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トーハクで公開された浅草寺の仏像

浅草寺といえば、東京でも指折りの、参拝者数を誇る寺です。初詣では、1週間は長い行列ができて、なかなか参拝できません。

『浅草寺縁起』などによれば、飛鳥時代の推古天皇36年(628年)の時代に創建しています。ある兄弟の2人が、船で今の隅田川である宮戸川に漁に出たときに、一躯(体)の仏像が網にかかりました。引き上げた兄弟は、地元の郷士・土師中知はじのなかともに報告します。すると土師中知はじのなかともは出家し、自宅をに改装して像を祀りまつりました。これが浅草寺のはじまりです。そして、この時に網にかかったのが、本尊である「聖観音しょうかんのん菩薩ぼさつ」です。

豊国国芳東錦絵『三社権現由来』(台東区立図書館)

また、漁師の兄弟である檜前ひのくまの浜成はまなり竹成たけなり、それに土師中知はじのなかともの3人をまつっているのが、“三社さん”……今の浅草神社です。浅草神社の祭礼では、3つの本社神輿が町内を渡御とぎょすることを知っている人も多いかもしれませんね。

話をもどして“浅草寺を誰がはじめに建てたか”といえば、土師中知はじのなかともということになります。ただ、その後に“寺”として組織化したのは、勝海という僧だそうです。これが大化元年(645年)のことです。

本尊の聖観音しょうかんのん菩薩ぼさつは、秘仏のため、公開されたことがありません。ちなみに、像の高さは1寸8分(約5.5センチ)で、金色の像だと伝わっているそうです。

いずれにしても東京都内で最古の寺ということで、本尊のほかにも歴史的に重要な寺宝がわんさかあるだろう……と思いますよね。ただ、残念ながら浅草寺は、たびたび火災にあってきました。また太平洋戦争の末期には、度重なる空襲により、一帯は焼け野原となります。その空襲の凄まじさを、総務省は次のように伝えています。

昭和19(1944)年12月10日にはじまった本地区に対する米機の攻撃は、同月30日、31日から運命の昭和20(1945)年1月1日と続き、さらに同月27日、2月2日、24日、25日、3月4日、9日、10日、18日、4月4日、13日、14日、5月24日、25日、超えて8月13日と延べ千四百数十機が本地区上空から爆弾、焼夷弾の雨を降らせた。なかでも吹雪下の2月25日の空襲には、下谷地区の大部分が被害を受け、13メートルの烈風に乗った3月9、10日の空襲は、本地区の大半が烏有(うゆう)に帰した。

総務省HP「台東区における戦災の状況

同ページでは、昭和15(1940)年当時で101,273世帯、460,254人だった台東区の人口は、昭和20(1945)年の6月には、1割5分にしかあたらない17,144世帯、69,932人となったと言います。

昭和20年3月10日未明空襲後の浅草松屋屋上から見た仲見世とその周辺(Wikipediaより)
写真の右上の建物は、現・浅草公会堂と予測……調べてみると、当時は浅草区役所だったようです。それにしても木造建築はきれいに……なにも残っていませんね

こうした状況で、浅草寺もまた本堂や仁王門、五重塔などほとんどの堂宇を焼失します。そうした厳しい状況で、今でも残っている仏像は、そう多くないでしょう。そして昨年の9月頃に、それらの仏像が東京国立博物館東博=トーハクで『浅草寺のみほとけ』と題して、展示されました。(終了しています。(2021年9月28日~12月19日)

いつもどおり、前置きがかなり長くなりました。このnoteでは、『浅草寺のみほとけ』で撮影した写真を整理するために記しはじめましたが……写真がイマイチなのです。

そのため、もし興味があれば、トーハクが同特集展の用意したパンフレットを読んでほしいと思います。(別途に料金がかかる)特別展ではなく、(常設展の中で展開している)特集展で、これだけ立派なパンフレットは、なかなか作られないと思います。それくらい充実した内容です。

・『浅草寺のみほとけ』パンフレット(PDF)をダウンロードする場合はコチラをクリック
・『浅草寺のみほとけ』パンフレットをダウンロードできるページはコチラ

■以下は、個人的な写真整理です。

展示室に入って、どんっ! と座っていらっしゃったのが、この『僧形そうぎょう坐像』です。

僧形そうぎょう坐像』
僧形そうぎょう坐像』。頬の長さや肉感的な頭部の表情、クスノキ科の広葉樹材を使っていること、瞳に異材を嵌めていることから、中国の江南地方で作られたことが分かるそうです。
『不動明王』
五髻ごけい文殊菩薩もんじゅぼさつ
阿弥陀あみだ如来にょらい坐像』
四天王してんのう立像りゅうぞう
四天王してんのう立像りゅうぞう
風神ふうじん雷神らいじん立像りゅうぞう
聖天しょうてん坐像』江戸時代。代々「神田宗庭そうてい」を襲名した、上野の寛永寺の絵仏師が彩色したそうです。また、同じく寛永寺の凌雲院りょううんいん尚詮しょうせんさんという僧が、開眼した(眼を塗って完成させた)像だとのこと。寛永寺で作られたものが、なぜ浅草寺にあるのか? と言えば、江戸期には浅草寺が寛永寺の管理下にあったからではないか……と解説パネルは記しています
慈慧じえ大師だいし坐像』(江戸時代の作)。比叡山中興ちゅうこうの祖とされる慈慧じえ大師だいし良源りょうげんさん(912〜985)。良源さんは、天台宗の開祖・最澄さいちょう(767〜822)さんと並び、ひろく信仰の対象となった有名な天台宗の僧侶です。
良源りょうげんさんは、とても厳しい方だったようで、どの像も厳しい表情と、数珠と金剛杼こんどうしょを持っているのが特徴です。そして良源りょうげんさんの逸話の中に、疫病神やくびょうのかみを退けた際に、自身も鬼の姿となったというものがあります。その姿は「角大師つのだいし」と呼ばれ、お守りなどとして信仰されたそうです。


■浅草寺のことを、もっと知りたい人のための参考文献

https://docs.google.com/viewer?url=https%3A%2F%2Fwww.edo-tomo.jp%2Fedotomo%2Fh28(2016)%2Fedotomo-No92.pdf


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