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本阿弥さんも激賞した国宝『大包平』や、家康が認めた刀工……@東京国立博物館

本阿弥ほんあみ家と言えば、まず一般的に思い浮かべるのが、本阿弥光悦こうえつさんですよね。だけれど、同時に知られているのは、この本阿弥家が「刀剣の鑑定および研磨をその家業としていた」こと。本阿弥光悦こうえつさんも例外ではなく、その本業はそちらでした。

そんな本阿弥ほんあみ家が、刀剣の鑑定結果を記した文書を、折紙(おりがみ)というわけですが、将軍が徳川吉宗だった時代に、「全国に散らばる名刀をまとめあげなさい」と命じられて編んだのが「享保名物帳」という一冊でした(現在は、その写し……複製しか残っていません)。

この中には、既に焼失などした81振を含む274振がリストアップされていました。その274振を「名物(めいぶつ)」として、今でも作品名の前に冠していることが多いです。

東京国立博物館(トーハク)では現在、そんな「名物」の一振り《太刀 名物 古備前こびぜん包平かねひら(名物 大包平おおかねひら)》が、展示されています(2023年12月3日まで)。

《太刀 名物 古備前こびぜん包平かねひら
(名物 大包平おおかねひら)》
銘 備前国包平作 平安時代・12世紀

解説パネルを読むと「包平は平安時代末期に備前国(岡山県)で活躍した刀工です。本作は包平の最高傑作で日本刀の横綱と称される名刀です」と記されています。こういう「(包平の)最高傑作」や「横綱」などという言葉は、解説などでは普通は使わない……使ってはいけないとされているかと思います。なぜって、こうした数値ではっきりと判定できない評価は、「誰が評価・判定したのか?」が問われるからです。通常は、例えば「最高傑作の一つ」とか「逸品」などと、少し逃げるはずなんですよね。そうした言葉を大包平については断言できる……そんな理由があります。

明治〜昭和に生きた本阿弥光遜さんは、著書『日本刀大観 下巻』の中で、大包平について下のように記しています。

「古来『西に大包平  東に童子切りあり』と本朝名刀列傳の横綱格に讃へられてゐる池田侯爵家の重寶じゅうほう(宝)享保大名物の大包平は古今の名刀として海内にその名が轟いてゐる。」

ちなみに作られたのは、大包平が備前国=岡山県で、童子切(安綱)が伯耆国=鳥取県の西半分なので、どちらも西日本です。

「長さは二尺九寸四分、三尺(約90cm)に垂々なんなんとする長寸で、表裏に一の叢もなき美事な棒樋を掻き中心へズーッと掻通し、地(じがね)はあくまでも美しく小杢目肌もくめはだで、刃文は小沸出来の丁子亂匂深くして鋩子(ぼうし)切っ先亂込みだれこみ、豪壯雄大にして健全無比 殆んど打おろしのままに保存されたものであつて、生中心鏨のあとも鮮やかに備前包平と銘がある。」

さらに本阿弥光遜さんは、1940年に開催された皇紀二千六百年奉讃展に出品されていた、大包平を見た時の感想として次のように記しています。

「この大包平の太刀は、皇紀二千六百年奉讃展に特別出品されたが、じつに堂々として滿堂まんどうを●し、周圍しゅういに陳列された國寶国宝の一文字、長光級の名刀も大包平のめに全く影の薄い存在の如く見えたのも如何に結構なるものであるかが窺ひ知るうかがいしるのである。

もうね《大包平》の前では、どんな国宝の刀剣も、存在感がありませんでしたよ……というほどの大大大絶賛しています。あの本阿弥さんがですよ、これだけ言っているのですから、トーハクの解説パネルに「(包平の)最高傑作」や「横綱」と記しても良いわけですね。

ちなみに参照した本阿弥光遜著の『刀剣鑑定秘話』には、本阿弥光悦さんと、以前noteに記したことのある、近衛信尹のぶたださんの逸話が記されていました。近衛信尹についてはこちら

或時近衛三藐院信尹公が光悦に向ひ
「今天下に能書と云ふは誰ならん」
と問ふた時に、彼は
「先ず、次は君、次は八幡の坊(松花堂)なり」 と答へた、そこで信尹公が
「その先は誰なるぞ」
聞くと
「恐れながら私也」
と平然と云ふその自信と見識には驚くべきものがあつた

本阿弥光遜 著『刀剣鑑定秘話』

近衛信尹のぶたださんと本阿弥光悦さんが、茶室ででも、そんな話をしていたとしたら面白いですね。

参照:本阿弥光遜 著『日本刀大観』下巻,日本刀研究会,昭和17. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1125212

■葵の紋

最近のトーハクは観覧者が例の感染症が流行する以前に戻ったようで、独り占めしてじっくりと刀剣を見つめることがしづらいです。じっくりと見ようと思えばできないこともないのでしょうが……わたしは誰かと一緒に鑑賞するのが苦手で……どうしてもそばにいる人が気になってしまいます。

ということで、刀剣鑑賞時にも、近くに誰も見ていない展示品を見ながら、人がいなくなるのを見計らって、ササッと見に行くのが常です。そうしてジーッと見ていると、また「何か業物なのか?」と寄ってくる人がいるので、また近くの鍔(つば)などを見るフリをして……というのを繰り返すわけです。残念ながら、誰かが見ている時に、脇から覗きみて、次第に体を展示品の正面へとぐいぐいと入れてくる……というのは、博物館や美術館の鑑賞マナーとしては禁止されていないようで……むしろ奨励されているのでは? というほどに多いですね。

という愚痴をこぼしつつ見ていたのが、もうひと振りの《越前康継》でした。

《刀 越前康継》江戸時代・17世紀・文化庁

わたしは、刀剣の良し悪しは全く分からないため、いつも最初に解説パネルを読みます。国宝なのか重文や重美なのか……はたまた著名な武将や実業家の持ち物だったのかに注目して、何か引っかかるものがあれば展示品を眺めるという……まぁ正しい鑑賞法なのか邪道なのか知りませんが、そうしています。

で、《越前康継》です。“越前”の“康”継と言えば、まず思い浮かぶのが結城秀康でしょう。そして解説を読み進めると、「 徳川家康から技量を認められて“康”の字を賜り、茎(なかご)に葵紋を切ることを許された名工」と記されています。あ……家康さんの“康”だったのね……となったわけですが、それもすごい……というか、そっちの方がすごいですよね。

見れば、葵の御紋がしっかりと入っています。さらに肥後大掾だいじょう藤原越前康継と刻まれています。肥後(熊本県)はなんだかわかりませんが、「大掾だいじょう」で「藤原」で「越前」の「“康”継」ですからね……なんかすごい。

そこから刀身を見ていくと、解説に「反りが浅く鋒が伸びた鋭い姿で、精美な板目の地鉄に冴えた小乱の刃文を焼入れています」というように、たしかにそんな様子がしてきます。とにかくキレイ。

専門用語でなんというかは知りませんが、刀身の真ん中あたりがしっかりと厚く造られていて、そのあたりに対象物に刃をあてて、重さに任せて刀をサーッと引いていけば、切れないものはなさそうにも思われます。

ところで今調べて見ると、(初代)康継さんは近江国(滋賀県)長浜市下坂の出身なのだそうです。慶長年間(1596年〜)の初頭に、越前(福井県)へ移り住み、越前北ノ荘藩主の結城秀康(徳川家康次男)のお抱え鍛冶となったとあります。そしてこの結城秀康が、家康・秀忠に「とーちゃん、弟よ、この刀匠の腕はすごいぜ!」と推薦。「おぉ秀康よ、良い刀匠を紹介してくれてありがとう!」ということになって、「隔年で江戸と越前を参勤して、作刀するように」と命じられたとあります。と同時に“康”の字をもらい、康継と改銘するとともに、葵紋を刻むようになったと……。

それにしても結城秀康さんって、絵師の岩佐又兵衛さんも何年か抱えていたらしいので、色々と人材を集めていたんでしょうね。この、お父さんの家康に推挙した刀匠が、父や弟のお抱えにもなるっていうあたり……家康や秀忠からも、結城秀康が信頼されていたともいえるエピソードのような気がします。今後、NHK大河ドラマ『どうする家康』でも、重要キャラとして出てくるかもしれませんね。あと、後の代に結城から松平に変わってしまいますが……幕末の藩主・松平慶永よしながまで人材を広く登用するという伝統が伝わっているような気もしました。

ちなみに「康継」の名は、幕末まで代々引き継がれていくのですが、どうやら刀匠としての腕は、3代(初代の弟)までで途絶えてしまったような感じで、Wikipediaには記されています。

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