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友達だからっていつでも認められるわけじゃなくて、それでも。『親友の心得』(『ツナグ』より)-10代だったわたしが、贈りたい1冊-

こんにちは!暗やみ本屋ハックツのはしもとです。

暑い日が続きますが、みなさんいかがでしょうか。
外は随分暑いけれど、夏らしいことはなかなかできない。。気持ちだけでも!と、夏の音楽をかけながら更新しています。
ただ夏の音楽は元気なのが多いので、作業そっちのけに聴いちゃいそうです。夏休みのときに宿題そっちのけで夏祭りに行っちゃうみたいな。。。それもまた、夏の誘惑っぽいですね、アップテンポに乗っかっていきましょう。ほかにも本や映画から夏を感じてみるのもいいですね!

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さてさて、今回からはハックツメンバーが10代のときに読んで支えになった、救われた1冊を紹介していきます。

題して『10代だったわたしが、贈りたい1冊』

いまは仕事をしたり、大学に通う傍ら、ハックツに関わるスタッフが多いのですが、わたしたちも10代のときがあったわけで。そんなわたしたちが当時読んで心に深く刺さった本を、そのときの話と合わせて紹介していきます。

今回は、いま大学生で暗やみ本屋ハックツを手伝ってくれているスタッフ「こんちゃん」の紹介です。中高一貫校に通っている頃からハックツに通っていて、今では一緒にハックツの企画を考えたりしています。

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こんにちは、殆どの人はきっと初めまして。暗やみ本屋ハックツの学生スタッフの近藤です。

10代の私が救われた本、というのを10代最後の年に考えてみています。でも意外と思いつかないものですね。私が好きだった本ってどうして印象に残っているのだろう、と本棚を眺めながら考えていました。

その中から一冊、「救われた」や「励まされた」とは少し違うのかもしれませんが、私の中に強く残っている本を紹介させていただきたいと思います。

10代だったわたしが、贈りたい1冊
『ツナグ』辻村深月

かなり有名すぎる作品ではあるのですが、辻村深月さんの『ツナグ』という小説について書かせてもらいます。映画化もしていて、読んだことあるって人も多いのではないでしょうか。

-あらすじ-
「使者(ツナグ)」という存在を通して一生に一度だけ死んだ人間に再会する人たちのお話です。死者と生者との再会ができるのは、生きている時に一回、死んだあとに一回きり。つまり誰かに先に会われてしまっていれば再会は叶わないし、自分が会うことで他の誰かの機会は無くなる、そんなシビアな仕組みでもあります。後悔だったり、思い入れだったり、相手が死んだことで伝えることのできなかった想いをもしも伝えることができたら。そんな望みや不安を抱えてツナグに依頼をしに来た彼らをオムニバス形式で書いた作品です。

誰かの死を経験したとき、誰もが一度は「もう一度会いたい」と思ったことがあるのではないでしょうか。私も読んだとき、ツナグが居たらいいのになあと思う一方で、私が例えばその人に会ってしまっていいのかなあとも考えたりしました。そんな葛藤の様子や、それぞれ年代も立場も異なる登場人物たちのどこかしらには皆さん共感できる部分があるのではないかと思います。

そして今回書きたいのは、お話の主題である「死」ではなくて。私が強く共感した一章があるので、そのことについてですね。五つの章で構成されている本作なのですが、その中に「親友の心得」という章があります。(だいぶネタバレになるかもしれないので大丈夫な方だけ読んでください)

「親友の心得」はそのタイトルの通り、交通事故で親友を亡くしてしまった女子高生のお話です。主人公の嵐美砂は強い後悔を抱いていました。彼女を殺してしまったのは自分だ、と。
亡くなった親友・御園奈津は、とても「良い子」です。聞き上手で人との関係を円満に持つのが上手く、いつも親友の嵐に対して可愛い、私と違ってすごい、羨ましい、と手放しで褒められるような素直な子です。趣味や価値観が合う親密な友人関係を築いている一方で、嵐自身もそうやって立てられることをどこか心地よく感じていました。
嵐はどちらかというと優秀な子といった部類で、顔立ちも整っているし所属する演劇部の中での実力を認められていて、その自分が持つ自信や負けず嫌いな性格も自覚しています。
その負けず嫌いなプライドの高さが、自分をいつも立ててくれる親友に対しても向いてしまったら。
出来る側の人間であると思っている自分を上げてくれる彼女に、どうしても敵わない部分ばかりが嫌に目について、それでも御園は私を認めてくれるからと嵐は思っていました。しかし演劇部でのオーディションで、それまで役者として横に立とうとはしてこなかった御園が唐突に手を上げます。勝てると思っていたのに結果主役を勝ち取ったのは御園でした。嵐はそのことを「裏切り」と形容しました。

大事な友人でも、どんなに仲が良くても、相手に嫉妬してしまったり些細なことを気にしてしまうことはある意味当然のことです。だって違う人間ですもん。他人の気持ちを100%理解することなんて不可能だし、価値観や感情が100%同じ人間もいません。(友人に限らず家族でも同じだと思っています)
だからこそ人は言葉を持つし、対話することができます。理解はできなくても共感して寄り添うことや、相手を尊重することはできるので。

大学生になった今でこそ私はこう言えますが、中高生の頃はよく嵐と同じような感情に苛まれたなあと思います。こんなこと思ってしまう自分がおかしいのかな、悪いのかなと。でもそれってごく自然なことなんですよね。勿論ぶつかり合わずにいれば楽だし嫌な思いもせずにすみますが、難しいんですよね。
それに言葉にすれば解決できることもたくさんありますが、そう簡単にできたら誰も人間関係で苦労しないんです。それはプライドのせいかもしれないし、気後れかもしれないし、言語化するための語彙が無いからかもしれません。

私は嵐と違って自分に大層な自信はありませんし、実際に特別出来る方でもありませんでした。それでもどうしてもしょうもないプライドってあるもので。この子には負けたくないとか、これをやるなら勝ちたいとか。自分にどうやっても敵わない相手を身近に見て、悔しくて悔しくて素直に賞賛の言葉を口に出来ないこともたくさんありました。

彼女たちと同じ演劇部だった部分も分かるなあと。私は演劇と美術が好きなのですが、芸術分野って優劣の基準がテストの成績と違ってすっごく曖昧なんですよ。評価者の好みみたいなところもあるし、それぞれの場面で求められる形も変わってくるし。
でもどちらかが圧倒的に良い時って結構誰にでも分かるくらい、ああうまく言えないけどこれはこっちの方が良いんだっていう漠然とした壁が見えてしまうこともあります。分かってても悔しかったり、冷静に見れなくてなんでって思ったりするんです。
大体演劇だと選ぶ選ばれるっていう関係があるから、総合的に見て相手の方が合っていることは分かっているんだけど、細かなセリフの言い方や振る舞いが目について「それ私の方がもっと上手く出来る」なんて傲慢に感じてしまう。だから主役に選ばれた御園に対して嵐が感じてしまう嫌味のような感情は私も知っているなあと思いました。

こういうことは当然の感情ではあるのですが、その渦中にいる時ってなかなか冷静にはなれないものです。大切だったはずの相手を傷つけてしまったり、そんな自分を心底責めたり、時々それが取り返しのつかない間違いを引き寄せてしまったり。
役者としての稽古に励む御園を見ながら、久しぶりの裏方をする嵐は「御園が怪我をすればいいのに」と思ってしまいます。大きくなくていいから、彼女が主役として立てなければいいのに。そうしたら私がきっと主役になれるのに、と。

嫉妬は人を狂わせる、などとはよく言ったものです。ある日御園の言葉が許せなくなってしまった嵐は、通学路の坂道にあった水道の蛇口を捻ります。二人で通学している道にある、夏の日には水を一緒に飲んで笑いあった、小さな水道。水が流しっぱなしになっていた日、滑ったら危ないねと話していた場所でした。もう息が白く凍るほど寒い冬が訪れていました。
そして次の日の朝、御園奈津はその坂道を転げ落ちて車に撥ねられて亡くなります。

嵐は自分を責めたし、同時に自分が蛇口を触ったことが判明するのを恐れました。私が流した水が凍ったせいであの子は死んだのだ、と後悔しました。周りの人間たちは水道は原因ではないと答えましたが、それでも自分のしようとしたことが原因だったのではないか、そしてそれを謝りたくて、または半ば口止めのような気持ちで御園に会うことを決めます。
けれど再会した御園は、嵐を責めるどころか事故のことすら自ら口にはしません。以前と変わりない様子で微笑み、優しく言葉をかけます。きっと彼女は気づいていないのだ、私が蛇口を捻ったことを。そう思った嵐もまた自分のした間違いを話すことはできず、御園にそんなことを背負わせずに親友のまま別れようとして、再会の時は終わりを告げます。

しかし御園はツナグを通して嵐に「伝言」を遺していたのです。「道は凍ってなかったよ」と。

これ、結構残酷な終わり方だと私は思っていて。このことを嵐は「彼女は私に贖罪することすら許さなかった」と感じます。真意は御園にしかわかりません。あれはただの不運な事故だったよと嵐を開放するためかもしれませんし、あるいは凍っていなかったことは優しい嘘なのかもしれませんし、はたまた嵐がそう思ったように友人としての関係を突き放した言葉だったのでしょうか。
どちらにせよ、この伝言を聞いて嵐はまた一層強く後悔しました。喧嘩や言い争いになるとしても、関係の修復ができなくなるとしても、してしまったことを結局謝ることができなかったのだと。
物語だからといって綺麗に元通りとはいきません。現実の人間関係なら、尚更。

この物語を「救い」というのは難しいようにも思えます。ツナグに依頼して死者と再会すること自体、それが双方にとって良い結果とは限らないと作中では語られています。後悔を晴らして成仏できるとも限らないし、また会いに行った依頼者にとっても。
ただそのある種の残酷さがリアルだなあと私は思いました。また嵐や御園の感情は紛れもなく私自身が知っている感情でもありました。

出来心で蛇口を捻った嵐は、それを「仕方ないこと」や「原因じゃなくてよかったね」と作中で許されることはありません。御園が実際にどう思っていようが、嵐自身が彼女を許すことも出来なかったでしょう。ただそこにある、一時の気持ちに突き動かされてしまう人間の性として描かれています。それが私はこの作品の面白い部分だと思います。
人は何かしらの後悔を抱えたり、間違えたり、自分自身が止められなくなることが時々あります。その普遍性のようなものを目の前にただ提示されることは、共感できるという一つの救いでもあるのかもしれません。

『ツナグ』の彼女たち以外の登場人物も、とっても人間的で、欠点も長所もああこんな人いると思えるような人たちばかりなんです。結末は優しかったり、そうでもなかったり。
人間ってなんだかんだ言ってどうしようもない生き物だなあと思うんですよ、私。私自身もそんなに言えるほど出来た人間ではないのですが。めちゃくちゃ優しい人でもなんかすごい間違えてしまうこともあるし、逆に結構つんけんした人が意外と周りを見ていたりとか。
そういうどうしようもなさも全部ひっくるめて、私は人間が好きなんですよね。

さて長くなってしまいましたが。『ツナグ』も含めて辻村深月さんの作品はそんな人間の魅力みたいなものがぎゅっと詰まった作品が多いなと思うので、好きな作家さんの一人でもあります。
学校の図書館で一時期、辻村さんの作品を片っ端から借りて読んでいたことを今でも覚えています。ここまで読んでくださりありがとうございました。


10代を生きる貴方に、あるいはもう大人になった貴方にも素敵な一冊との出会いがありますように。

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<暗やみ本屋ハックツとは?>
 暗やみ本屋ハックツは、大人の方から寄贈いただいた本だけが並ぶ、10代限定の古本屋です。多いときでは約80冊が店内に並び、営業日によって本は入れ替わります。
 店内は「暗やみ本屋」の名の通り、真っ暗やみ。若者たちは洞窟のなかで宝探しをするかのように、懐中電灯を片手に本を探します。

暗やみ本屋ハックツ

それぞれの本は大人からのメッセージつき。若者たちはメッセージを読みながら本を手にとり、自分が欲しい本を選びます。寄贈された本がハックツされる(若者の手に渡る)と、スタッフより「ハックツされました!」メールが届きます。
 ハックツで出会う本や、地域の大人との出会は、若者たちの人生の選択肢を広げるきっかけになると信じて活動を続けています。

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