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【重要文化財の秘密】ゴッホやピカソに憧れた西洋画家・萬鉄五郎

先日、東京国立近代美術館東近美で開催されている特別展『重要文化財の秘密〜問題作が傑作になるまで〜』へ行ってきました。すでに関連記事を何度かnoteしましたが、今回の特別展は、その展覧会名にある通り、重要文化財に指定された(日本の)近代美術……絵画や工芸を集めたものです。

話は変わりますが……

美術や芸術やアートって、なんでごく一部の人にしか愛好されず、たいていの人が「いや全く分かりません。もう私に美術とかアートの話はしないでください」ってなっちゃうかと言えば、「この作品すごいよ! もう涙が出ちゃいそう」って絵画や音楽を観たり聴いたりしている隣で、「え? ぜんぜん良さが分からないし、早くこの場を去りたい」って思ったことがある……そういう体験がトラウマになったからだと思います。友人に誘われて、癖の強いエスニック料理店へ行ったものの、「これは美味!」ってむしゃむしゃ食べている友人の隣で、一口食べて「いや食べれないよ……この味は……」ってなった、あの記憶と似ている気がします。「もう二度とエスニック料理店へは行きたくないッス」みたいなね。この嫌な感覚って、たいてい小中学生の頃の美術や音楽の時間に体験するんだと思います。

今回の東近美での『重要文化財の秘密』は、そんなトラウマを抱えている人に……ってほど大げさな話ではありませんが……足を運んでみてほしいなと思える展示会でした。

なぜかと言えば、すべてが重要文化財! というのは、アートに疎いわたしたちには、とてもありがたいんです。というのも、普段から「美術って……アートってなに?」というくらいにしか思っていないので、たいていの美術やアート作品を観ても、何が良いのか分からないんですよね。それが「重要文化財」ってことになると、美術やアートの重鎮が、「これは凄いんだぞ!」と認定したわけです。刀剣で言えば「本阿弥さんからの折り紙付き」もしくは「お墨付き」と同様ですよね。なんらかの評価されたポイントがあるのだから、感覚的には良さが分からなくても、論理的には(?)良さが分かるはずです。

それだけなら小中学校の美術や音楽の時間と変わらないとも言えるのですが……今回の出展作品は明治以降の日本の作品に限られています。描いた人も評価した人も、感覚が日本の現代人に近いんじゃないかと思います。全ての作品の良さが分からなくても、一つくらいは「あぁ〜なんかいいなぁ〜」って思えるような作品に出会えるんじゃないかなと。出会える確率が高いような気がします。

わたしの場合は、そんな作品の一つが、萬鉄五郎よろずてつごろうの《裸体美人》でした。

萬鉄五郎よろずてつごろうの《裸体美人》
1912年・明治45年 東京美術学校の卒業制作として提出された
東京国立近代美術館蔵

実は、「なんかいいなぁ」とも思いませんでしたが、しばらく作品から目が離せなくなりました。なんでしょうね、この感覚。それほど美人でもイケメンとも思えないのに、釘付けになる……みたいな感じでしょうか。少し異様にも感じましたが、なんらかの魅力を感じたのだと思います。おそらく写真で観ただけなら、それほどの感覚にはならなかったでしょう。でも実物を観た後だと、撮ってきた作品の写真を観た時に、実物を観た時の感覚が蘇る気がします。

ちなみにこの作品は、ヨロ鉄が東京美術学校の卒業制作として、1912年に提出されたものだそうです。え? 東京美術学校の卒業制作って言ったら、自画像じゃなかったっけ? と思ったら、ヨロ鉄の自画像も東京藝術大学にちゃんとコレクションされているそうです。卒業制作は自画像+自由課題だったんですかね。

当時の東京美術学校には、まだ黒田清輝せいきが教授として幅を効かせていた時期で、《裸体美人》の評価は19人中の16番目と、悪いものでした。それなのに「本作は(中略)ゴッホやマティスの影響を受けて、主観的表現を試みた日本で最初の作品と位置づけられ、その後の個性の尊重された大正時代への扉を開いたとして戦後再評価が進み、2000年に重要文化財に指定されました」と、解説パネルには記されています。

曲解かもしれませんが、黒田清輝せいきがいる間は評価されなかったけれど、のちに「ヨロ鉄の試みって、当時の最先端を行ってたよね」と、戦後に評価が高まったということでしょう。

それにしても黒田清輝せいきという存在は、日本の近代美術の西洋化を推し進めたとも言われますが……そうとう後進の個性を潰していただろうことが想像できますね。

■MoMAコレクション(平常展)では別作品も観られます

そんな萬鉄五郎よろずてつごろうの作品ですが、平常展とも言うべきMoMAコレクションでは、他2作品が観られます。一つが《裸体美人》の翌年、1913年・大正2年頃に描かれたと思われる、ファン・ゴッホの作品に刺激されて描いた《太陽の麦畑》。もう一つが、1917年・大正6年に、パブロ・ピカソやジョルジュ・ブラックの「キュビズム」の影響が色濃く反映された《もたれて立つ人》です。

萬鉄五郎よろずてつごろう《太陽の麦畑》1913年・大正2年頃
東京国立近代美術館蔵

前年に描かれた《裸体美人》も、ヨロ鉄本人が「これはゴッホやマティスの感化のあるもの」と語っていたそうですが、《太陽の麦畑》も同様です。こちらの方が、ゴッホっぽいなと、わたしでも分かりやすいです。

解説パネルによれば、さらに「太陽の中心部を見ると、ちゃんとファン・ゴッホがやっ たように、黄色と水色の補色(色環の反対側にある2色)を用いて、その輝きを表していることがわかります。重さも厚みもない太陽光線をこってりと盛り上げた絵具で表す感じもなかな かです。」と褒めています。

萬鉄五郎よろずてつごろう《太陽の麦畑》1913年・大正2年頃
東京国立近代美術館蔵

《もたれて立つ人》が、「キュビズム」の影響を受けているのは、わたしでも分かりますね。当時の最先端が……わたしには良さがさっぱり分からない……キュビズムです。まぁでも日本人が咀嚼したキュビズムだからなのか、ピカソなどよりは、こちらの方が理解できるような気がしなくもないと言えそうな気がします。

萬鉄五郎よろずてつごろう《もたれて立つ人》1917年・大正6年
東京国立近代美術館蔵

とはいえ、何が描かれているのか、解説を読まないと「人のようなものが描かれているのかもな」という程度にしか分かりませんでした。

こうして3作品を眺めると、萬鉄五郎よろずてつごろうは、ミーハーだったのかもしれませんね。少なくとも晩年まで、萬鉄五郎ならではの画風は、確立できたとは言えなそうです。

萬鉄五郎もですが、青木繁なども、個性が最も際立っているのが、東京美術学校を卒業する前後の作品だったというのが、寂しい気がします。自己が確立していない時期……最も尖っていた時期の作品だけが評価されているというね。やはり西洋美術を学習中だったという印象が強く、それを消化した上で個性を加えていき、自分だけの何かを確立していくというのが、困難だったのかもしれませんね。まぁいずれにせよ、自分だけの何かを確立するなんて、いつの時代でも難しいでしょうけどね。

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