。なんらかのシグナルが埋め込まれている。リズムがいい。テンポがいい。何よりグルーヴが心地よい。言葉が、息をしている。表現がふくらんでいる。もちろん読みやすく、読んでいる自分をどこか別の場所に連れて行ってくれる。

緩急自在の魔法にかかって、そうか、そうなるのか。うまっ!と感嘆のため息。なんだ、新聞社にも文章の名手がいるんじゃないか、と至極失礼極まりないことをおもいつつ、少し笑うのです。

うれしいんですよね。いい文章と出会うと。最初は嫉妬なんですけど、しばらくのちにやがてうれしい。そういう気分にさせてくれる文章とちょくちょく出会える新聞は朝日以外にもあるのかな。

なんで新聞記者は文章がいまいち、と決めつけていたのに、最近になって新聞に名文を見つけるようになったのか。それはたぶん、環境の変化というか心境の変化というか、こころの余裕だとおもいます。

と、いうのも以前は新聞はあくまで情報ソースとして眺めていたから。前職では日経新聞は必読で、そこに求めるのは情緒ではなく株価や競合企業の情報ばかり。当時はそれを当たり前のようにやっていたし、部下にも日経をそういう目的で読むように強く命じていました。

しかし、いま。そういう経済最前線ではないところに身を寄せておもうのは、そういう生き方はなかなか疲れるな、ということです。ものの見方も偏るし、なにより心の底のほうがぐったりする。

もちろんぼくがそういうビジネスウォーに向いていなかったし、ついていけなかっただけなのですが。まあ、もうああいうのはいいかなというのが素直な心境です。

文章が上手くなりたい、という渇き

さてこの『三行で撃つ』ですが、はじめに、のところで「ちょっとうまく書けたら、と思う人へ 文章の書き方、その実用書を書くことにしました」とあります。

ぼくは本屋さんでこの書き出しを読んで、なるほど、テクニック論かな。とおもいました。文章のテクニック論の本ならこれまでもたくさん読んできました。その割には上手くなっていないので、相当もとが悪いのでしょう。

しかし、家に帰ってじっくり読みはじめてみると、テクニック論だなんてとんでもない。

技術以上に心得だった。ライターとして生きていくうえで身につけるべき心得たち。近藤さんはこれを「ちょっとうまく書けたら、と思う人へ」とのことでしたが、いやそんなめっそうもない。

この本にこめられている25発の弾丸は、書くことを生業に、と覚悟を決めた人が毎日毎晩毎食後に諳んじるに値する本質そのもの

まるで武道のような、そう、剣の達人が己の腕を極限まで磨き上げようとするかの如く。ページをめくるごとに「ああ、俺ももっと文章がうまくなりたい!」というおもいがわきあがってきます。

もちろん心得だけでなく禁じ手であったり、ライターの道具であったり、読ませるための3感であったり、具体的な指南も盛りだくさん。しかし、それ以上に読み手に迫ってくるのは、以下のようなフレーズたち。

読者は、あなたに興味がない。読者にとって、あなたの書こうとするテーマは、どうでもいい。冷厳な現実だ。しかしこの現実を認めるところからしか、始まらない。
自分のなかに、どうしても解決できない、しかし解決しないと前に進めない問いがある。その問いに答えようと試みるのが、究極的には<書く>ということの本質だ。
注文は、いくらでも受けたらいい。そして、注文通りには変えない。注文の上を行く。自分の内面に深く沈み、自分を変える。新しい表現を探す。
ライターは、作家は、世間に向けて、他者に向けて、書くんです。なんとも音がしない、ブラックホールのような深い井戸に石を投げ込むのであっても、絶えず、倦まず、石を投げ込むんです。ゆっくり行く者は、遠くまで行く。歩くように、息をするように、健やかに、今日もまた書き続ける。石を投げ続ける。
文章の違いとは、人間の違いである。人格の違いである。複数のグルーヴ感を持つ人は、複数の人格を持つ人だ。異なるグルーヴを持つということは、人生がカラフルになることを、直接的に意味する。けだし、ものを書くとは、一生を賭けるに足る仕事である。

とにかくぼくはこの本を読んで、文章を書くということは剣技や武道に通じるなあ、とつくづく感じました。近藤さんも、狩猟と文章はとてもよく似ていると書いています。

だとしたら、まだまだ。だとしなくても、まだまだです。もっと、もっと、もっともっと文章が上手くなりたい。

最近、企画やプロジェクト全体の設計にばかり意識がいっていたぼくは、おもいがけなく原点に戻ることができたような気がします。

もっと文章を上手く書けるようになりたい。そういう渇きのようなものを取り戻せたことが『三行を撃つ』の最高の効能でした。少なくともぼくにとっては。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?