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浮世絵の展示室に『洛中洛外図屏風』とは、これいかに? @東京国立博物館

先日、東京国立博物館(トーハク)の浮世絵コーナーを覗いてみると、《洛中洛外図屏風》が右隻のみ展示されていました。

《洛中洛外図屏風》と聞くと「教科書にも載っている、あの有名な?」と思いがちですが、《洛中洛外図屏風》は戦国時代から江戸時代にかけて多く制作されました。まぁ上流階級で流行ったものが、じょじょに一般化していったのでしょう。現存するものの中でも30〜40点が良質なものと言われ、2点が国宝、5点が重要文化財に指定されています……ということは、以前、堺市博物館所蔵の《洛中洛外図屏風》を紹介した時に記しました。

筆者不詳《洛中洛外図屏風(右隻)》江戸時代・17世紀・個人蔵

今回の作品については、解説パネルがなく、展示場所では何が何やら分からなかったので、気になる部分を重点的に撮影して、いま調べながらnoteを記しています。

その結果、分かった範囲で寺社などを記すと、下図のような感じです。

《洛中洛外図屏風》では、まず目印となる鴨川(加茂川)が、どこを流れているかをチェックしてから、他の名所を見ていくと分かりやすいです。この作品では、右隻の左側やや上の方から、流れているのが分かります。その右隻で流れの始まる場所が下鴨神社でしょうか……(自信がありませんw)。

仮に下鴨神社として、近くに馬場が描かれています。調べてみると、下鴨神社に馬場があったことが分かっています。下流を見ると、三条大橋があり、こちら側には、境内に五重なのか三重なのかの塔がある寺がいくつかあります。これはおそらく本能寺と誓願寺です。

下鴨神社と、馬場が描かれています
真ん中に三条大橋があり、手前の左が本能寺で、右が誓願寺

さらに川を下ると方広寺の大仏殿が描かれています。大仏殿に関しても、以前、堺市博物館所蔵の《洛中洛外図屏風》を紹介した時に記しましたが、豊臣秀吉が建てたものは1595年に造立し、翌1596年の慶長伏見大地震によって損壊しているんです。でも江戸時代に入ってからの1612年に再建されて、1662年に雷によって損壊するまで存在しました。さらに5年後の1667年にも再建されているので、江戸時代の多くの時期に、京にも大仏殿があったんです。トーハクの個人蔵の《洛中洛外図屏風》にも、大仏と大仏殿が見られます。

大佛殿の正面にある、こんもりとした小山が、「耳塚(鼻塚)」。大仏殿の裏手にあるのが、日吉社(豊国神社)

下図は、幕末の1863年に書かれた京都の地図『新増細見京絵図大全』です。そこにも「大佛殿」と「釣鐘」と記されていますね。その山門の近くには「耳ツカ」とあります。「鼻塚」とも言われ、豊臣秀吉の朝鮮戦役の際に、彼の地の人たちの耳や鼻を切り取ってきたのを、供養しているとされています。

『新増細見京絵図大全』国立国会図書館

地図にも記されているとおり、大仏殿の隣が「三十三間堂」で、裏手にあたる場所にあるのが、「日吉社(豊国神社)」となります。

鴨川を下流から上流に向かって、舟がさかのぼっていますね。岸には、その舟を引っ張っている人たちがいます。舟には米俵らしきものが積んであります……運搬船でしょうか。

この五条大橋に関して有名なのが、豊臣秀吉が大仏殿を造営した際に、元の位置よりも下流に橋を架けたということです。元は、もう少し上流の、現在の松原橋のあたりに五条大橋がありました。つまり源頼朝こと牛若丸が、武蔵坊弁慶と出会ったとされる1160年前後には、現在の五条大橋とは異なる場所だったということになります。

方広寺の門前に描かれている五条大橋

その大仏殿から五条大橋を渡ると、賑やかな祭りが開催されています。これはまぁ、祇園祭ということで間違いないでしょう。

祇園祭の様子が描かれています。

五条大橋からさらに画面手前(西)に向かって歩いた場所に、六角堂が描かれています。ここに描かれているくらいなので、有名なお堂のはず。調べてみると、頂法寺の六角堂だとすぐに分かりました。

この六角堂(頂法寺)は、聖徳太子が創建したと言われています。六角堂の脇には池の跡があり、その池で聖徳太子が身を清めたと伝承されています。さらにその池のほとりにある坊(堂)ということで、住職さんは代々「池坊(いけのぼう)」と名乗ったそうです。

代々の住職、池坊さんは、仏前に花を供える際に様々な工夫をこらすようになり、室町時代には「いけばな」を成立させます。以上が、華道の家元の池坊さんの由来です。現在も住職……というか当主は池坊さんが代々継いでいます。

その六角堂から左側に視線を移していくと、天皇専用の乗り物である「鳳輦」があるので、行幸(ぎょうこう・みゆき)の様子を示しているのでしょう。ということは、ここが御所(禁裏)ということでしょう。

天皇専用の乗り物「鳳輦(ほうれん)」

とまぁ天皇の行幸が描かれているということは、この屏風が、慶安4年2月25日(1651年4月15日)の後光明天皇による行幸よりも以前の京都の様子を描いたということになります。また、前述のとおり江戸時代に大仏殿が再建されたのが1612年です。総合すると、1612年〜1651年の京都ということになりますね。

ということで、この《洛中洛外図屏風》は「右隻」と解説パネルに記されています。つまりは「左隻」がある……またはあったということ。こちら個人蔵なので、トーハクが「左隻」を預かっているのなら、次回あたり、今回の「右隻」に代わって「左隻」が展示されるのかもしれません。左隻には二条城などが描かれているんでしょうね……楽しみです。

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