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読書日記 堀川恵子・著『暁の宇品』みんな無理だとわかっていながら、それでも戦争しちゃったのはどうしてなのか?



南京大虐殺をやっちゃった日本人


昔、南京大虐殺に関する本を何冊か読んだことがある。南京大虐殺というのは、日本が中国相手に、1937年7月に始めた日中戦争のさなかに起こした事件だ。

開戦の数か月後に上海に上陸した日本軍は、陸路、中国軍を蹴散らかして、そのまま南京まで進軍し、当時、中国の首都であった南京を占領をした。そのさい、日本軍は、自分たちの食料などの補給をなぜかせずに、すべてを現地調達で賄っている。

軍隊と食事というと、災害時の自衛隊の炊き出しみたいなものをイメージするが、その時はそんなシステムそのものがなかったみたいのだ。お金を払って、地元の食堂で食べたり食事を作ってもらった例もあると言う人もいるけれど、そんなのはほんの一部で、大抵の現地調達は、要するに略奪だった。

そんなだから、捕虜にした中国軍人にも民間にも、食べさせる食料をまともに用意できなかったし、そもそも日本軍は、捕虜へのちゃんとした扱い方も知らなかったらしい。

結局、捕虜を維持するのが面倒になった日本軍は、捕虜を銃殺して、そのまま揚子江に流している。なかったことにして、済まそうとしたのだ。その数は、最低でも数万に及ぶようだ。

戦後、中国側は30万人が虐殺されたと主張しているが、少なくても数万人の無抵抗の中国人を、日本軍が殺している印象だ。

兵站を伴わない南進をやっちゃった日本人


日本軍は、なぜか、食料その他を現地調達しながら進軍するという無茶なことを、その後も繰り返し行っている。特に際立っているのが、南進と呼ばれている東南アジアの国や島々への進軍だ。

この時には、日本軍は、現地でなにも調達できず、日本の軍人自体が、ほとんどが餓死している。

まともに考えると、進軍している軍人たちの食料確保をせず、物資の配給や装備の補給なども無視した作戦は、成功するはずがないし、やらないものなのだが、なぜか日本軍ではフツーに行われていた。そんな作戦が立案された時に、反対する人はいなかったのだろうか?

ものの本を読むと、内心無理だと思っていながら、上に押し切られたとかいうことを、戦後になって平気で発言している人が何人もいて、吃驚してしまう。大抵の人が無理だとわかっていて、本気で成功すると思っていた者など、ほんのわずかだったにも関わらず、それでも実行されてしまったのは、どうしてなのだろうか? 日中戦争や太平洋戦争のことを考えるときに、いつもこのことを考えてしまう。

戦争を行う際には、その時点での戦力=戦闘員の数、使用可能な武器の量や質、それを維持させるための兵站の確保(食料、燃料、装備の補給)、医療支援、生活支援等の後方支援と、それらの輸送の確保、といったことごとを、きちんと計算して、余裕を持たせてから、実行するものだ、と思う。

要するに、経済的な裏付けがなければ、戦争は成りたたない。戦争に限ったことでもない。何かを計画し、それを実行しようと思ったら、自ずと経済的な側面の計算が必要だ。

ところが当時の日本では、経済的側面をリアルに考えた人は、実現不可能だと判断したにも関わらず、中国どころかアメリカとも戦争を始めるなど、誰が考えても非現実的で飛躍したことをやっている。精神論が勝って、開戦したのだろうか? 


日本軍のメンタリティとそっくりな原発推進する気持ち


最近、これと似たようなものをニュースで見て、びっくりした。

このニュースは、敦賀原発の地下には活断層がありそうだから、再稼働は認めない、と原子力規制委員会が判断したのだが、原発を経営している日本原子力発電の村松衛社長は、「われわれが提出した資料の不十分さ、不確かさが指摘されたということなので、その指摘を分析して、必要な追加調査を行いたい」と言い、この先も廃炉など考えず、原発再開に向けて、努力を重ねる、みたいなことを言っていることが報告されている。

この社長は、頭がおかしいのだろうか? と私は思った。原発を動かすことが最初に結論としてあるのだ。原発を動かすことに必要な条件を客観的に見て、動かせるどうかを判断するのではなく、予めある結論に合わせて、材料を集める、作る、と言っているのに等しい。これでは、兵站を準備しないで進軍するのと同じではないか?

南進も、最初にやることが決まっていて、そのあとからそれに沿うように、色々と机上の理論が捏造されて、結果的に無謀な作戦が実行されてしまったのだ。

原発に関することも、太平洋戦争に関することも、やろうとしている人達のメンタルは、まるで変っていない。日本人は相変わらずだ。現実を見て判断するなんてことはしないのだ。


開戦前に、普通にまともな判断の出来る人たちがいなかったわけではないが、反対派の人達は声を上げなかったし、上げたとしても、阻止することが出来なかったのだ。そういうおかしな組織に、日本軍、および日本全体がなっていたのだ。末端の兵隊や庶民は、本当にいい迷惑だ。

そのせいだろうか、先の戦争は、軍の上層部が暴走し、一兵卒はその被害にあったって意識が強すぎて、日本は、戦後、戦争加害に対しては無責任になってしまった気がする。

歪みっぱなしだ。

原発に関して、少し前のニュースをネットで検索してみた。


簡単にいくつもの記事がヒットした。

去年の暮れにNHKのニュースサイトにこんな記事もあった。


一昨年には、こんなのもあった。キャノングローバル戦略研究所というところの記事だ。


これなんか錬金術を肯定しているような論理だ。笑顔で写真に写っている杉山大志研究主幹なんて人は、1年くらいウイグルに潜入捜査でもしてくればいい。

何をどう考えると、原発が必要だなんてハナシになるのだろうか。これらの記事に出てくる人や書いている人は、それなりに頭の良い人なのだろうけど、増設とか新設の前に、福島原発の処理方法を考えて欲しい。

放射の除去装置を発明してくれれば、何を言ってもいいと思うが、こういう頭のいい人達が、官僚や一流企業の意思決定なんかに関わる立場にいると、世の中の迷惑でしかないと思う。

会社で有能な人は軍隊でも有能なんだと思う


8月が近づくと、私は毎年、優秀な軍人とは、どういう人なのかと考える。私のように協調性がなく、集団行動が無理で、大体のことにおいて無能な人間は、軍隊の中でも無能なんだと思う。

逆に有能な会社員は、軍隊の中でも有能なんだろうなと思う。特に日本人は、仕事は仕事だからと、妙に割り切って仕事をする人が多い。だから、有能な会社員というのは、大抵、倫理観よりも、効率重視的な価値観や妙な使命感があったりするから、タチが悪い気がする。

そんな人が軍人をやったら、結果は、ひどいことになる。仕事は仕事、割り切ってやれ、なんて思って仕事をしている人は、軍隊に入っても同じように行動するだろう。

それを考えると、日本には、軍隊向きの人間がとても多いことに気がする。それぞれが自分で責任を持って判断などせずに、集団行動をしたがるから、上司がバカだと、その下の組織ごとバカな方向に動く。

その結果として、中国に攻め入ったり、アメリカと戦争をしたりする。

原発の増設、新設が必要だと考えるのも、中国に攻め入ったり、アメリカと戦争をしたりするのと同じ思考回路なんだと思う。我々日本ほど軌道修正が出来ない国民も、世界史上、類を見ないのではないか?


日本陸軍の兵隊を担った拠点宇品


例によって私のハナシは、うだうだと迂回しているが、『暁の宇品』という本を読んで、こんなことを考えているのだ。

宇品というのは、広島市の中心から3、4キロ離れた地域の地名だ。戦争中は、旧日本軍最大の輸送基地だった。日本陸軍が大陸に進出する際の兵站を司るいわば前進基地のような役目を果たした港湾だ。


原爆投下時には、爆心地から少し離れていたから、半壊にとどまっている。戦後は、軍事的な面影は薄れ、工業地区、住宅地区、港湾地区にわかれて発展してのか、寂れたのかして、現在に至っている。

堀川恵子・著『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』講談社文庫は、この宇品に焦点を当てて、戦争時に宇品が果たした役割を描き出したノンフィクションだ。

著者は、永山則夫などのノンフィクションを書いているノンフィクションライターだ。広島の出身だから、原爆供養塔のノンフィクションも書いている。本書は、著者の広島をテーマにした中の一冊だ。


宇品は、兵站の拠点だから、兵站の重要性をわかっている人には、日本軍がやろうとしていることの無謀さ、無茶さは最初からわかっていたものと思う。それでも、戦争を止められなかったのはなんでだろうか? それでも、止めるには、どうしたらいいのだろうか?

全体がある一つの方向に向かいつつあるとき、その流れを止めるにはどういう方法があるのだろうか? 

本書には、そういう止める方法については書いていない。結局、大きな流れの犠牲になった個々の職業人が出て来て、蹉跌状態に陥って、屈託した戦後を送るってことになる。なんでだろうか?

この本を読んだ私は、これからどうしたらいいのだ? どうしてみせようか? 鬱々とした気持ちで、ヒロシマ原爆の日を過ごしている。

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