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私たちを極楽往生させてくれる阿弥陀さんの姿とは? @トーハク

東京国立博物館(トーハク)の展示についてです。もう終わってしまいましたが、特別展「法然と極楽浄土」の関連特集として常設展(総合文化展)で、7月7日まで見られるのが、特集『阿弥陀如来のすがた』です。本館2階の特別1室という、それほど広いわけでもない部屋ですが、同館所蔵または寄託されている阿弥陀如来がずらりと並んでいます。7月7日まで見られます。

改めて「阿弥陀如来」は、西の方にある極楽浄土に住んでいるそうです。「阿弥陀」が名前のようなもので、「如来」はランク……最高位であること示します。そのため「阿弥陀さん」とか「阿弥陀仏」などと呼ばれることもあります。

如来になる前の彼は、菩薩というランクでした。その頃の彼は「法蔵比丘びく」とか「法蔵菩薩」と呼ばれていました。菩薩は、一般的に悟りを求める修行者のこと……つまりは悟りを開いていません。ワンピースのルフィは、「海賊王に、おれはなる!」と誓っていましたが、菩薩の頃の阿弥陀さんも「おれは如来になる!」と決意しつつ、「だからおれは、すべての人を救う!」と決心し、悟りを開くための48の誓いをたてました。この48の誓いを達成できなければ、悟りを得られないし、如来にもなれない……と考えたそうです(四十八願)。

その後、菩薩だった阿弥陀さんが、48の誓いを達成したのかどうかは知りませんが、彼はめでたく如来になりました。この達成したかどうかは仏典に記されていないようなのですが、如来になったということは……当然、48の誓いを達成したはず!…… と、後世の人は考えたんです。

阿弥陀さんが達成しただろう、その48の18番目の誓いに「至心ししん信楽しんぎょうの願」という項目がありました。これは「阿弥陀さんのいる極楽浄土に生まれたいと、心を尽くして(至心)、信じて願う(信楽)人がいれば、必ず来られるようにする(往生)」というもの。ざっくりと言えば「極楽往生したいと願う、すべての人を往生させます」という誓いです(四十八願の第十八願)。

ここから、「阿弥陀さんを信じて頼れば、誰でも極楽往生できる」……「南無阿弥陀仏を称えとなえれば、誰でも極楽浄土へ行ける」……と考えられるようになり、その考えが平安時代頃から大トレンドになり、法然や親鸞の浄土宗や浄土真宗などの教えにつながっていきます

でも……たいていの人は「阿弥陀さんって、誰やねん?」って、関西弁で思うわけです。そこで僧侶などが、阿弥陀さんの説明をするわけです。前述した四十八願の話をするでしょうし、阿弥陀さんがどんな様子で私たちを浄土へ連れて行くのかなども話すでしょう。その中で用意されたのが阿弥陀さんの偶像だったのではないでしょうか。「この方を信じれば、あなたも浄土へ往生できますよ」と。


■法隆寺の金堂の第六号壁画の模本

展示室で最も目立つ存在なのが、法隆寺の金堂壁画の模本です。

法隆寺の金堂壁画は、昭和24年(1949年)1月26日の解体修理中に、火災で著しく焼損してしまいました(焼け残ったものが現在も保存されています)。この壁画焼損事故をきっかけに文化財保護法が作られたと言われていますが、焼損以前に、特に法隆寺の金堂壁画については、適切に修復し保存管理したいという機運が高まっていたそうです。だからこその昭和24年の解体修理だったのですけどね。

焼損壁画に合掌する法隆寺の佐伯定胤貫主(1949年1月26日撮影、翌日付の『朝日新聞』に掲載されたもの。佐伯が手を合わせているのは10号壁、背景は12号壁)
画像&文章ともWikipediaより

とにかく飛鳥時代の7~8世紀に描かれた損傷が激しい壁画を、これからどう修復保存していくべきかの議論は、明治の初期からありました。そこで「とりま…模写しておこう」ということになり、1884年(明治17年)に、政府は桜井香雲(1840-1902・44歳前後)に模写を委託しました。その模写の1つが、今回展示されている《法隆寺金堂壁画(模本) 第六号壁》です。

桜井香雲《法隆寺金堂壁画(模本) 第六号壁》

前述のとおり、昭和になって解体修理中の火災で、飛鳥時代に描かれた壁画は、甚大な被害をうけてしまいました。その後、前田青邨や安田靫彦など当時の一流絵師たちによって、壁画は復元されることになります。その時に参考の1つにしたのが、トーハクに所蔵されていた、桜井香雲さん模写による《法隆寺金堂壁画(模本) 第六号壁》です。今季、展示されているものも、その1枚だったわけです。
※復元時の様子は、下記のサイトに詳細が記されています。

改めて桜井香雲さんによる《法隆寺金堂壁画(模本) 第六号壁》を見てみましょう。真ん中に座っているのが、阿弥陀さん……阿弥陀如来……阿弥陀仏です。阿弥陀さんの目つきが異様に鋭く、怒っているかのようにすら見えます。こんな表情の方が、臨終の時にわたしを迎えに来たら……「ひえぇ〜、すみません……生きていた今までは、悪いことばかりしてきましたぁ〜……お許しおぉ〜」とひれ伏してしまいそうですが、親鸞さんの説によれば、悪人ですら極楽浄土に連れて行ってくれるそうなので、安心してください……。

ところで、桜井香雲さんっていう画家は、Wikipediaなどには詳細が記されていませんでした。ただし、桜井香雲さんの師匠は「田中有美ゆうび」さんという方だそうです。あの素晴らしい《平家納経》の模本を含む、多くの古美術の模写をした「田中親美しんび」さんのお父様です。きっと、その縁で、桜井香雲さんが指名されたのでしょう。

ちなみに桜井さんによる金堂壁画の模写事業は、1875年生まれの田中親美しんびさんが、9歳前後の頃のことでした。まだまだ模写を任せられるような年齢ではなかったということです。

観音菩薩
観音菩薩
勢至菩薩
勢至菩薩

朝日新聞デジタルによれば桜井香雲さんは、「金堂で壁画に紙をピンでとめ、紙を上げ下げしながら描く『上げ写し』という方法で、ひびや剝落(はくらく)まで写し取った」のだそうです。

ちなみに、同じ記事のなかで「現存する中では最も古い現状模写」だとしているものの、Wikipediaを読むと……奈良県の画家モリモト・シンザンが1883年(明治16年)に6号壁壁画の模写しており(ギメ美術館蔵)、翌1884年(明治17年)にはアーネスト・サトウの依頼で、桜井香雲が9号壁壁画の模写を行っています。トーハク蔵の模写は1887年(明治20年)なので、上記3つのうちでは最新のもの…ということになります。では、トーハク本のどこが現存最古の現状模写なのか? については、おそらく全12面の模写が揃っているなかでの最古…なのでしょう。

■日本最古の阿弥陀三尊像

重要文化財《阿弥陀如来像および両脇侍立像》N-144
飛鳥時代・7世紀|銅造、鍍金

三尊像は、かなりメジャーな様式です。みなさん蓮華に乗っていますが、決まって真ん中にいるのが阿弥陀如来です。こちらから見て右側が観音菩薩で、左側が勢至菩薩です。みなさん頭の部分に特徴があります。

・阿弥陀如来は、パンチパーマが2段階で盛られています
・観音菩薩の頭に載っている宝冠には、小さな仏が描かれています
・勢至菩薩の頭に載る宝冠には、水瓶すいびょうが描かれています

中央の仏は一般的な如来の姿であるものの、両脇に立つ菩薩の頭につけられたシンボルから、右方に観音菩薩、左方に勢至菩薩を伴う、日本最古の阿弥陀三尊像であることがわかります。仏が椅する点や、菩薩が浄土の蓮池から生える蓮華に立つ点は、古代に好まれた表現です。

解説パネルより

以下は写真と、解説パネルの内容だけを記しておきます。

静岡県指定/有形文化財《阿弥陀如来坐像》
鎌倉時代•12~13世紀 |木造、漆箔、玉眼
静岡・願生寺

はっきりとした目鼻や奥行きのある体つきに、鎌倉時代の特徴がみられます。眼には水晶を嵌めて本物の目のように光る玉眼という技法が用いられています。本像は、鎌倉時代初頭に東国で活躍した仏師運慶の周辺の仏師の作とみられ、有力な武士の発願にかかる可能性があります。

解説パネルより

像高88.1cm。右手を上げ、左手を下ろして来迎印を結び、衲衣と裳を着け、右足を上にして結跏趺坐する。基本的に頭部と体幹部を一木の割矧造りとし、像底を上げ底状に刳り残す。張りのある面貌、太目の首、がっしりした体躯など力強い表現をとる。静岡県における慶派仏師による鎌倉時代前期の作例として貴重である。

しずおか文化財ナビ」より

こんなに間近で、阿弥陀さんのお顔を見る機会も少ないんじゃないかと思います。

■鎌倉時代にブームとなった三尺の阿弥陀さんがズラリ!

展示室に掲げられた解説パネルを読んで、仏像の大きさについて、少し知ることができました。「よく知られていること」……と書かれていましたが、ブッダ(仏陀)の身長って、4.6m(一丈六尺)もあったそうです。それでこの一丈六尺を基準にして、等身の仏像が多く作られました。たしか「一丈六尺」の真ん中を取って「ジョーロク」と呼ばれ、この大きさのものから「大仏」と言うのだったかと思います。← でもそれって仏陀の身長でしょ? とも思いましたが、広義の仏陀には阿弥陀さんも含まれるんですかね。

とにかく、一丈六尺のほかに「三尺(約90cm)」の仏像も多く作られたそうです。阿弥陀如来の三尺の立像りゅうぞうについては、特に鎌倉時代以降は、仏師の快慶と弟子たちが多く手掛けたそうで、そのいくつかがトーハクに展示されています。

阿弥陀如来の「立像りゅうぞう」の多くが、前のめりになっています。これは阿弥陀さんが、積極的にわたしたちを救ってくれる様子を表しているそうです。

《阿弥陀如来立像 C-321》
鎌倉時代・13~14世紀|木造、金泥塗り・截金、玉眼

前傾した姿勢は今まさに極楽浄土から信者を迎えに来る様子を表わします。手のひらや足裏には、仏法を象徴する輪宝の文様を描きます。これはブッダの超人的な性格を示す身体的特徴である三十二相の一つで、C-19と同様に仏の実在感をより強調する工夫といえます。

解説パネル
《阿弥陀如来立像 C-321》
《阿弥陀如来立像 C-321》
《阿弥陀如来立像 C-321》
《阿弥陀如来立像 C-321》
《阿弥陀如来立像 C-508》
永仙(1239~?)作|鎌倉時代・正嘉3年(1259)
木造、金泥塗、截金、玉眼
安田善次郎氏寄贈

後頭部の内側に記された墨書銘によると、正嘉3年に真観法師が施主となり、東山一切経谷(現京都府山科区日ノ岡一切経谷町)で入手した木材を使い、仏師永仙が1か月ほどで制作したようです。また、両親と自身が悟りを開くことなどを阿弥陀像に祈願したこともわかります。

解説パネルより
《阿弥陀如来立像 C-508》
《阿弥陀如来立像 C-508》
《阿弥陀如来立像 C-508》
《阿弥陀如来立像 C-508》
《阿弥陀如来立像 C-508》
《阿弥陀如来立像 C-508》
《阿弥陀如来立像 C-19》
鎌倉時代・13世紀|木造、金泥塗・金、玉眼

鎌倉時代には、足裏に仏足文を描き、足柄をもうけない形式の阿弥陀如来立像がつくられました。螺髪の一粒一粒に銅線を巻く技法も、同じ系統の像に時折みられますが、いずれも像を見る人に阿弥陀如来が現実に存在するという感覚を与えるために採用された手法です。

解説パネルより
《阿弥陀如来立像 C-19》
《阿弥陀如来立像 C-19》
《阿弥陀如来立像 C-1867》
鎌倉時代・13世紀|木造、金泥塗り・金、玉眼
藤井一雄氏寄贈

両手に来迎印を結び、前傾しながら左脚を前へ出して歩み寄る姿に表わします。金粉を絵具状にした金泥を全身に塗り、衣には金箔を細く切って文様を描く金を用いており、時の人々がA-10575の仏画のようにその全容が金色に輝く姿を求めたことがわかります。

解説パネルより

以上が、トーハクで7月7日まで見られる、特集『阿弥陀如来のすがた』です。特別1室という広くはない展示室なので、展示品は多くはありませんが、おそらくトーハクが所蔵または寄託されている優品が集まっているはずです。

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