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コピーライターという仕事をキャリアの最初に選んでよかったな、とおもうひとつふたつの事実

アナタの仕事はなんですか?と尋ねられると、ちょっと前までは「コピーライターです」と返すことにこだわっていた。

たいがい、コピーライターって広告の?と聞き返されるぐらいの市民権は得られている職種だ。

しかしわたしは広告をつくらない(つくれない)コピーライターなので、いいえ広告はつくりません、と返すことになる。

さあ、ここからがたいへんです。

相手をいたずらに混乱させてしまうことになる。

え?コピーライターなのに広告をつくらないの?どういうこと?そんなコピーライターなんているの?と顔に書いてある。

しかし広告をつくらないのは事実だし、わたしがコピーライターなのもまた事実である。そこでわたしは以下のような説明をこころみる。

「わたしは広告はつくりませんが、仕事においては広告づくりに相応するアプローチで臨みます。つまり予算、掲載時期、掲載場所などを考えて、出稿目的と期待する効果を明確にし、誰に何をどのように伝えるかを強く意識しながら時にはインタビューをつくり、時には採用コンセプトを練り、時にはステートメントを綴ります。要するに全ての行為行動に狙いを持っていて、それがわたしがコピーライターを名乗る所以なのです」

ほぼ、伝わりません

伝わらない時点でわたしのコピーライターとしての能力に大いなる疑義がかけられるのが残念でならない。

しかしWebの世界になってからというもの、結構あちこちで漠然と書かれた企業メッセージや社員インタビューが見受けられるんですよ。

文章をつくって世に問うハードルが下がったこと自体はすばらしいのですが副作用が文章業者の首を締めているのである。

そういう(これ絶対なんにも考えずに書かれてるよなー)と思われるWebのテキストを見るたびに(だから若い人は文章を読まないとかWebでは文章を読まれないとか言われちゃうんだよなー)なんておもう。

そういう輩と一線を画したい!という気持ちがわたしにあえてコピーライターであることを名乗らせていたのね。

最近はあんまり「コピーライターです」にこだわっていません。


そんな、わたしの職種名についてのこだわりは今回の主題ではない。

紆余曲折あっていまに至るのだが、とりあえずキャリアのスタートをコピーライターではじめたことで、いま振り返ると「よかったな」とおもえることがいくつか、ある。

「選択はまちがってなかった」「世の中がうまい具合に変わってきた」そんなふうにもおもえるふしが、ひとつふたつ、あるのだ。

「転職」が当たり前の価値観

正確には「転社」なのですがややこしいのでここでは「転職」といたします。わたしが就職したのは昭和64年。属にいう平成元年ですね。

この時代はまだ転職について世間一般の風当たりは強かったと思います。もちろん東京や大阪など一部の大都市においてはずいぶん緩和されていましたが、それでも一般的には自発的に「勤めている会社を辞める」「新しい会社に移る」といったことに対するハードルは決して低くありませんでした。

ゆえに「新卒で入社した会社に一生勤め上げる」ことが美徳、人生における最良の選択であると本気で思われていたのです。

しかし時代は変わりました。いまやエンジニアを筆頭に、少しでも良い条件のところへ新卒1年目からバンバン転職します。

条件面やキャリアアップみたいなポジティブな理由以外、つまりパワハラやらセクハラといったネガティブな理由でもバシバシ転職します。

かつて糸井重里先生はもののけ姫のキャッチコピーで「生きろ。」と書きました。いまは「逃げろ。」です。逃げることが生きることにつながるという恐ろしい社会なのです。

この「すぐ転職する」という風潮に顔をしかめたり目をそむけたり鼻を曲げたり耳を閉じたりするタイプが昭和世代の方々には多く見られます。

しかしわたしは昭和世代でありながらそういう感覚は一切持ち合わせていません。

コピーライターというのは太古の昔から転職すればするほど好待遇、いい条件で仕事ができるようになる、と言われてきた職業。

わたしなんか最初の会社に入社が決まったその日から転職先はどこにしようかワクワクしていたぐらいです。

ライトかな、サン・アドかな、電博も俺のことを放っておかないだろうな。ホンモノのバカは自分が馬鹿だとは一ミリも思わないものです。

実際に求人広告代理店を皮切りに広告の世界で5社、キャリアの途中で挫折して居酒屋にも1社、転職を重ねていきてきました。それだけ転職は当たり前という価値観が染み込んでいるのです。

親族一同や古くからの友人はポンポン職場を変えるわたしをみて、よく頭の右上で指をぐるぐる巻いていたものです(それ自体は事実です)。だけど時代は流れ、ビズリーチやインディードのCMを見るまでもなく、転職は世間一般のスタンダードとなりました。

コピーライターのようにキャリアアップのためではないにせよ、会社を移ること、仕事を変えることはなんらおかしなことじゃない。

この感覚を社会に出た瞬間から持てたのはよかったことのひとつかなと。

「出世」の概念がない

転職の話にも共通することかもしれませんが、キャリアアップの道に正解はない、ということも割と古くから価値観として持っていました。

もちろんボンヤリとサクセスイメージはありましたよ。

20代で広告賞→有名プロダクションか電博あたりからスカウト→TCC新人賞で華やかにメジャーデビュー→Sのつくクライアントを次々と攻略→ザギンでデルモのチャンネーを両手にシースー→ロケで一緒になった西野七瀬と熱愛の末ゴールイン→50歳で広告界の名誉殿堂入り→老後はワイハに所有するコンドミニアムで…

まず、なにひとつ叶っていません。いまこの文章を書いているわたしを見た人は不思議に思うでしょう。そしてこう声をかけるはず。

「……それは泣いてるの?笑ってるの?」
「両方ぉ」

まあ、ここまで極端でなくてもふつうのサラリーマンなら一兵卒からスタートして主任、係長、課長、部長、本部長、常務、専務、副社長といったステップアップを理想のキャリアとするはず。

わたしは幸にも不幸にも、コピーライターという仕事のおかげでこうした垂直型のキャリアを一切志向しませんでした。

管理職どころかクリエイティブディレクターにもなりたくなかった。そりゃ高い立場から大きな仕事ができてとてつもない醍醐味がある、ということぐらいわかっています。ディレクションは大事だし。

だけど、わたしはずっと手を動かしていたかったのです。

そんなわたしにも人生のある過程で、ほんのちょっとした誤解と周囲の気づかい、あと組織の事情で管理職をやらざるを得ない時期がありました。

あれはつらかった。しんどかったし、つまらなかった。適性も能力もない、と裏で囁かれていたようですが、その通りです。だってトコロテン式にポジションアップしていっただけなんですから。

ひとつ自分の身を助く行為だったのは、隠れて手を動かし続けてきたことでした。上司からは「書くのは辞めて管理に集中」するようふわっと言われていましたが、こっそり部下のディレクションをしつつ自分でもコピーを書いたり、場合によっては肩代わりしたことも。

あれ、やっといてよかった。期待してくれた上司には申し訳なかったけど、そのおかげでいまでも手を動かし続けていられます。この仕事は手を止めたら止めただけ、ハラハラと積み上げてきた力が散ってしまうのです。

もはやザギンでシースーみたいな夢はない。西野七瀬を嫁にするという野望も潰えた。いまはただ、自分の持っている能力で誰かの役に立ちたいだけなんです。その対価としていくばくかの金子をいただければ。

だからいまがいちばん幸せです。名誉も地位も、お金もそんなにないけれどいまのところ喰うには困らない。これでいい、ではなくて、これがいいとおもえている。それがよかった。

おかげでいまの若い人の「管理職になんかなりたくない」という気持ちも肯定的に受け止められます。一方で少ないけれど管理職時代にいい思い出もあるので、そういうこともあるよとフラットに助言もできます。


「ひとつ、ふたつの事実」と書きましたが実はもうひとつあるんです。でも文字数がキャパオーバーになってしまいました。いつものことですが前説が長すぎるんですよね、ごめんなさい。

このテーマはもしかするとキャリアの選択に頭を悩ませている大学生、特にインターンなどに参加しつつも迷いが生じがちな若い人に流れに身を任せながらも周囲に惑わされず譲らないところは死守しようということが伝わるといいな、とおもっているので、またどこかで書いてみたいです。


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