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映画日記 『神々の山嶺』 フランスで作られた谷口ジロー原作のあんまり谷口っぽくない長編アニメーション映画

7月3日、吉祥寺アップリンク、スクリーン3。午後2時50分。お客さんは3分の1くらいの入りだった。

日曜日だけど、やっぱり年長者が多い。客層がどういう人たちなのか、まるで見当がつかない。もしかしたら、山登りが好きな人たちなのだろうか。私の前に座った夫婦は、登山好きの夫婦に見えた。それとも谷口ジローのファンなのか、よくわからない。


1 フランス製の平べったいアニメ


さて、『神々の山嶺』は、アニメーション映画だ。作ったのはフランスだ。だからフランス語で会話があって、日本語の字幕がでるのだと思ったら、日本語の吹き替えだった。得したような損をしたような、変な気持ちになる。

海外の長編アニメを映画館で観るのは、多分、初めての体験だ。チェコのクレイアニメとかなら見ているが、長いものは観たことがない。そもそも私はアニメを観ない。映画館でアニメを観たのは、『千と千尋の神隠し』以来だ。その時も付き合いで観に行ったのだった。私は、宮崎アニメも、そのほかのアニメにも興味がない。今回は、原作が谷口ジローだから観に行ったのだ。

そんなアニメに詳しくない私が見ても、このフランス産のアニメは、日本のものと、だいぶ違っていることがわかった。何か違うかというと発色だ。全体の色合いが地味に抑えられていて、それが意外にアートな印象を与える。動画と言うのだろうか、動く人の画に、立体感がまるでない。ずいぶんと平べったい。

私は、谷口ジローの世界を期待して観にいったのだが、谷口色はいまいち感じられなかった。

2 中年マンガの巨匠、谷口ジロー


これまであまり言われていないが(多分…)、谷口のマンガ作品は、日本マンガの中では、結構、異端だったりする。谷口には日本のマンガの王道である「少年マンガ」の要素がほとんどないのだ。谷口ジローは、マンガ家デビューの最初から、少年を主人公にするマンガが苦手だった珍しいマンガ家だ。

初期の谷口が得意としたのは、年齢不詳の中年オヤジが主人公のマンガだった。その中年オヤジは、友情とか努力いったものと無関係な、他人を必要としない孤独な人間が多かった。孤独だが孤独なことに平気な大人だった。

少年マンガの主人公のように、自由や正義のために努力をしたり、何かを貫いたりする少年の純粋さは持ち合わせていない。何かにぶつると、途中で妥協して、あっさりと撤退する不甲斐ない人間だ。その不甲斐なさに納得できず、酒を飲んだり管をまいたりするが、それだけだ。勝ち負けにはこだわらないし、大人だからそれ以上成長することもない。

基本的に、不道徳でいい加減でだらしがないのだけど、憎めない人物として登場する。絵柄的にも、背が高く、天然パーマで彫が深く、日本人的でも西洋人的でもない、国籍不明の不思議な風貌をしていた。そしてマンガの読者としては、谷口の主人公は、憎めないけれど、感情移入もしづらいのだ。

谷口が少年マンガを放棄して?描いてきたのは、「中年マンガ」だ。本人が自覚的だったのかはわからないが、谷口ジローは、日本のマンガ史上、たった一人で、「中年マンガ」を発明して、開拓してきたマンガ家だと言える。その中年マンガの試みが結実したのが、『歩くひと』『欅の木』『散歩もの』『ふらり』などだ、と私は勝手に思っている。

中年マンガが完成してからの谷口マンガの登場人物は、それまで強かったアクが抜けてクセがなくなり、見るからにとってもいい人になった。しかしやっぱり内面があるようなないような、起伏の乏しいキャラクターになってしまったと私は感じている。個性の抜けた張りぼてのような、いい人ばかりになってしまったのだ。実はそれはそれで感情移入がしづらいと私は思う。

「中年マンガ」は、日本では真ん中から外れた端の方にあるマンガなのだが、谷口の作る張りぼてのキャラクターは、実は日本より海外での方がわかりやすく、受け入れやすかったのだと思う。

3 バンドデシネと相性が良い谷口マンガ


谷口中期の代表作の『歩く人』などは、フランスで出版されて、非常に高い評価を得ている。谷口作品は、今では相当数がフランスで出ていて、広い人気を得ているという。マンガというよりも、アートとして認識されているのかもしれない。

フランスには、バンドデシネというマンガがある。バンドデシネは、雑誌連載が基本の日本のマンガと違って、単行本単位の書下ろしで刊行される。また、オールカラーであることも多い。…この先の文章は、私が読んだ10冊程度のバンドデシネで得た感想をもとにしているから、本当は、あてにならないかもしれない。

バンドデシネは、日本のマンガのコマ運びとは違って、展開が早く、日本人が読むと、なんとなくダイジェストを読まされているような大雑把な印象を受けることが多い。また、決めゴマ、大ゴマ、見開きが使わることは少なく、意外に単調な印象を受けるものが多い。

登場人物たちも、日本のマンガに慣れていると、なかなか感情移入がしづらいタイプだ。表情も単調だし、デフォルメも偏っている。日本のマンガにあるような感情表現はかなり少ない。だから心理描写などにも日本のマンガほどコマやページを費やさないし、表現として淡泊なのだ。

しかし、一コマ一コマの絵画性が高く、アートな要素が強かったりする。読み捨ての消費財ではなく、ページを戻って、何度でも見返すことのある、ある意味、画集のようなものとしても、成り立っているのだ。

そういうバンドデシネの国であるフランスで、谷口ジローのマンガは、たいそう人気があるのだそうだ。その理由の一つが、私は、谷口の造形するキャラクターが、感情移入のしづらいバンドデシネ的なキャラだからなのだと思う。

もう一つの理由が、谷口作品の絵画性の高さだ。ペン画は繊細で、スクリーントーンを何層も重ねて表現される陰影は、何度でも鑑賞に耐える絵画になっている。それに作品によっては吹き出しがなくても読めるものもあり、日本語の制約からかなり自由だという特徴がある。

このような理由から、谷口作品は、バンドデシネとの相性がとても高いのだと言える。

4 画が白くなり、キャラクターからクセが抜けた


今回、フランスの人たちがアニメにした『神々の山嶺』は、もともとは、夢枕獏の活字小説だ。雑誌連載は、1995年くらいだ。その後、2000年代に入った直後、谷口ジローによってマンガ化されて、『ビジネス・ジャンプ』に連載された。今回のアニメ化は、フランスで発行された谷口ジローのマンガ本をもとにしている。

『神々の山嶺』は、コミックスで全5巻からなる谷口最長の長編作品だが、谷口ジローの代表作なのかと言えば、ちょっと疑問が残る。しかし、フランスの人たちは、この谷口のマンガを読んで、アニメ化しようと思い立ったのだ。どこに魅力を感じたのだろうか?

谷口ジローは、『坊ちゃんの時代』で画風を一転させて、白い画を描くマンガ家になった。世間的な評価が高まったり、海外で評価されるようになったのはそれからだ、と思う。文学的だったり、アートと言えるほどの緻密な画風が評価されるようになったのだ。

そして谷口のマンガは、それまでのマンガの面白さではない、別の面白さ、大人が読んで納得することの出来る、新しい面白さを備えていた。勝負に勝った負けたではない面白さだ。中年になった読者が、少年なんかに帰らないで、今の中年のままの自分で読むことの出来るマンガだ。それが谷口が開拓した「中年マンガ」だ。

私は、狩撫麻礼が原作のマンガで谷口ファンになった人間だから、当時は文学やアートというよりも、下世話なB級中年マンガに面白みを感じたのだった。当時、中年マンガを描いているのは、日本では谷口しかいなかったから、際立っていたのだ。このように私の場合は、谷口評価の基準が、他の人たちとは、ちょっとズレているのだと思う。多分、フランスの人たちとは相当離れていると思う。

『神々の山嶺』は、『坊ちゃんの時代』で画風を変えて、『地球氷解事紀』などで実験を重ねて、白い画風を完成させた谷口が、満を持して挑んだ本格的なアクション大作だった。主人公は、以前の谷口マンガのキャラによくいた寡黙でアクの強い男だったが、画は一変していて、正直、キャラに見合った画ではなかった、と私は思う。キャラの内面を表現するには、黒いベタが少な過ぎ、画が白すぎるのだし、スクリーントーンに頼りすぎていて、私は物足りなく感じたのだった。

白い画を描くようになった谷口ジローは、私にとっては、嫌いじゃないけど、物足りないマンガ家になってしまった。だから、このアニメ化のハナシも、私はふうーん、という感じで、ちょっと距離を取って受け止めていた。

谷口ジロー・ファンとしては、映画が公開されれば、義務感半分で観にいかねばならないし、フランス人がアニメ化をしようと思った動機が分からず謎に思っていた私は、それを確かめるためにも、観なければならないと、映画館へ足を向けたのだった。……しかし、前置きが長い。

5 近過去の東京がよみがえる緻密な時代考証


アニメを観てビックリしたのは、人物の画がちっとも谷口ジローの画に似ていなかったことだ。これが日本製のアニメだったら、キャラクターは、谷口の絵柄にかなり寄せたものになっただろうと思う。ハナシ自体は、長いものを、うまくまとめてあったと思う。なんか、上から目線の感想だな……。

出てくる風景は、日本とネパールだ。映画の中の現在は1990年代で、そのほかにも1980年代の東京、60年代の東京が出てくる。

80年代のシーンでは、ウォークマンⅡが出てきたり、カセットのカーステレオが出てきたり、90年代のシーンでは、大きなトラックボールがあったマックのノートパソコンが出てきたりと、時代考証の細かなところが行き届いていて、すごく驚いた。同時に楽しんで観られた。

東京のビル街、そこにある看板もきちんと描いていたし、アパートやマンションの内部も、正確に再現されていた。縦看板の音引きが横になっていたのを目ざとく見つけて、粗探しが出来て嬉しかったりするのだが、それはお愛嬌のレベルで、感心する気持ちの方がはるかに大きいアニメだった。

それらの取材の成果が、背景として控えめに描かれ、さらに原色を抑えた独特の色合いで全体が処理されていて、ある種の品のよう雰囲気を醸し出していた。そのあたりにも、日本のアニメとの違いを、実感させられた。

ただ、主要人物たちが、原作マンガからはかなり脱色されて、癖のない人物になっていたように思う。原作マンガでは、もっと極端なキャラクターだったはずだ。観終わった後でも、フランスの人たちが、何でこれをアニメにしようと思ったのか、その動機は、私にはよくわからなかった。谷口ジローへのオマージュだと思えはいいのだろうか……。

『神々の山嶺』は、少し前に、阿部寛と岡田准一主演で実写映画化されている。そちらは、誇張された感情の振幅でドラマを作っていたが、このアニメーション映画は、それとは正反対の抑えたつくり方だった。しかし、実写でも不可能な、アニメーションだからこそ出来る映像表現があったのかと言えば、それも疑問だ。

マロリーの謎を軸としたミステリーの要素は、ちょっと薄くなり過ぎていたし、雪の冷たさ、高い標高の怖さ、空気の薄さ、ソロ登攀の厳しさ、といったこの作品を構成する要素が、全部、淡泊だったような気がする。

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