見出し画像

暖冬の東京で、江戸の雪景色を見てきました@東京国立博物館

今年は暖冬ですが、東京の東側は特に暖かいですね。うちの場合は、今季エアコンをつけたのは、まだ2、3回くらいです。暖冬ということは、雪が少ないということ。今年の夏は、スーパーエルニーニョということで、暑い日が続くでしょうけど……同じくらいに心配なのが水不足です。

そんな心配をよそに、東京国立博物館(トーハク)では、雪景色が美しい浮世絵が展示されていました。浮世絵の部屋に展示されている約30点の中から気になった作品をnoteしておきます。


■菊川英山……って初めて知りましたけど、いいですね

まずは平台ケースというのか平型ケースというのか分かりませんが、展示室中央にある、寝かせて展示されている作品から。菊川英山さんという方の《風流雪ノ遊》です。このケースには、何枚かの組作品や連作などが展示されていることが多いのですが、今回も3枚組の作品が見られます。

《風流雪ノ遊》菊川英山(1787年〜1867年)筆・江戸時代・19世紀画像:東京国立博物館(TNM)

女性の描き方が上手だなと思いながら見ていましたが、作者の菊川英山さんって、今まで聞いたことがありません。サクッとトーハクの画像アーカイブを調べてみると、13作が所蔵されています。きっと1作くらいは見たことがあるのでしょうが……記憶にはありません。

展示されている《風流雪ノ遊》は、着飾った女性たちが子供と一緒に雪遊びをしている図です。

浮世絵師が描く女性と言えば、吉原遊郭……だと思いますが、本当にこんな情景が吉原で見られたのかは謎です。本当かもしれないし、菊川英山さんの妄想なだけかもしれません。

作者の菊川英山さんは、1753年生まれの喜多川歌麿や1760年生まれの葛飾北斎などのひと世代くらい後の1787年生まれです。造花屋が本業で、絵師もしていた菊川英二さんの息子として生まれ、狩野派の父に絵を習います。その後は円山四条派の鈴木南嶺に学び、さらに幼馴染であり葛飾北斎の高弟だった「魚屋北渓を通じて北斎風も学びました」。左記の「」内はトーハクの解説パネルによるのですが……“通じて”とか北斎“風”っていうのが分かりづらいですね。まぁ魚屋北渓の所蔵作などを見て自学しただけで、正式に弟子だったわけではないということでしょうか。

そうした経歴があるのですが、はじめは喜多川歌麿のような美人画を描いていたそうです。そこから「次第に六等身の六頭身のほっそりとした可愛らしい女性を描くようになり」ます。その最新ファッションを取り入れた美人画が江戸でトレンドとなり、解説パネルによれば「歌川国貞や国芳ら以後の絵師にも影響を与え」たということです。

椿や桃の花が咲いているので、2月や3月……旧暦だと1月2月の頃に降った雪なのでしょう。描かれているのは、芸者さんだけれどお母さんなんでしょうか。そういえば他の芸者さんか娼妓さんなのかを描いた作品でも、子どもが描かれていましたね。けっこう子持ちの女性も多かったのかもしれません(←大人気の娼妓さんは出産が許可されていたようです)。背中におんぶした子どもが、あっちへ行きたいよぉ〜と言っているのを、お母さんが聞いてあげている一瞬のようです。

もしこの女性たちが芸者さんや娼妓さんたちだとして……子どもがいるっていうことを、浮世絵師の菊川英山さんも知っていたんですね。ということは、特に隠していたわけではなかったということ。そして子供たちも着飾っているし、持っている傘も、子供用の小さな傘です。

Wikipediaを読んでみると、菊川英山さんが大人気だったのは1807年からの約10年。その後は「歌川国貞や弟子の渓斎英泉」へとトレンドが移っていってしまったとあります。ただ、わたしの好みでいえば、こっちの菊川英山さんの方が好きだなぁ。なぜ? って言われても明確には答えられませんが……まぁ実際の作品を見比べてみないとなんとも言えませんね。

さらにWikipediaには「晩年は不遇」という言葉があるのですが……そうでしょうか? おそらく仕事がなくなったために「弟子の植木屋孫八の家に寄寓」したり「上州(現群馬県)藤岡の呉服商児玉屋に嫁いだ娘トヨの婚家に身を寄せ」たりしたのち、同地で81歳で亡くなります。

仕事がなかったとしても、絵は描き続けていたようですし、弟子や娘の婚家に身を寄せていたなら、それはそれで良かったんじゃないかと思いますけどね。人徳というものではないでしょうか。さらに、Wikipediaでは、菊川英山さんを「菊川派の祖」としつつ、弟子の名前を19人も挙げています(ちなみに歌川歌麿は14人←もっといましたが、代表例として14人)。「英山の画風を継いだ者はいなかった」ということですが、多くの弟子が「菊川」を名乗ったというのは、菊川英山さんが弟子たちに愛されていた証だと思いたいです。

■女性もだけれど、その着物の絵柄が秀逸な豊国の美人画

そんな菊川英山が生まれた頃には、絵師としての道を歩み始めていただろう歌川豊国の《雪こかし》が隣に展示されています。同じく芸者さんたちが、娘たちなのか半玉(舞妓)さんたちなのかと、雪を楽しんでいる絵です。

ちなみに「雪こかし」は「雪転し」と書くようで、要は雪を転がして大きくしていく、誰もがやるアレですね。

さすが豊国さんという感じですが、とにかく服に描かれている絵柄のクオリティが高いですね。実際の服の柄を写生して描いたのか、もしくは豊国さんオリジナルの柄なのか知りたいところです。ちょっと花の絵柄が何の花なのか判然としませんが……前項の菊川英山さんが女性たちの背景に、俳句でいう季語のように椿や梅を描いているように、豊国さんは春の花やめでたいものなどを女性たちの服の絵柄で表現したのかもしれません。どちらの方が良いということではありませんが、その分、豊国さんの絵の方が、構図がスッキリとしている気がします(背景がグレーに近い白バックにしているので)。

【2024年3月20日加筆】
先日、トーハクのYouTubeチャンネルが更新されました。ちょうどここでnoteした鈴木春信さんや、歌川豊国さんの《雪こかし》を、担当学芸員(トーハクでは研究員)が解説していたので、興味深く拝見しました。ただ……この《雪こかし》の解説に、違和感を感じました。わたしは、ここに描かれているのは吉原の芸者さんたちだと思ったのですが、トーハク研究員は「武家の姫君といった雰囲気です」と解説していたんですよね。本当に武家の姫君が「牡丹模様の鮮やかな打ち掛け」を着るものなんでしょうかね……ちょっと疑問です。まぁ「武家の姫君といった雰囲気」と言っているだけで、はっきりと名言しているわけではありませんが…。

■風変わりな人だったっぽい歌川豊国

その歌川豊国が素晴らしいのは、絵だけではなく、優秀な弟子たちを育てあげたことではないかと思います。歌川派の中興の祖と呼ばれているそうなので、豊国がというよりも歌川派には、狩野派のように弟子を育てるシステムがあったのかもしれません。

その1人が歌川国虎です……というのを紹介したくて撮ってきたわけではないのですが、今回撮ってきた4人の作品の中に、たまたま入っていたのが国虎さんの《雪中山水》でした。

《雪中山水》歌川国虎筆|江戸時代・19世紀
A- 10569-5253

なんでこの作品が気になったかと言えば、この時代の他の絵師が描く風景画とは、雰囲気が全く異なりますよね。山の稜線もですし、木や家の屋根のこんもりした感じも、配色も独特です。少し洋画っぽいと言えるかもしれません。

少し調べてみると、彼の代表作の1つに《近江八景》を画題にしたものがあります。今回の《雪中山水》は、その《近江八景》のうちの一枚《比良暮雪》と全く同じ構図です。ただし、《近江八景》シリーズは、絵の右上に「近江八景 比良暮雪」とタイトルが記され、右下には宿場が描かれています。となると《雪中山水》は、試し刷りとか、そんな感じでしょうか? なんだか保存状態も、あまり良くないですしね…。

それにしても(初代)歌川国虎さんについては、あまりネットに情報がありません。それで昭和6年に井上和雄さんによって編集された『浮世絵師伝』を紐解いてみると……国虎さんが次のように記されていました。

「歌川をす、前田氏、俗久米藏、一に繁蔵、一龍齋と號す、 洋書の遠近法を用したる風景あり、就中「近江八景」最も●はる。 初代豊國の外孫伊川梅子刀自の直話によれば、國虎はを描く事をあまり好まざりしが、偶またまたま筆を執れば必ず相當そうとう出來榮出来栄えするものを作りき、師の豊國は常に彼が技を賞讃し、時には彼に代作せしめしこともありと、又彼は書を巧みにせり、特に碁と釣とを好み、服装などは極めて無作にしたりき、生涯身にして家を成さす、安政の頃六十歲を以て其が甥の家に歿しきと云ふ」
井上和雄 編『浮世絵師伝』,渡辺版画店,昭和6. 国立国会図書館デジタルコレクション

これを読む限り、国虎さんは天才肌という感じだったようです。《近江八景》シリーズは、当時も「おっ」となる人が多かったのでしょうね。

■さすがの歌川広重という雪景色

浮世絵の部屋には、20〜30枚くらいの額装の作品がざざぁ〜っと壁に掛けてあり、たいていは部屋の右からまたは左からベルトコンベア的に歩きながら見ていきます。ということで、館内が混んでる日は、なかなか落ち着いてじっくりと見られません。

わたしが行った日も混んでいたため、あまり近づいてみることもなく、作品から離れてささぁ〜っと見ていきました。その中で目が止まったのが、前項の歌川国虎さんの作品と、この歌川広重さんの《各所雲月花・井の頭の池弁財天の社雪の景》でした。

《各所雲月花・井の頭の池弁財天の社雪の景》歌川広重(1797~1858)筆|江戸時代・19世紀

歌川広重(安藤広重)さんもまた15歳の頃(1811年)に歌川豊国さんに弟子入りしようとしたら、門弟が多すぎるからという理由で断られたそうです。そこで同じ歌川の豊広さんに入門。1818年に……って、入門から7年後ですか……デビューを果たしています。

歌川広重さんの絵は、遠くから眺めても、特に青がきれいですね……ほんとに。今期は、広重さんだけで10作品が展示されていますが、この井の頭いのがしらの作品は、そのなかの1つです。こちらについては、構図の下半分の……写真では分かりませんが……池の冴えた青色と、上半分の雪が降る漆黒とのコントラストが素敵でした。

ちなみに、この鮮やかな青は……とWikipediaには次のように記されています……「日本古来の藍(インディゴ)の色と間違えられることがあるが、当時ヨーロッパから輸入された新しい顔料であるベロ藍つまり紺青である」んです。「欧米では“ジャパンブルー”、あるいはフェルメール・ブルー(ラピスラズリ)になぞらえて“ヒロシゲブルー”とも呼ばれる」そうです。

ということで……また

この記事が参加している募集

404美術館

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?