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「特例法の手術要件」が完全に撤廃されるなら

わたしが推したい「フェミニズム」と「性の多様性」は異端なのか?



最高裁の判断を見て思ったこと

11月25日、最高裁の判決というか判断で「生殖機能を失くすことは違憲」ということになった。
でも、そのままの外性器のままにいることについては議論が必要という高裁に差し戻しの判断。

最高裁の判断が近づくにつれ、メディアではずっとFtMさんばかりが取りざたされて疑問に思っていた。
多くの女性たちがこの最高裁の判断で関心を寄せているのは、MtFさんについて、身体が男性で自認は女性だというトランス女性についてだ。

メディアがFtMさんばかり紹介するのは、申立人がFtMさんだったからかもしれない。
でも反対する立場のひとはMtFに恐れを感じている。

そこに論点を向けたくない誰かがいるのでは?
不都合な事実でもあるのではないか?

そう勘繰ってしまうほど、メディアに出るのはトランス男性ばかり。
意図的に、トランス女性を避けているかのように感じた。
だって、FtMさんだけじゃなく、MtFさんだって、この判断にとても注目しているはずで、当事者のはず。
これでは、まるで仲間外れじゃないか。

差別だと、トランスヘイターだとされ、発言権を失くしてしまいそうな、生得的女性たちのように、メディアに声が映されることがなかった。
トランス女性の彼女らはどんな風に見ていたのだろう?

LGBTQの活動家さんに聞きたい。
ノーディベートで何に安心すればいいのでしょうか?
何を理解すればいいのでしょうか?
議論も質問もさせてもらえないで、懸念を示せば差別主義者。
話し合いすらさせてくれない相手の何をどう理解すればいいのか、本当にわからない。

むやみ恐れるな、悪用するひとなんていない。
そんな風に言われても……。
オートガイネフィリアは?
トランスレズビアンは?

海外で起きているトランス女性による性犯罪をなんて説明してくれるの?

むやみに恐れているわけじゃない。
実際に、議論もままならないままに押し進められて、行き過ぎたジェンダーの教育によって海外では実際に問題が起きている。
トランス女性による性犯罪も起きていて、加害者の割合は生得的男性よりも多いなんて事実が海外に在るのに。

これら、女性の懸念が、事実無根で、むやみな恐れなのでしょうか?

J.K.ローリングさんの国の世論も変わりつつあるこの課題を、どうしてそのままに、同じ轍を踏む形で実現しなければならないのか?

「性の多様性」の先進国で様々に露見した問題の議論を尽くしてから、法整整備を検討してはくれないか。


わたしの考える「フェミニズム」

わたしが「フェミニズム」を知ったときの理解は、
男女の差別をなくすこと、男女の理解を深めること、
助け合い、思いやり、ひとの「個」を尊重して生きる世界を目指すもの。
誰もが自分らしく生きることができる世界。
男尊女卑、女尊男卑、そんなものは存在しない世界。
「差別」と言う単語が死語になる世界。
平和、平等、誰もが当たり前に人権を尊重して暮らす社会。
だったのだ。

第一印象と言うか、そんなもの。
ふわりとそう考えて「いいなあ」と思った。

なんとなく、エマ・ワトソンさんのこれまでのスピーチとかを読んでみていた夜。
基本的にものすごく賛同することばかり。まさにわたしの思うフェミニズムのようにも感じたりした。

でも、Twitter(現X)をはじめて知ったのは、
ネットを漂う中には、過激フェミが溢れ、男など要らない!と男性蔑視がフェミニズムであるかのような主張ばかりで、心底ガッカリした。

わたしの理解が間違っていたのだろうか?
そもそも、わたしは改めてフェミニズムを学んだこともない。
むつかしい専門書も、簡単な漫画の入門書すら読んでいない。
ふわりと知った、基本理念を、なんて素晴らしい!と感じた。

ネットにある文献的なのなら読んだけれど、賛同できる!と思える流派?みたいなのはラディカルフェミニズムくらいだった。

身体的な差を考慮した相対的な平等は如何?

まず、前提として、男女では身体的な特徴が違う。
脳内での思考の方向性(性に関する価値観で顕著に表れる)も違う。
ホルモン的な影響による情緒なども違う。
行動の動機付けさえ違う。
そして前提である、身体の体格の差、体力の差、腕力の差は、どうがんばっても埋められないものだ。

そして、現在、女性にしか子供を産む能力はない。

わたしは、男女がそれぞれの得意分野を活かして、尊重し合い、みんなで生きていける世界をフェミニズムは目指しているのだと考えていた。

奇麗事だけれども、簡単に言うと、噛み砕き過ぎなのだけれども、みんな仲良し思想がフェミニズムだと思っていたのだ。

でも、フェミニストとミソジニストの戦いで、男女の戦いの構図がくり広げられている。
男が悪い!女が悪い!と批判し合って何も進まない。
まさに思考の方向性が真逆だったと表れだろう。
どちらも相手を、馬鹿だ、感情的だ、知性がない、幼稚だ、そう言って譲らない。
もはやどっちもどっちだろうと。

ただ、アンチフェミ界隈には女性もいて、フェミニズム界隈には男性もいる。
男女の違いと言うよりは、やはり「思想」としての違いなのだろうか?

でも、フェミのあまりの過激主張には、わたしの理解が間違いだったのか?と思ってしまう(なにせ、文献を読んでいないにわかなので)。

アンフェ界隈にもときに納得な意見がある。
それでも、男性が多いアンフェ界隈の真ん中にあるのは「如何にしてモテるか」「如何にして女とヤるか」という「性欲」というものが重要な位置を占めており、切っても切り離せないものとしてあるらしく、どうにも馴染めるものではない。
(フェミニズムではないのだから、女性の性を消費する側としての意見であることは、当然ではあるのかもだけれども、消費される側の性にあるから、受け入れ難いものが多い)

ただ、フェミニズムは女性のみが唱えることが許されたものだ!なんていう、女性の主張も見たけれど、それにはわたしは大反対だ。
女性の権利を充実させるためだけものというのも違うと考えるし。

奇麗事だ。理想論だ。そう言われると思う。でも。
男女の関係を性的なものだけで捉えるのではなく、人間性で結びつくものとして捉えるものだと考えて、フェミニズムを良いと感じたのは、確かにわたしの勝手な理解かもしれない。

女性が自立し生きてもいい。もちろんだ。
でも、つまりはそれぞれの幸福の追求をそれぞれが自分の意志で出来ることだろう、と。
パートナーのために尽くすことが幸せだという男女もいて当然なのだから。

その意志が本当に自分の心から生まれたものであるなら、正常な精神での判断であるなら尊重したい思いしかない。

ただ、そうでないかも知れないことを、確かめる術がないから難しい。
本人にすら理解できないことがある。
トラウマに起因したりする行動では幸福とは言えないと、自らの経験を基にわたしは考えているから。

ジェンダーの平等にも、性自認にも、悪意が混ざらなければ、悪用する輩さえいなければ、良いことなのに、と思う。

オートガイネフィリアがトランス女性の権利を阻む困った存在ではないか?

そもそも、自分らしく生きることに他人の許可がいる、というのことが大きな問題に感じる。

ジェンダー平等に、身体の差を考慮しないのは、さすがに違うのではないか?
けれども、どうにもLGBTQ活動家の意見に、その差を考慮する部分がさっぱりない。
心の中の認識を他者に押し付けて生きることが、彼ら彼女らにとって全く苦ではないのか?と、そうだとしたら何だか、悲しい。

まず、男女の身体的な圧倒的な違いを無視した平等なんて、もはや平等ではないだろうに。

(とかいうと、男はガテン系やら体力の優位性を使って働く!女は産み育てよ!がわいてきそう……)

わたしは、男女の平等に関して、相対的な平等が真の平等ではないかと考えている。

割り勘でもよく男女で問題になるけれど、
お互いの収入から割り出した相対的な割り勘にすればいいのに。
食事なら食べた分払うでいいじゃん。

わたしはタダというものが怖い。
いつか「恩を返せ!」と脅迫される未来を想像してしまうから。


「1人の人間」として付き合えたら

エマ・ワトソンさんの話に戻る。

エマさんは「1人の人間」という言葉を使って話していた。

わたしもひとと接するならそうでありたいと思っていたし、みなが「個」としての生き方が出来ることは素晴らしいと、フェミニズムの概念に出会った当時のわたしは、まさにそう(フェミニズムを)理解したから推したいと思ったのだ。

すぐに現実を見てウンザリした。

ただ、エマさんのように言うには、あまりに世の中には悪意が溢れていて、やはり奇麗事であると思うのだ。

トランス女性がまったくの男性の姿のままで女子トイレに、女湯にいても動揺もしないでいられるのか?
もし、この先、海外のようになって、そんなことが起きたとき、日本の女性たちが、動揺を見せたりしたら、差別だと言われる?

エマさんは、そのトランス彼女から性暴力を受けてもそう言えるのだろうか?
そうならエマさんは聖人なのだろうと思う。
神の如き清い心。他人の悪意すらもその御心で包み込めるのか、と。

これはまた別の話なのかもしれない。
性善説に基づいて行動するならそれで正しいのだ。

でも、散々、日本の女性たちは自衛を求められてきた。
性暴力に遭わないように、自衛して!と言われてきた。
最悪の場合を考えて自衛しないと、自衛にならない。

わたしは、身体男性から受けた、犯罪行為でしかないもの(立証できないので嘘松呼ばわりも仕方ない)で、その恐怖心に抗えない。
身体が男性であるのに女性です!と言わない人間を黙らせる態度のヒトを、エマさんのように、穏やかな笑みを湛え「当然に同じ1人の人間です」というようにはとても受け入れられない。

それは一部の暴力的な人間がいたからで、善良なひとには甚だ迷惑で不快だろうとは理解する。

それを尊重してほしいなどということも、関係のないひとからしてみたら、迷惑で不快でわがままでしかないのだろう。
わたしの安全が欲しい!と叫んだところで、お前ひとりの安全が脅かされようが知るか!で終わる話なのだ。

でもその発言そのものが、まさに人権意識の低い日本社会なのだと思う

おもてなし、助け合い、礼儀正しい、日本の国は「性進国」「ポルノ大国」「性の搾取に寛容」な国だ。

性の開放なんて、本当に馬鹿馬鹿しい。
なぜ性的なことへの探求を、社会で大っぴらにしようなんてするのか?それが心から好きな男女のみでやればいいだろうに。布教されたら迷惑だ。

謎の包括的性教育なるものが、快楽を率先して教えたがるのがさっぱり理解できない。
知るべきことは別にある。
現在の大人すらよく知りもしない「生理」「妊娠」「出産」「避妊」「性感染症」「同意の正しい意味」「お互いを尊重すること」そう言った正しい知識を教えることに徹するべきで、それ以上に必要な性の教育なんてものがあるだろうか?

その基盤は「思いやり」でしかないと考える。

日本人は親切だ、なんて言われるけれど、本当にそうだろうか?
日本人は他人の評価を気にするからこそ、親切に振る舞いたいのではないか?
自分がそうしたいのではなく、そういう自分だと他人に思われたいからでは?

もちろん、本当に親切なひとはたくさんいるし、大多数が困っているひとを放っておくことを嫌だと感じるひとが大半だろう。それが人間らしさだと思う。

個人がみな、自分らしく生きる世界をフェミニズムと理解し、ジェンダー平等も性の多様性も、それに付随し良いものだと感じた。

わたしの人生が善良なひととの出会いだけでできていたなら、これらを激推していたと思う。
エマさんのように、推せたのかもしれない。
わたしの狭量をぶちまけているだけなのかもしれない。


SEXとGENDERは別のもの

平等であっていいのは、ジェンダーであって、身体の性別ではない。
身体の性によって明らかな違いがあることを無視して、平等なんてあり得ない。
だから、相対的な平等が真の平等だと考える。

そして、エロはこそこそと隠れてヤっていれば、わざわざ公に糾弾されることもなかろうに、と思う。
それこそ、静謐に守っておいてほしいものだって世界にはあるのだ。

パートナーと良い関係を築いて、友人と分かち合って、それで満足できなくなった人間は、どんどん人間らしい部分を捨てていくのではないか?

もしや、この先、それらが新しい人間らしさになるのだろうか?
残虐性も、加虐心も、支配欲も、新たな文化となってしまうのでは?

それらはもとからあったのかも知れないけれど、抗うことができることが人間らしさであったはずだと、わたしは思う。

幼稚化する人間の変化を、進化と呼ばせようとしているのは誰なのだろう?
思考をやめつつある人間を統率し、得をするのは誰だろう?
至極真っ当なことすら差別になる。

女性たちの言う「ガラスの天井」は確かにあるだろう。
でも、男性たちには「ガラスの地下室」というものがある。

男女どちらがより優秀で、どちらが劣っているのか?
それを争うことこそが馬鹿げているだろうに。

「1人の人間」であるのに、
男でありたい、女でありたい。
男らしくありなさい、女らしくありなさい。
男と女にこだわることこそ多様化する性の前では無駄であろうに。

それでも、自分らしくあることに、身体の性別は考慮せざるを得ないだろう。

ジェンダーの平等なんて本人の自由だ。
正直、それぞれに価値観だって違うし共用することすら無理なものだと感じる。
ひとりひとり違う感覚をそれぞれに他人に理解されなければいけないなんて、無理だ。


静謐に守られることこそが文化であったもの、解放の是非

話を逸らしますが。

わたしは、ロリータファッションに身を包んだ少女たちを遠くから、まあ素敵!かわいい!と思ってしまう者だ。

そんな少女たちは、自分の好きなファッションに身を包み、その界隈で慎ましく愉しんでいる。

そういう、閉鎖的な世界であるからの楽しさがある。
閉鎖的であるから故の団結、仲間、空気、意識の共有、暗黙のルールと秩序、そういうものってあると思うのだ。

なぜ、それを社会全体に広めなければならないのか?

わたしはかつてのオタク文化の慎ましさが好きだ。
理解されなくても自分はこれらが好きなのだ!と一般社会に蔑まれても、続いたその文化。

現在の、萌えだなんだ、市民権などいらなかったのにな、とわたしは思う。

別にLGBTQコミュニティを理解したくないわけでもなく、理解することが許されるなら是非ぜひ知りたいことはたくさんある。

でも、無理矢理に理解させられることには抵抗がある。

そのひとの内面のデリケートな部分を押し付けられることは恐怖だ。

わたしは、性被害を話すことで何人ものひとが離れていった。
話してしまったわたしが悪い。自業自得で、仕方ない。
背負いきれない、責任は取れない、自分を犠牲には出来ない、その判断は尊重するしかない。

わたしの内面を押し付けていいはずがないのだ。
お互い「1人の人間」でしかないのだから。

その意思決定を尊重し合うこと。
知りたくないの意思を無視してはいけないはずだ。
知らないでいることを選べないことはとても怖い。

他人のデリケート内面を何もかも肯定的に捉えなきゃならないなんて無理だ。

一時期話題になったペド差別がまさにそれではないか?
実害がなければ良いはずだ!はそちらの考えで、こちらは知ってしまったら恐怖なのだ。

その意思決定を尊重し合うこと。知りたくないの意思を無視してはいけないはずだ。知らないでいることを選べないことはとても怖い。
他人のデリケート内面を何もかも肯定的に捉えなきゃならないなんて無理だ。
一時期話題になったペド差別がまさにそれではないか?
実害がなければ良いはずだ!はそちらの考えで、こちらは知ってしまったら恐怖なのだ。


「1人の人間」として尊重することは、すべてを分かり合うことではない

お互いに、相手を嫌う権利があって、相手の嫌だを尊重していられて、関係性ははじめて対等になるとわたしは考えている。

わたしが全力で嫌い、許さないものは、暴力というすべての行為と、その言い訳だ。
「1人の人間」として尊重するからこそ、暴力を振るい、正当化するひとを許さない。

1021新宿のマーチの映像を見た。女性と子供の権利のための活動だ。
参加したい思いはあっても、体力的にとても行くことができない。
その場の空気を知ることは、何より現実を肌で感じることができる。
でも、わたしは、あの場の空気に晒されることに耐えられる自信がない。
映像だけでも十分に恐怖で、ヘイトだ!と詰め寄る男性の怒号に負けずに声を上げる女性たちに、心からの敬意を贈る。

そのマーチを取り囲む、LGBTQ活動家たちの暴言のような怒号、態度から見るに。
平等も平和も遠いと思はざるを得ない。

男と女は戦うしかないのか?
数値化してデータ化して平和と平等のマニュアルが必要なのか?
思いやりの手引きも必要なのか?

アホくさ!そんなの、人間の退化の証明だろ!って切って捨てたい気分にもなる。


「思いやり」が人間関係の基本

思いやりなんてふわっとしたものは理想論だってヒトもいる。
ふわっとしていて掴めないから。見えないから。共有するのも難しいものだって。

けれど、思いやりはふわってしているのに、誰もが少しずつ共通した認識で繋がっている不思議な概念だ。

思いやりを失くしたら、人間の尊厳や基本的人権も、同時に無くなるということを、考えたことはあるだろうか?

現代の人間はマニュアルがなきゃ思いやれもしないのだろうか?

そんなはずはない。だって社会のみんなが「ふわり」としたその概念の端っこを掴んで離さずにいるから、人権や人間の尊厳が守られているのだから。
社会の中にある細々とした秩序のようなものすらもそうではないだろうか?

メディアは心の性別を尊重することは素敵なことだと言う。
わたしも本当に自分の性別への違和感で苦しむひとの気持ちは尊重したいと思う。

でも、自身の身体に違和を抱いて、その身体のまま生きて、自分の違和を他人に違和と言わせないように強いて、わたしはそんなあなたとは友達にはなれそうにないのだ。

その違和を、共感したり、なんだかねえ……って話すことならできるのに。自分の身体はたまたま男/女だけど、心はたまたま女/男だったんだよね……って。
けど、身体的な特徴より心の性を優先して、身体的は特徴はまったく意識しないでね、なんて、無理だ。

それともこれも悪しきルッキズムの一部なのか?

「性の多様性」が全く多様でないことが疑問

どう考えてもトランスジェンダーの主張が性の多様性と一番遠い気がするのだ。

自分の社会的、文化的な性にこだわりが強すぎる。
どうして男女どちらかでなきゃいけないのか?
どちらかにカテゴライズされたがるのは、なぜ?
「個」としての自分はいないのか?
「個」としての自分が「わたし」ではだめなのか?

そもそも、身体の性でなくてジェンダーに違和がないひとなんているのだろうか?
社会的・文化的な性に納得できないことがあるのは普通のことではないか?

性差別っていうのは、社会的・文化的な性の役割の認識から来るもので、そこに疑問とか、納得できないとか当然にあると思う。

スカートは女性 → 自由でええやん
スーツにネクタイは男性 → 自由でええやろ
可愛い好きは女性 → 自由にせえ
カッコイイ系がいい → 自由にせや
女性スペースに入りたい → ……なぜ? 身体の性には違和ないやん

身体の性に違和があるなら、まだ女性スペースに……も理解できる。
でも、社会的・文化的な性のジェンダーに違和があるっていうトランスジェンダーは身体の性に違和も無いのにどうして身体で分けられたスペースに入りたいのだろうか?

社会的・文化的の性ではなく身体の性で分けられた空間なのに、どうして?
社会的・文化的な性のジェンダーに違和があるなら、それを自分の「個」とすればいいと思う。
社会的・文化的な性のジェンダーバイアスなどの認識を変えるべく動けば良いのではないか?

なんで戸籍の性を変えなきゃなの?
そうしたら身体的特徴は生得的性を持つ人より劣った能力のその性別のひとになる。
トランス男性は、体格や腕力や体力に劣り、射精の能力はない。
トランス女性は、体格や腕力や体力が明らかに有利で、妊娠出産にまつわる能力を持たない。特例法から外性器がそのまままで良いとなるなら、ペニスを所有したままになる。

不完全に擬態することを、他人には完全にそのものであるように扱ってください、配慮してくださいって……。
上記を見ればわかるだろうが、トランス男性には、もとより男性に対して加害すること自体、少し難しい。
が、トランス女性は、もともとの女性に容易に加害できてしまえるのだ。性的な加害すら、男性からと同じ要領で、むしろ男性より容易にできてしまえる(海外で起きた事件がまさにそう)。

社会的な役割、文化的な認識、に違和感なら、ジェンダーバイアスを取り除く、それでいいのではないかと思うのだけれども、違うのか?
どうして、身体的な特徴で分けることによって、加害されないように作った安全な場所、避難所でもある女性スペースに入らなきゃならないのか?

ジェンダー平等ってそういうことなのか?


昔、友達としていた、彼女/彼を思う

20歳の頃、年頃が同じ、性同一性障害の診断がせれている、身体が女性の友人は、自認は男性、FtM、トランス男性の立場の友人は、男性からの加害を恐れていた。

自認が男性でも、腕力と体力と体の大きさに、もともと女性の身体の自分は敵わないから、生得的男性は恐怖対象にもなるのだと。
自認しても変わらない、身体の差がある。
どんなに願っても努力しても超えられない壁があることに、友人は悔しさに涙した。

その涙にまざまざと知った。
ぼんやりと想像していた性同一性障害の現実を。

ホルモン治療で理想に寄せても、
手術して限りなく理想に近づけても、
戸籍をも変えても、
どんなに筋力トレーニングを積んでも、
彼女は彼女の望む男性にはなれない。
友人の涙で、わたしですら理解してしまう深い絶望だった

LGBTQの虹色の活動がはじまったとき、トランスジェンダーさんはそれを抱えて生きている。そう思っていた。わたしの無知ゆえに。

SEXとGENDERはまったく違うと知ってからは、たくさんの「なぜ?」が渦巻いている。
そして答えを誰も教えてくれない。
ノーディベート。議論はしない。反対意見は差別、ヘイト。

性の多様性は、性別に関係なく自分らしく生きることと理解したら、本当に良い概念だ。

でもなぜか、
「男と女、あなたはどちら?」と新たにカテゴライズし直すことが重要であるみたいな主張がくり広げられている。
子供たちにも、小学生にまで「あなたのジェンダーは、男の子よりかな?女の子よりかな?」なんて話す。

性はグラデーションと言い、男か女でどちら寄りかな?と、単純に男女の生き方しか存在しない中でのグラデーション。

やっぱり性別は男と女しかなく、どちらとして生きるのが自分らしさか?という話。

その程度の多様なあり方を「性の多様性」と呼んでいたのかと心底ガッカリしているのだ。それのどこが多様な在り方なのだろうか?
どうしてわざわざ、そんなことを自覚して見直さなければならない?
そのままの自分の「個」で生きればいいじゃない。

亡くなったりゅうちぇるさんは、よくジェンダーバイアスについてメディアで語っていた。
性の多様性はそれらを無くすことだと理解したから、素晴らしいと感じた。

蓋を開けたら全く違う。

男だから、女だから、そのジェンダーバイアスの型にわざわざハマりにいくような多様性には、絶対反対、違和感しか無い。

SEXに違和感があるのか?
GENDERに違和感があるのか?
この違いはあまりに大きい。
混同して考えるのは、当事者に対しても失礼に当たると、わたしは思う。

わたしの性別は女性です。身体も心も女性です。
社会的・文化的なジェンダーとして、女性の人権を社会全体で考えてほしいし、そうしようよと訴えたい。
日本の女性としてのジェンダーには不満ばかりあります。
性暴力についても、様々に軽視されている問題があります。
でもやはり、その多くが収束するところは「性」という認識が軽い者ものであるからに辿り着きます。

女湯には、もとから、性加害を受けてから、入ることもありません。
他人に、性別は関係なく、裸体を晒すことが苦痛だからです。
正直、身体男性の露出狂に遭遇する方がマシなくらいです。

湯浴み着で隠せばよいなんて、ものすごく失礼で、その見識を疑わざるを得ない発言をなさった男性のコメンテーターさんがいらしたらしいですが、本当に、いろいろと浅いですね。
男性の考えと女性の認識の差なんでしょうかね。

余談。
天皇家の方が「自認の性」を表明したときに、何が起こるのか?という話を想像すると、あまりに社会が一変してしまうことに感じる。

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