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「想う、考える、生きる」いまのわたしの答えとしてある戯言

わたしの感情と思考と感性を、
見つめ寄り添い生きられるのは、
わたししかいない、でしょ?

唐突ですが、
わたしがいま「生きている理由」のようなものを書きだそうかな、と。
こんな感じの思考をして生きているのですという表明?というか。
なんとなーく、書きたい気分なので。

たとえば、
他人に察してもらうこと、
誰かに自己を共感されることに、期待することをやめた。
あまりに的外れな言葉を渡されることに疲れたから。
結局のところ、
自分の感情は自分しか正確に感じられないから。

生まれてきたままのこの自分自身を、
嫌い、憎み、愛せないことは、
ひととして最も幸福から遠ざかることだろう。
自分の嫌な部分が、
見えて気になって仕方ないままに生きることは、
たぶん最もつらい人生だ。

ありのままの自分での生活をしては、
社会を渡ってはいけないかもしれない。
だから、社会の中では多少の建前を使うし、
共感なんてしていなくても、した「フリ」をする。
嘘は嫌い。でも、
本当に大切なひとたち以外との、円滑な人間関係のためなら使う。

それが自分の本心ではないことをわたしが知っていて、
素のわたしが別にいることを、
わたしがちゃんとわかっているなら、それでいい。

そのわたしを、わたしが嫌いではないことと、
わたしがよく知っているから。

つまるところは、自己肯定感は、他人に頼っても補われない。
素の自分を、自分自身が認められないでいるなら、
たくさんの他人に認められても根本は解決しない。


わたしは、魔法使いになりたかったし、なれなかった。
けど、わたしはそのわたしを嫌ったりしない。

小説家にもなりたいし、風や音にもなりたい。
なれなくても、なりたがるわたし自身を、
わたしは好きだし認められる。
なれないと分かりきったものにすらなりたいわたしを、
馬鹿だとも思わないし、嫌うどころか、本当に気に入っている。

あまりの無力さに悔しくて泣く度に、
決意を新たに出来るようになったわたしを、
わたし自身が知っているし、認められるから。
無力だと嘆く日は、
またわたしを新たに知ることができた日だと、
大切な日であると思う。

誰ひとり、他人は認めないだろう、愛さないだろう、
わたしの中にある、「孤独」も「矛盾」も「不満」も「偽善」も「悪意」も「絶望」も「失望」も「災厄」も「不幸」も「困惑」も「嘆き」も「苦難」も「苦痛」も、
わたしだけがしっかりと感じてあげられるし、
その形を感触を温度を、
わたしだけが正確に視て知ることができるのだからと、
彼ら彼女らに敬意を示し、わたしは感じ尽くすことに努めるのだ。

どうやら、
他人に共感されることを、
彼ら彼女らも面白く思わないらしい。
ときに、彼ら彼女らを紹介するように、
他人に話してしまったあと、わたしは後悔したりする。
彼ら彼女は不満を露わにして、
「ほら見ろ!誰も私たちを認めやしないじゃないか!」
とわたしを責めるのだ。でも稀に、
「私たち、ちょっと仲良くなれたね」
と照れた顔をするやつもいたりする。

つまりは、
自分が如何に自分の「想い」と仲良くしていけるのかが、
人生における幸福になるのだろう。

他人にいくら評価されようが、
自身の自己の評価が基準にあることにかわりはない。
どんなに他人に褒めそやされても、
認められもしない自己が感じるのは、
偽りの喜びで偽りの満足。
それらを得て折り合いを付け続けのは、称賛の浪費だ。


自分に自信がないと、
なんだかぽっかりと隙間が空いているように、
スースーと隙間風が吹き荒れて、とても不快だ。
その隙間を、不快感を、他人に埋めてもらうことは、
一時的なものにしかならない。

たとえば、
それは子供が親に愛情を注がれることで満たし続け、
いつしか自分でそれをすることが出来るようになる、
そんなものなのだろうか。
でも、
形の合わないものばかり押し付けられていたら、
ずっと自分の隙間に合うピースを知らないままに、
生きていくことになるのかも知れない。

大人になってもそうやって、
誰かに自分の隙間の形を、
ねえ教えてよ!埋めてよ!スースーと隙間風がすごく不快なの!
そう喚いては、
ヤサシイヒトがくれる形の合わないピースを、
ピッタリだ!と誤魔化してハメてみては、
やっぱり違ったと、
まるである瞬間にはじめて気づいたかのように、
嘆いては捨てるのくり返しを、わたしは随分としたと思う。

でも、そうしている内に少しずつ、
もう少しこうで、こんな感じの……と、
ようやくピッタリの形のピースを、寄り添い方を、
見つけたのは、結局のところ自分で、
それを持っているのが、いまのわたしなのだと思う。
変化し続けるその隙間をよく観察して、
都度、その隙間に合うピースを、
どうにかこうにか脳内で作っては、ふんわり、寄り添うのだ。

そうして生きているわたしのことを、
誰に認められなくとも、誰に評価されなくとも、
もう、わたしは、本気で自分を嫌いだとは言わないだろう。

絶望は絶望でしかない。
別の形になれ!だなんて、絶望に対してあまりに失礼ではないか。
絶望したなら絶望のことは絶望と認め、
絶望だ……と感じるしかない。
それが絶望でないと否定したところでどうしようもない。
だって絶望はここに確かに絶望として居るのだから。

絶望と感じたそれと共に生きていたって、わたしはわたしでしかない。
それには何の代わりもないのに、
絶望している自分の絶望を認めてあげられないのなら、
自分をも認めてなんてやれないだろう。

希望がないと生きていけない?
本当にそうだろうか?

絶望さんや、望みはしっかりと絶えたかい?
絶えたのは、何に対する望みであっただろうか?

そんなこと、わたしがよーく知っているさ。
だって、彼ら彼女は、わたしの絶望なのだから。

そして、知っているのはそれだけではない。
わたしの脳はまだまだ動ける。
わたしはそれを本当によく知っている。

その絶望を生んだ過去も、
叶わなかった望みも、絶たれた願いすら、
わたしの中でずっと抱えて生きていくことを、
選んだっていいじゃないか。

また新しい「何か」を見出すだろう脳を、わたしは好いている。
また新しい絶望に出会う未来さえも愉快じゃないか。

絶望するために必要なものが何か、知っているかい?
望むことだよ。
何かを切望して祈ったり、叶えたいと本気で願って、
そのためにがんばった自分がいたからこそ、
わたしは絶望をすることが出来たのだ。

ときに、
自身ではどうにもならない事態に、
どうにか抗えないものかと試みることすら出来ずに、
屈服するしかない己にも、絶望をする。

でも、せっかく絶望したのだから。
その絶望さえも、糧にしようぞ。

わたしは、そうやって生きています。


突き詰めるなら、なりたい自分には誰もなれない。

欲しい能力、容姿、物、ひと、事柄、生活、快適。
言い出したらキリがないから。
全部叶えたと思った次の瞬間には、
新たな「欲しい」が絶対にある。
ひとの欲は果てがない。不満は尽きない。

夢を持つことと、現実は両立できる。
欲と不満を他人に片付けてもらえるのは子供だけ。

自分らしく生きることの原点は、自分が自分を認めること。
そのままの自分しか、我らは持っていないのだから。
身体、脳、遺伝子、健康、若さ。
いま以上のそれらは自分には無いのだ。

科学が発展して、逆らい続けて。
欲は尽きたか?
不満は消えたのか?

他人に、どんな危険や悲しみや不満や絶望すらを強いることも、
己の快適さに換えることに躊躇もないヒトよ。
望みは全て叶ったか?
次に何を欲しているのだ?
それらに必要な犠牲は如何ほどか?
誰の何を犠牲にそれらを手に入れて、お前は満足か?


つまらない話をする。なんてことはない、戯言だ。

もしも、だ。
わたしが本当は猫なのであると自分では認識していると明かしたとして、猫はわたしを同族だと永遠に認識してはくれないだろうな。

ただ、もしかしたら仲間としては扱ってくれるやも知れない、とも思う。

わたしが、猫たちの「個」を尊重し、決して脅かさず、わたしもただの「個」として、己の思う自己を生きている「わたし」として、いつしか、たまに日向ぼっこを共にしてくれる、そんな関係なら築けるのではないか?と思うのだ。

そうなるまでは、わたしは得体のしれない侵略者として、敵意を向けられ威嚇されたり、するのだろう。
それは仕方ない。猫たちを尊重すべきだ。

わたしが「自分は猫なんだ!」と言ったところで、結局のところ猫から見て、まったくの猫ではないし、猫に「生まれた姿は猫ではないけれど、猫だって自認しているから、それを尊重して猫として扱うとしよう」とかの、そんな配慮を望んでもいないし、そんな不自然な形で仲間になったことろで、どうにも不自然さは否めないし、わたしはそれをしたくないし、させたくもないからな。

それでも、わたしが猫たちを尊重すする態度でいて、決して脅かさないのだと認められれば、そこに居ることを承認されるやもしれぬ。

ただ、わたしは猫たちに同族として扱われることなど永遠にないことを理解するしかない。

それを承知の上で関わる他にはない。猫に仲間にしてもらうことは、そういうことだろうと、わたしは考えるんだ。

まさに、猫ではないが故に、な。

「吾輩は猫ではないが?」より抜粋(もちろん嘘です)

わたしは、強がりだ。
強がってみては、ひとりぼっちで泣いたりする。
でも、そんな自分が嫌いじゃない。
どうしてか、気に入ってしまった。

生きやすさの値は、
自己についてどれほどのことを知っているのか、
それらをどれくらい自分で認められているか、に尽きる。

他人の評価だけでの幸福なんて、まやかしだ。

「あなたが好き」と言われたら、うれしい。
大切なひとからそう言われたら、本当にうれしい。

それでも「大嫌いな自分」を「好き」と言われるときの、
なんだかモヤモヤをするこの気持ちは、
「こんな自分なのに……」というところから来る。
「こんな自分を好きと言ってくれるなんて!」
そう手放しには感激できない。

ただ、わたしは最近こう思う。

「こんなわたしを好きと言ってくれて、本当にありがとう。
きっとわたしも、人生が終るときには言えると思うの。
こんなわたしを好きと言ってくれるひとがいて幸せだ。
こんなわたしも、こんなわたしが大好きな人生で、本当に幸せだ」

そして最期の刻には、
未来に、過去に、現在に、
「愛してる」と「ありがとう」を残して逝きたい。
恨みも憎しみも、たくさん持っているけれど、
それ以上に「感謝」があるんだ。

たとえば、
加害者を恨みながら死ぬなんて、ご褒美はやらない。
それとは関係のないことで死んでいこうと思っているんだ。
あいつはいまもわたしが苦しんでいるなんて言ったら、
最高の気分になるかもしれないだろ?
俺としたたった一度のことをずーっと覚えているなんて!って、
感激するかもしれないぜ?
マジで気持ち悪い。おえぇぇっ!

あんな奴の軽い気持ちからの行為で、
いまですらも殺されてしまうなんて、
せっかく生き延びたわたしに失礼じゃないか。

わたしはね、
せっかく生き延びた先で出会ったひとたちに、
たくさん、たくさんの感謝を残したいんだよ。
そのためにも、生き切ってやりたいんだ。

わたしは何度となく、遺書を書いて、
書き換えて、生きてきたんだけれどもね。

いまこの瞬間に死んでしまうとして、残したいことが、
大切なひとたちに「愛している」と「ありがとう」だけだなんて、
なんて幸せだろうかと。


いろんな言葉、いろんな学問、専門用語、それらの歴史。
知らない言葉が溢れる世界を上手く歩くには、
自分に関係する言葉、しない言葉、その意味、
知っていて損な知識なんてない。

わたしはいろんなことを知りたい。

戦いたいなら敵を知れ。
知りたくないことこそを知れ。
知らない事柄を嘘と判定して嘲笑う輩なんて、
自分の賢さに自信がある愚者は放っておけ。

卑怯者は正義面、わたしも漏れなくそうだろうな。

わたしの正義、わたしは何と戦うのか。

わたしはみっともない大人。
子供たちに、
「とっても素敵な未来があるから、安心して大人になりなさいな!」
なんて、とても言えやしないのだ。
子供たちを見て自分を奮い立たせている。
この子たちが大人になったことを後悔する未来を渡したくない。

奇麗事だろうか?
でも奇麗事を嘲笑い、
奇麗事しなかった大人が作ったのが現在だろ?

わたしだって奇麗事なんて大嫌いだ。
現在にはあまりに虚しく響いて、吐き気がする。

だからこそ、わたしは子供たちには、
奇麗事を軽蔑しないでいられる未来をあげたい。
奇麗事も理想論も、美しいからあり得ないって大人は言う。
美しくない現実にいる大人だからの常識なんだろう。

でも、
そんな常識クソ喰らえだ!
無責任な大人たちが、奇麗事から逃げたからの現在だろが!
それを子供に押し付けるな!

子供から大人になる中で、
わたしはかつての大人から当然のように押し付けられて、
それが本当に、とっても嫌だった。

それが大人になるということだなんて、
それも大人の押し付けでしかない。
ずっとずっと昔から、
押し付けられて、押し付けてきた常識。

わたしは未来に、
こんなクソな常識を、躊躇いもなく押し付けたくない。
悪足掻きでも、最期まで、足搔いて、もがいて、
生きていこうと思うのだ。


まとまりのない文章ですが、
こんなことで、こんな感じで、
わたしは、生きることが嫌ではないのです。



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