山頭火に遊ぶ-新緑病と煙霞僻
アルコール依存症、カルモチン中毒、神経衰弱
循環気質、多血気質、新緑病、煙霞僻
これは近畿大学臨床心理センターの人見一彦先生が指摘されている山頭火の病気と気質及び体質である。(「山頭火の病蹟(2)」)山頭火はこんなにたくさん心身の問題をかかえて生きていたのかと驚かされる。今回は、この中の「新緑病」と「煙霞僻」について、人見先生の論文に即して述べることにする。
▢新緑病
「新緑病」という病名はない。山頭火が自分の症状に勝手に名づけたものらしい。この「新緑病」は、人見先生によれば、「季節性感情障害」が最も近いということである。
新緑と言えば4、5月ごろの若葉や木々が芽吹く現象であるが、山頭火のいう新緑病は6月の梅雨の時期にやってくる。
昭和7年の「行乞記」を読むと、6月に入ると徐々に鬱的症状が現れ、「アルコールよりカルモチン」という記述が繰り返し出てくる(3,4,9日)。極度の不眠症になっているのである。そして10日には「私の因縁時節到来!」となる。この日の句。
ふたゝびこゝで白髪を剃る
どうでもこゝにおちつきたい夕月
朝風の青蘆を切る
これだけ残つてゐるお位牌ををがむ
あるだけの酒のんで寝る月夜
吠えてきて尾をふる犬とあるく
まとも一つの灯はお寺
「新緑病」のどん底状態に入るのは28日である。
この日から30日までの3日間、句は記されていない。翌7月1日には次のような句が並ぶ。
何でこんなにさみしい風ふく
手折るよりぐつたりしほれる一枝
とりきれない虱の旅をかさねてゐる
雨にあけて燕の子もどつてゐる
縞萱伸びあがり塀のそと
いちめんの蔦にして墓がそここゝ
「さみしい風」は心に吹いているし、身体は「ぐつたりしほれ」て、見えるのは「虱」「縞萱」という索漠としたもの。そして「墓」。救いは「燕の子」くらいか。辛く萎えたような日々が続いているのである。
▢煙霞僻
この「新緑病」を含む病や気質から彼を救い出すのが「煙霞僻」(深く山水を愛して執着し、旅を好む習癖)である。人見先生は次のように述べておられる。
この「煙霞僻」は山頭火の旅と人生にとても貢献している。この「不治の宿痾」がなかったら山頭火の句はこれほどの豊かなものにならなかったかもしれない。
分け入っても分け入っても青い山
言わずと知れた山頭火の代表句であるが、人見先生は「煙霞僻」の最も発揮された句としてあげておられる。煙霞の奥へ奥へと分け入るように旅をする山頭火の姿が彷彿とする句である。
この句が詠まれたのは、大正14年4月。まさに煙霞の季節である。
以上、今回の記事は人見一彦先生の論文にほとんど依存しています。
〈人見一彦「山頭火の病蹟(2)」〉は、ネットでダウンロードできます。
とても参考になります。ぜひ、ご一読ください。
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