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ラジオCMのアルバイトを一度断ったら二度と発注されなかった話
なんとなくのイメージとして、コピーライターとして会社に属していながら外部からの依頼を受けてアルバイトをするようになれば一人前のクリエイター、という先入観がありました。
なので、目黒の代理店で求人広告制作に飽き飽きしていたとき、コピー学校時代の友人から「ハヤカワァ、ラジオCMつくってみない〜?」とやや間延びした声でお誘いがあったときは一も二もなく飛びついたものです。
「やるやる、なんならギャラいらない」
「バカいえよ、ちゃんと払うよ安いけど」
友人はコピー学校を卒業したあとラジオCMの名門といわれる『トリプロ』にアシスタントプロデューサーとして入社していました。プロデューサーというとすごい人ってイメージがありますよね。でも「その前にアシスタントが付くと、とたんに雑用係になるんだよ。まいっちゃうよ」とその友人は町屋のスナック“バッカス”で飲みながらいつもこぼしていました。
持ち込まれた案件は某ファミレスのラジオCM。もう30年ぐらい前の話なので時効だとはおもいますが、一応クライアント名は伏せますね。なんたってNDAなんて結んでない、そんな書類存在するのかもわからない、おおらかな時代の話なんですけど、ま、一応。
依頼の内容はテーマを与えられて3案から5案ほど、20秒と40秒の2ヴァージョンずつ作れ、というものでした。テーマというのはその時々のフェアやキャンペーンです。
友人はもうすっかり飽き飽きした、といった雰囲気で「毎年毎年やんなっちゃうよ。夏の北海道フェアとか、冬のあったかシチュー祭りとかさぁ」とその仕事の自由度の低さにぼやいていました。まだ2年目なのに。
その一方でぼくは自分のコピーが採用されたら電波に乗って放送されるということに興奮していました。要するにやる気マンマンだったのです。
昔から妄想好きのぼくは、このラジオCMがきっかけとなってTCC最高新人賞?いや賞は獲れなくてもライトパブリシティやサン・アド(有名プロダクションの名前です)から声がかかるかも。あるいはトリプロから直接スカウトされるっていうことも?と、都合よくニヤニヤしていました。
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いきおいあまって初回、依頼本数の倍以上アイデアを提出することに。若気の至りですね。結果は全ボツ。ただ熱意と意欲は認めてもらえたようです。おそらくほとんどのコピーライターがあまり乗り気にならない案件なのでしょう。でもぼくにとっては大事な大事なメジャーへの入口です。
「ハヤカワ、お前のコピー全然使えないけど前のめりな姿勢がいいってディレクター言ってたぞ。2ヶ月に1回依頼したいそうだけど大丈夫?」
もちろんです。しかも初回全ボツだったにも関わらず、銀行にはギャラが振り込まれていました。この時ですね、神の存在を信じたのは。
そんなこんなで数回、提出を続けていくと次第に勘所がつかめてきたのか、大幅な修正を入れられながらもちょいちょいアイデアが採用されるようになってきました。
こうなるともうウキウキです。絶対に通るであろう鉄板ネタを1つ作ったら、こんなのはどうだ!という外角高めでアクロバチックな案を3つ作るようになりました。
いちばん印象深かったのが、どうにも『北海祭り』のアイデアが尽きて、やぶれかぶれで作った原稿が採用になったこと。しかもはじめて一切赤が入らず、でした。こんなラジオCMです。
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SE:波が寄せる音
女性: パクッ、ジーン…
パクッ、ジーン…
パクッ、ジーン…
パクッ、ジーン…
NA:彼女はいま、○○○○が贈る『冬の北海祭り』のおいしさに、一口ずつ感動を噛み締めているところです。ノルウェーサーモンステーキ、ホタテのバターソテーなど冬の主役が目白押し!○○○○『冬の北海祭り』開催中!
♪:サウンドロゴ
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細かいところは記憶があいまいなのですが、まあだいたいこの通りの原稿。まさか通るとはおもってなかったので、若干雑な仕上げだったのですが、これがディレクターやクライアントからも好評でした。なんと収録したテープまで送ってくれました。
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そんなラジオCMのアルバイトはある日突然終了します。ぼくが最も力を入れてラジオCMを書いていたのは約1年。その間に2度転職をしたのです。3社目となる六本木のアウシュビッツとして業界でも有名なプロダクションに文字通り身柄を拘束されていたある日、トリプロのディレクターから電話がかかってきました。
ちょうどそのとき、ボスにコピーのダメ出しをされまくっていたぼくは、折返しかけなおすと伝えて、引き続きダメ出し地獄に自ら戻っていきました。そして「どうしよう…とてもじゃないけどラジオCMやってる余裕ない…」と三日目の徹夜で朦朧とするアタマをフル回転させます。
その後「ちょっと出てきます」とボスや先輩の目を盗んで中国飯店の並びのタバコ屋の公衆電話からディレクターに電話します。しかし、運悪くディレクターは不在。このまま事務所に戻ったらまたいつ電話できるかわかったもんじゃない。ぼくは、伝言を頼みます。
「明日からロケで一週間ほど海外に行くので戻ってから対応したい。ついては一週間後にまた連絡をくれないか」
一瞬で考えたにも関わらず、我ながらいい言い訳だと思いました。ぼくは丁重にお詫びを伝えて、電話を切りました。それから一週間後、電話はかかってきませんでした。二週間経っても三週間経っても、二度とトリプロから仕事の依頼はきませんでした。
甘かった。
一度でも依頼を断ったら二度と声がかからなくなる。
これがプロの世界だ。
コピーライターなんて世の中に履いて捨てるほどいる。こっちのコンディションなんて関係なく請けるべきだった。
ラジオCMは自分でも最も楽しく取り組んでいた仕事だったので、ものすごく後悔しました。大事な大事なメジャーへの入口だったのに、ETCカードを挿入していなかった。いやそもそも車載器すらついてなかった。そんなかんじ。自らチャンスを捨ててしまったことにひどく落ち込みました。
そしてそれ以来、声をかけていただいた仕事はすべてお請けする、という全日本プロレスばりのストロングスタイルを確立したぼくなのでした。
あれから30年。
今日もぼくは仕事に追われています。小さいのから大きいのまで、オファーがあればぜんぶお請けしています。まったくいつになったら仕事を追いかけることができるようになるのか。村上春樹風にいえば「やれやれ」です。悪くないけどね。
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