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二郎から始まる家族ゲーム

あらすじ
老人介護施設で働く主人公、老人療養病棟で働く母、破天荒な父、天真爛漫な精神疾患を患っている姉の家族模様を描いた物語。
ある日父が慢性リンパ骨髄腫に羅漢し、家族で父の介護をしながら様々な苦難を乗り越え、過去も振り返りながら新しい人生を作り出していく日々を面白可笑しく描いた内容。
破天荒な父、和夫が生まれる前の優しい風のようなエピローグから始まる。
老人介護、老人介護施設や老人療養病棟や医療介護制度に切り込んだ内容となっており様々な福祉制度を知るきっかけとなり、いつか来る家族との別れを切なく描いた語り口にも注目して欲しい。

【 エピローグ 】
 清は愛知県の老人保健施設で、この日初めての老人介護職として仕事をする事となっていた。
 今から20年前の事である。
「おはようございます。本日からお世話になります、田川清(たがわきよし)と申します。24歳です。隣の市から通っています。介護は初めての経験なので皆様のお役に立てれるよう一日でも早く仕事を覚えます。よろしくお願いします。」
清は緊張しながらも、その日出勤していた職員の前で挨拶をした。
清はパワハラ気質のある上司のいる段ボール工場で働き、ついにパワハラに気づいた妻が退職を勧めていたのを機に転職活動をしていた。

 妻とは2歳違いで新婚向けのアパートを借り二人暮らし、隣の市に住む実家とは車で約10分程度と何かあっても駆けつけやすい距離に住んでいた。
妻は総合病院の看護師として高校卒業と同時に看護師学校に通いながら看護師の資格を取得し元気に働いていた。

 転職先を探してハローワークや転職情報誌などを見ながら日々過ごしていた清は退職した日に報告も兼ねて実家に足を運んでいた。
実家の鍵を開け中に入ると、父の和夫(当時60歳)と姉の咲子(当時25歳)が居たので、
「段ボール工場パワハラが酷すぎてリンちゃん(妻)に辞めなって言われて、今仕事探してる所なんだよ。」
タバコに火をつけながら両親の部屋に座って和夫に話しかけた。
 和夫は1年前にひき逃げの交通事故にあい、足と腰が不自由になり新聞販売店の仕事を辞めていた。
和夫も煙草を吹かしながら
「そうか、合わん所なら辞めた方が一番や。人生短いんよって、また会う仕事見つけたらいいわ。」
テレビを見ながら答えた。
姉の咲子は精神疾患を患い、つい最近精神科に行き統合失調症と診断された。
 統合失調症の症状は、考えがまとまりを得ず話があっちこっちに飛んでしまったり、テレビの内容を自分の事だと思い込んだり、幻覚や幻聴が現れる精神疾患である。
 和夫がひき逃げの事故にあうまでは、
「精神科なんかに行ったら咲子の経歴に泥をぬってまうよってに、家で良うなるまで見といたらええんや。そのうち治るやろ。」
現在の精神疾患の治療を知らない和夫はそう清にいうのだった。
 咲子の状態は芳しくなく、看護師の妻に相談した所
「早く精神科に行って、診てもらわないと酷くなるだけだよ。」
と何度も和夫に言うのだが、決まって和夫はタバコを吹かしながら
「リンちゃんありがとうな。せやかて咲子が病院行きたない言うてるもんでな、連れていかれへんのやわ。」
と説明するのが常であった。
 母のルミ子はそのまた隣の市の老人療養病院まで始発の電車に乗って1時間30分かけて通勤していた。
勤務時間は8:00から17:00まで。
帰りは早く18:00には帰ってくる。乗り換えもスムーズに行くらしい。

 父の働く新聞販売店は、ブラック企業を通り越して裏の世界の人間が経営しているのではないかというくらい、従業員から搾取を繰り返し無い所から借金をこしらえ、払えなければ全て借用書を書かせ、そのあるはずのない借金で身体を縛り付け辞めさせないようにしている販売店だった。
 和夫もその経営方法の沼にハマり込み家族を道連れにして、ないがしろにして清と咲子がまだ小学生になる前から、その販売店で働いていたのだった。
 元々和夫は三重県の田舎の漁師町に産まれ育ち、中学生の頃に母ルミ子と知り合い、結婚に至る訳なのだが結婚してから10年間子供が授からず諦めていた時に、咲子の妊娠が分かりが誕生、翌年に清が妊娠、誕生するという俗にいう一姫二太郎を成し遂げた夫婦なのであった。
 和夫は中学校を卒業してからカツオ船に乗り、その後地元の漁協で働き、食品販売用のトレーやレジ袋の卸売りの会社を立ち上げた。
 先見の明があったのか地元にはスーパーマーケットが沢山できてきた事を見逃さなかった。
 学生時代の朋輩からレジ袋や商品を入れる箱、トレーやラップなどの包装品は全部名古屋から買っていると聞いて思いついたのが
「これからスーパーーマーケットや個人商店相手に地元で包装商品を売ったら、ええ商売になるわ!咲子や清も将来美味いもん食わせることができる!」
と一念発起して漁協の親類に銀行の融資課の人を紹介してもらい、自宅の土地と建物を担保に商売を始めたのである。
 商売を始めた当初は近くにライバル企業もなく飛ぶ鳥を落とす勢いで、次々とスーパーや個人商店と契約を結んでいった。
 特に漁業が盛んな街だった事もあってか網で取れた魚を軽トラックなどで運搬する際に使う大型の漁箱や、漁港の市場で魚を選別する大から小までの型の漁箱も売ってくれないかと打診され、紀州にある木型の漁箱を仕入れ販売する事でも多額の利益を得ていた。
 田舎の街では和夫はたちまち成功者とあがめ立てられ、親類一同鼻を高くして生活していたそうだ。
その商売に暗雲が立ち込め始めたのが1980年代初期頃、父の成功を聞きつけた地元の富豪が自分もやってみようかと商売を始め、お互いにしのぎを削っていたのだった。
 そんな時に、親戚の兄弟に頼まれていた大量の漁箱の支払いが手形で行われ、不渡り手形になってしまったのだ。
 大量に仕入れており、その支払いをあてに次の仕入れを発注していたため、その現金が用意できず仕方なく手形で決済を行ってしまい不渡り手形を2回出して事実上の倒産という事になったのだ。
 担保に入れていた和夫の自宅と土地は差し押さえられ抵当にかけられる事となり、家を明け渡さなければならなくなってしまったのだ。
その時には成功を喜んでくれていた親類は離れていき、帰る家が無くなったとルミ子は和夫の女兄弟に責め立てられ、嫌気がさした和夫は地元を離れる決心をしたのだった。

 父方の祖父、二郎は金沢の裕福な新聞販売店の経営をする父の非嫡出子として生まれ、軍人の道を志し海軍に入隊するのだが、後に心臓に疾患がみられたため、先の第2次世界大戦では日本郵船の軍備品補給の水先案内人となり軍属として生きてきたのである。
 非嫡出子として生まれてきた二郎は、長子にも関わらず自分の名前に「二」の文字が入っているのに気付くのも遅くはなかった。
 曾祖父からは、母親は死んだ。
と告げられていた二郎は、曾祖父が連れてきた女性が新しく曾祖父の妻となる事を知り、親戚からは
「あんたは妾の子なんよ。この家を出ていかなならんのよ。」
と祝言の際に告げられたのだという。
曾祖父からは祝言の後に初めて事実を告げられ、ショックを受けたのだという。
祖父二郎の母親は東京の女学院の教諭をしており、曾祖父が東京の師範学校に通っている時に出会い、恋愛関係になり、今でいう授かり婚となるはずだったそうのだが、その母親がずっと東京で暮らしたいという願望を捨てきれずに、長男であった曾祖父は女性に子供の面倒は任されないと、祖父二郎を金沢に連れて戻ってきたのだそうだ。
 地元でも名家で知られる田川家にとって、この事態は家の名を落とす所ではなく師範学校に通い師範として勤めるはずだった学校からも採用を拒否され、当時は金持ちの仕事であった新聞販売店の仕事の権利を買い取り商売を始めた。
 これが田川家のルーツである。
 新しい継母に子供が生まれ曾祖父は迷いなく「一郎」と名前を付けたそうだ。
 一郎は腹違いの兄である祖父の二郎に少しは懐いてはいたが、継母の生んだ兄弟は全員男で末の弟が一番懐いていたそうだ。
 清は祖父二郎の末の弟からいとこの結婚式の時に聞いたことがあった。
「あんたのじいさんは家が新聞屋で子供らが夕刊の配達を手伝っておったんやけど、継ぐのは一郎兄さんやと知っていたから夕刊を配る時間になると、どっかに行ってしまってワシらが代わりによく配達しとたんだよ。」
と教えてくれたことがあった。
 二郎は自分の生きる道を必死で探していたのかもしれない。
 二郎の末の弟は最後にこう言った。
「死にとうても自分じゃ死に切れんから軍隊に入って、お国のために散る」
そう言って海軍へ入隊していったそうだ。
 清は二郎の話を聞いて父が新聞販売店で働いて独立する事を夢見ていたのは、この事がきっかけだったんだと理解して、心に柔らかな温かい日差しが照らしてくれる思いにふけった。
 二郎は軍隊を離れたのち寒い土地は嫌だと日本海側の石川県金沢市から太平洋側へと移って来ていた。その間に東京の今でいう商業大学みたいな所へ入学して卒業してからは、金沢の自宅にいる事に遠慮を感じ、海軍に入隊して配属されたのが名古屋港だったと言う訳である。
 名古屋で大正末期から昭和初期に今でいうスナックやキャバレーのような、カフェという所で祖母、恵(ケイ)と出会ったのだという。
 二郎はたいそう恵に惚れ込み、毎日と言っていいほど通い詰めたのだそうだ。
 祖母、恵の生まれも複雑で和夫の地元の漁師町へ赤ん坊の頃、土地持ちのもらい子として養子に来たそうだ。その当時は赤子の頃から親同士で許嫁(いいなずけ)が取り決められ幼児の頃から既に
「あんたはあそこの家に嫁にいくんよ」
と言われて育ったそうだ。
しかしその嫁ぐはずだった家は、代々商売をしており、その許嫁の母親を見ると寝る暇もなく店にて立ち続け、その主人に怒鳴りつけられていたそうだ。
 そしてその許嫁の男も家が裕福なのを鼻にかけ恵に、
「俺が嫁にもらってやるんだから、いう事聞けよ」
などと尋常小学校に上がる前から言われてきたそうで、それが癪に障ったのと許嫁が男としてかっこ良くないと、乙女心を私は持って生きていくとばかりに名古屋のカフェで働き、
「どうせ私はみなしご。運よく養ってくれる男性が居たらその人と一緒になればいいの。」
思いながら働いていたそうだ。
 そのカフェに、生まれた境遇の似た二郎が来たものだから恵も最初からこの人と一緒になるのかな?そう考えていたそうだ。
 
 いよいよ第二次世界大戦が不気味な足音を立て、戦争が起こる前にアメリカに行こうと考えた二郎は1年間アメリカで生活をしたいと、金沢の家に行き往復旅券のお金の都合をつけてもらいアメリカで生活したそうだ。
 その前から二郎は英語に興味を持ち、東京の学校に行っていた時に友人と横浜に行き、英語の話せる人に積極的に話しかけ英語を話せるようにも、聞けるようにも、書けるようにもなっていたそうだ。
 なので商業を学んでいた二郎は西洋簿記を学んでいた事もあり、横浜のアメリカ人が経営するお店の経理を数店を任され、今でいうアルバイト代とは似ても似つかないような大金を手に入れ、金沢の家に頼りたくなかったため、アメリカに渡るお金を準備していたのに、アメリカへの渡航費用を都合付けてもらったのは、曾祖父の顔を潰さないための、二郎なりの配慮でもあった。
 当時アメリカに渡ると言っても空の航路はないので船旅である。
 何日いや何か月船に乗って過ごしたのだろうというほど長い間船に乗り、食料や船の燃料を調達するハワイなどで生の英語を使いこなせる事に自信を持った二郎は、アメリカと言っても何処に住処を構えようと船の中で考えた。一向に決まらないしアメリカは広い。自分はアメリカに何をしに行きたかったのだろうと考えた二郎はハッとひらめいた。
 子供の頃は日本海側の雪の積もる寒い土地で生きてきたのだから、今度は暖かい土地で暮らそうと考えた。
 船に乗っている間に仲良くなったアメリカ人に聞いて回った。
 ある夫婦に1年を通して暖かい所だよ教えてくれたロサンゼルスに住処を見つける事にした。
 第二次世界大戦が迫ってきている中でアメリカは三国協商で日本を世界の悪役に仕立て上げた。二郎がロスに行く頃にはもうすでに日本人に対しての差別が始まっておりなかなか住処は見つからず、住処が見つかるまではモーテルというホテルよりももっと簡素なアメリカ式民宿に宿泊していたそうだ。
 いよいよ住処が見つかったものの、今度は働く所を見つけなくてはいけない。偶然住処の近くに日本人が経営する大農場があり、そこで働くことになった。二郎はアメリカで働きながらも恵に手紙を送り続け、近況を報告していた。
 恵は名古屋に住みながら二郎の手紙を読み、帰ってくる1年後を指折り数えて暮らしていた。そんな時だった。
 名古屋に許嫁がやってきて恵を返せと店のまえでボーイと喧嘩をしている。困り果てたボーイが恵の所にやってきて
「どうしたらいい?自分でけじめをつけれるか?」
と言うと恵は裸足で外に出て、許嫁の男にすぐさまビンタを一発お見舞いしたそうだ。
 当時の男尊女卑が強い世の中で、女性に頬を張られた男は見るも哀れな姿だったそうだ。
 周りで見ていた野次馬も大笑いで、
「田舎もんの男が都会の女に言い寄って、頬を張られよった」
と許嫁の男は罵声を浴びせられ恵は一言も発せぬまま店に戻ったという。
 その許嫁はというと、泣きながら地団駄を踏んで
「ワシの嫁になる許嫁やったのに!!」
と捨て台詞を吐いて帰って行ったという。
 
 後日談だが、二郎と恵は第二次大戦前に恵のもらわれた漁師町に一緒に疎開する事になる。そこに許嫁の男がお嫁さんをもらって、よろず屋という、今でいうコンビニみたいな店を、息子達に良い大学に通わせて建築会社にまで発展させていた。恵はその許嫁と何十年か先に二人きりになる事があり、
「私と結婚しなくてよかったね。おめでとう。」
と言うと、
「ワシは嫁はもろうて子も産んだが、今でもあんたが一番やからな。」
と言われたらしく、その諦めない心が自分の事業を大きくした事を心から祝福したのだった。

 二郎はというと来る日もロサンゼルスの農場で汗を流して働いていたが、戦局が近くなってくると雇っていたアメリカ人は辞めてしまい、日本人だけで大きな農場を切り盛りしていかなくてはならなくなったそうだ。現代のように軽トラックみたいな便利なものは無く、遠くへ早く行くためには馬に乗って移動する事が求められた。
 通常は何か月もかかって乗馬の技術を身に付けるのだが、武道のたしなみもあった二郎は体幹が強く、馬との相性も良かったのか1週間程で農場全体を馬で回れるようになり、農場で働いていた日本人や日系人に、いきなり日本からやってきて英語はネイティブだし、馬は乗り回すしスパイなんじゃないか?と冗談で言われたそうだ。
 しかし時代は第二次世界大戦へ向けてじわりじわりと向かっていく中で、その冗談に背びれ尾ひれが付いて現地の保安官の耳に入ったらしく、保安官からキツイ尋問を受けたが、アメリカ合衆国への敬意と素晴らしさを称えるうちに保安官の疑いは晴れていき最後に、
「我が合衆国と日本の戦争は間違いなく始まる。滞在期間は決まっているのか?なるべく早く日本に帰った方が良い。いつ戦争が始まってもおかしくない局面に来ている。戦争が始まってしまえば敵国の人間として、あなたを逮捕しなくてはいけなくなる。私はそれをしたくない。」
タバコに火をつけながら、二郎にも一本勧めた。
無類のタバコ好きの二郎はアメリカで初めて、まともなタバコを吸ったのだ。
(日本のタバコに比べて甘く感じるし、嫌な苦みもない。どこまでも日本より進んでる国だな)と感じた。
 そうこうする間に帰国する期間が迫って来ていた。雇われの身でありながら馬を乗りこなし農場主とはめったに顔を合わせる事はなかったが、最後の別れと感謝の気持ちを伝えるために農場主に会える時間を作って欲しいと、前々から頼んでいたが農場主も戦局が近づく中、アメリカ人の経営するお店では最早、出荷を止められており各島を回る船に日持ちのする野菜を乗せてもらい日系人の多いハワイなどに行き商品である野菜を売りに何か月も滞在する事が多くなり、なかなか会える時間をもらえる事はなかった。
 しかし農場主も二郎が帰る3日前にやっと面談時間をセッティングしてくれ二郎はやっと感謝の気持ちを伝える事ができたのだ。
農場主は、
「我々日本人は戦争が始まると敵国人として捕らえられ、犯罪人のような生活を送らないといけないと今朝の新聞に載っていました。しかし私達はアメリカ人として生きる選択をして、ここに渡ってきました。君が日本に帰ってアメリカ人と戦うような事があれば、堂々と日本人として戦ってほしい。戦いの後は必ず仲良くなれる。喧嘩するほど仲が良いって日本で言うだろ?」
二郎は泣きながら、農場主の話を聞いていた。
喧嘩するほど仲が良い。なんて素敵な言葉なんだ。二郎は生涯この言葉を大切にするのであった。
 そしてアメリカから日本に帰って来た。横浜港に船は着いた。もうすでに二郎が経理をしていたアメリカ人のお店は閉まり、アメリカ人どころか外国人の姿すら見えない。
 壁には「贅沢は敵だ」「皇国日本の弾となれ」などプロパガンダの張り紙が貼られ、もうすでに戦争が始まっているかのような雰囲気だった。
 二郎はすぐに名古屋に向かった。恵に会うためだ。はたして恵は名古屋にいるのだろうか?
 そんな二郎の心配も無駄だった。恵は二郎が迎えに来てくれる事を心待ちにしており、会いに来てくれて二郎に、
「私たちこれからどうする?」
と話しかけられた時、二郎は結婚を恵に申し込むのであった。

 時は昭和16年、日中戦争は既に始まっていたが強国ロシアにも勝った大日本帝国軍なのだから、中国には負けるはずなんてない。そういう考えで日々流れてくる中国との戦争のニュースよりもアメリカなどの大国は、日本が満州に傀儡国家を作り植民地した事に猛烈に反対姿勢を打ち出し、特に不景気であったアメリカ合衆国のルーズベルト大統領は景気を回復させるためにも、重要事項はニューデイル政策を成功させる事であり、戦争を行う事で国内の内政への不満を諸外国に向ける必要があったのだ。
 そこでイギリスやフランスなどと価値感が一致する事によって、敵の敵は味方と都合の良い日本に目を付けたのだった。
 欧州ではドイツのナチス総統のヒトラーが世界征服の名の元に、ポーランドに戦争を仕掛け、昭和14年に第二次世界大戦がはじまったのである。
 アメリカとの戦争は避けたい日本であったが、植民地を持つイギリス、フランス、オランダなどの欧州の国は植民地との間で経済を回すブロック政策を行い、日本やドイツなど植民地を持たない国との取引には非常に高い関税をかける事で自国の通貨を守る政策をとっていたのであった。
 特にアメリカは日本に対して、満州国を解体し中華民国に返還するように求めたのだが、日本としてはロシアの南下政策に対して備えるための満州国設立であったため、アメリカの要求をのむ事はできないと訴え続けた。
 とうとう世界一の産油国であるアメリカは日本に対して石油の輸出を全面的にストップを行い、食料品などの輸出も欧州各国に協力を求めストップさせることによって、日本を経済的に追い込みアメリカに屈服するように求めてきたのだった。
 日本政府も最初はアメリカとの戦争は避けるべきという論調であったが、様々な論客が欧州の支配するアジアの国々を日本が助け、独立をさせる事で大東亜共栄圏を作ろうと唱え、民衆の気持ちを戦争やむなしと煽っていくのだった。
 この考えは欧州の植民地になっているアジアの国々にも一部支持を得て、日本もインド洋支配を推し進めるべくアメリカとの戦争はいよいよ避けられない状態になってきたのであった。
 そんな時代背景のあった昭和16年に二郎と恵はひっそりと二人だけで祝言を上げるのであった。
 二人の間の共通の願いは、事実上の孤児から大人になりこれから自分たちの家庭を持ち、幸せに暮らしていく事が唯一の願いであった。
 名古屋に二人は住んでいたが、二郎は恵の実家がある漁師町に空襲を懸念して疎開してきたのだった。
 田舎の街にたいそうなインテリ夫婦が来たと当時は噂になるほど華やかなファッションとハイカラな生活を送っていたのだが、とうとう赤紙が二郎に来てしまうのである。
 二郎は兵役検査を受けるのであるが、過去に海軍に所属しており心臓の疾患から除隊して太平洋戦争開戦前までアメリカに住んでいた事、船の航路図を見たり、水先案内を出来る事から軍属として大日本帝国軍人の兵器や食料の補給を担う日本郵政に所属する事が決まった。
 その漁師町はカツオの遠洋漁業の水揚げを行う港としても栄えており、軍属の中でも高等官という位を賜り、海軍などでは提督と同等の位を授かったのだ。
 東京の師範学校を卒業している事から、学業に合っては申し分なし、家柄も石川県金沢市の名門田川家の非嫡出子ではあるが長子として生まれ、海軍へ仕官し合格し、心臓の疾患が発見されるまで航海の計画などを立てる水先人としての働きを本邦は認め軍属の高等官に任命する事とする。
 という立派な任命状があったらしいのだが、第二次世界大戦が終わった頃には過去の栄光として燃やしてしまったと二郎は和夫は言っていた。
 和夫はそんな二郎と恵の間に3番目の子として、終戦前の昭和20年1月に産まれるのだった。
 昭和16年に祝言を上げ、恵の故郷である漁師町に帰って来た二人は、まず恵の義理の両親に結婚の報告をして二郎は持参金を手渡した。住む所を決めていない二人に恵の義両親は、自分の持っている土地を譲り家を建てて住めばいいと、住む家を贈ってくれたのだ。
 戦争中とはいえ、まだ日本軍の圧倒的な勝利による大東亜共栄圏の拡大の途中であった日本国民はこの戦争も勝利に終わるだろうと楽観的に考えており、まだ生活にはゆとりがあったのだという。
 二郎と恵の長男として生まれた和夫は大切に育てられ、将来は師範か軍人か税務署に努めてほしいと願われていたそうだ。
 終戦間際、日本の敗戦が濃厚になっていた頃、二郎は軍属として軍人に食料や武器を補給するための船に乗り目的地までを船の長として、水先案内をしていたのだが、航路の暗号は全てアメリカに解読されており、空からの爆撃によって何度船が沈んだか分からないほど航海に行っていたのだった。
 軍属の物資補給船が出る時は、爆撃も想定して一緒に救助船が何艘も並走していたのだそうだ。実際爆撃を受けると、位の高い二郎から助け出され漁師町から連れて行った軍属の若い衆や、身体に異常があり兵役に付けなかった漁師町の朋輩(友達、仲間の昔言葉で、ほうばいと読む)などは後から助け出される事が多く、船が爆撃を受け沈められると全員船から投げ出され、泳げない者はもがいて体力を使い果たし海に沈んで行くものや、大きな海原ではサメの餌食になってしまった者もいたと二郎は戦争の話は極力戦後はしなかったそうなのだが、戦争の事を不意に思い出すことがあり和夫に聞かせていたのだという。
 それくらい悲惨な軍属としての太平洋戦争の参加により、漁師町の男連中を沢山死なせてしまったという事実を二郎は戦後もずっと背負い続け戦後、地元の漁師町の復興のために、町役場に行って西洋簿記を漁師町にいち早く採用させることにより経済を発展させ安定さる事によって、昭和30年代から40年代にかけては日本一裕福な市町村の町になった事があるそうだ。
 二郎は町役場や町会議員として町の発展に貢献して欲しいと地元の代議士からの要請があったが皆断ったそうだ。
 自分はこの町の男連中を戦争で何人も死なせてしまい表舞台に立つような人間にはならないと決めて最期まで生きたそうだ。
 恵から聞いた事があるのは、玉音放送を聞き戦争が終わって3日ほどで二郎は帰って来た。
 帰って来た時は戦時服といって国民服とも言ったらしいが、その服は汚れ顔も泥や油まみれで靴下に米を3合のみ入れて持って帰ってきたのだそうだ。
 船を出しては爆撃され地元の男連中を死なせてしまった二郎は身の心もボロボロだった。戦争が終わり船を降りる時に軍人がやってきて
「田川さん、落ち込むことはない。あんたはようやった。上官が島も登記するから好きな島選べって、あとは車でも銃剣でも売れるような物は何でも持っていけと言ってるから、選んでおいてくれんか?」 
 二郎は米蔵の場所を聞いて、3合分のコメを履いていた靴下に入れ、
「やっと戦争が終わったか。喧嘩するほど仲が良い。これからはアメリカの時代じゃ、英語も話せるようになるしアメリカの映画も見れるな、楽しみじゃのう、俺は何人も町の人を死なせとるよってに米3合もらって明日の飯が食えればそれでいい。」
と軍人に言って、恵の待つ我が家に帰って来たと言う訳だ。
 生まれたばかりの和夫を抱きかかえて戦後3か月程は家でゆっくりと戦争時の疲れを癒したそうだ。
 3か月経つとGHQの日系職員が二郎の所にやってきて、
「B級とC級の戦犯の尋問を名古屋で行う。あなたは英語が堪能だと情報が入った。協力を願えませんか?」
 二郎はB級、C級の戦犯と言われる人達の定義を聞いて納得して恵に、
「しばらくまた家をあけるが、今あるお金で十分生活できるだろう。行ってくる。」
と泊りの用意をしてGHQの職員の運転する車に乗り名古屋に向かった。
 軍属としての給金はとても多く、義理堅い二郎は、恵の義実家に給金を送ったあとに義実家から恵に生活費を渡してほしいと二郎は頼んでいたのだが、あとから聞くと戦争時代に送っていた給金の半分も恵に渡っていなかったという。
 民宿を経営する義実家が、比較的温暖な漁師町に位の高い軍人が休息を取りに来るのを頼りに、民宿をより立派に作り変える事で位の高い軍人さんに泊まってもらえる事が出来るようになり、民宿の改装にほぼ使ってしまったそうなのである。
 二郎の家にはそれでも十分すぎるほどの貯蓄があった。新円切り替えが行わるまでは…
 新円切り替えとは以下のようなものである。
新円切替(しんえんきりかえ)とは、1946年昭和21年)2月16日夕刻に、幣原内閣が発表した戦後インフレーション対策として行われた金融緊急措置令を始めとする新紙幣(新円)の発行、それに伴う従来の紙幣流通の停止などに伴う通貨切替政策に対する総称である。
(Wikipediaより抜粋)
 これが行われてから二郎の家に貯蓄していた円は全て無価値同然となり、一気に苦しい生活に追い詰められていくのであった。






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