オリンピック開催国に見受けられる幼稚な自我


自我と妥協と理想


人生経験を積むと、自分も含めていかに人間が自分勝手でしかも、それだけでは生きていけなくて、表面上では適応しても相変わらず欲深く、似たもの同士が集まり、お互いに歪なものを正当化しあう集団的な生き物かが分かるはずだ。
しかし、振り返れば本当に尽くしてくれた人がいたと思えたからこそ、オレ様は騙されて損をしてやるのである。捻くれたものの見方だが、これで私は犯罪を犯さずに済む。
そして、自制することで自分の生きづらさが増しても、皆のプラスになる物事のレベルをあげることを「理想」という。理想とは妥協の上に成り立つ。自分だけの願いは理想ではない。もの言ったら叶う、許可してくれないとやだ、その程度の主張は子供で言えばワガママ、大人であれば狂気である。
私は昔、それを詩で表現しようとした。選民思想の精神異常さが勝利にこだわり、ルールを無視して、自分を優位にして、皆んながクソつまらないなって思うゲームが終わった後もしつこく追いかけ回してくる。その行き着く先の気持ち悪さと、周りと違う孤独感を受け入れることの正しさを表現できていると思ったら、いいね、ください。痛みに悶えるバタリアンを救うみたいに。

理想とかけ離れたオリンピック

日本人から見て、パリのオリンピックは目も当てられないことが多かった。この「理想」のレベルが低すぎるからである。

誤審もそうだが、女の大会に出てトロフィーを掻っ攫うトランスジェンダーが、いかに滑稽で論外であるか、どれだけ気持ちの悪いことか。悪意の有無にも関わらず、酷いものなのかを私なりに想像してみよう。

彼が純粋に勝利を噛み締めていたとしたら、それを正当化するのに使われる養分は「感謝」と「選民思想」。上手く騙せたとするならば、「勝利への依存」「贖罪の計画」それらが心中を埋め尽くすだろう。そうしないと自我が保てないだろうから。多くの人々の声を無視しないと成り立たないが賞賛はされたいという無理をするのだから両極端になるのである。

前者は眩しすぎる光に酔い、後者は深まる闇に酔う。どちらも真実から目を背けさせて見えなくさせる。イルミナティとはよく言ったものだ。白い闇とか表現すると、羞恥でウヒーッてなる。宵闇酔いとか、ウホーッ!

失礼。つまりは中庸が肝心だ。

そもそもが、ボクシングでトランスジェンダーが優勝するのは戦略として通用するわけがないのだが、どういうわけか上がそれを認めている。ボクシングをしたことがないような連中が。
大舞台を利用して、超裕福層が愉しんでいる倒錯ショーを一般人に見せつけてどうする?そういうザッピングをして、こそっと周囲のリアクションを確かめたかったのだろうが、これを推し進めた大元の人は、自分の趣味の悪さに気付いていただけただろうか?私が他の自分の記事で支配者はクソダサい肩パッドしているというプロファイリングは、そのことを象徴的に物語っているのだ。
我々を不快にし、誤ったものを頂上として子供たちに見せ付けた責任をとっていただきたい。

それらのセンスと親和性があったのか、ヨーロッパは昔から陸繋ぎで奪い合う完全勝者の歴史が連なるお国柄。世界的な非難など、勝利の前にはどうでもいい、勝てばレコードとして残り、あとは様々な解釈があるぐらいにしか考えていないだろう。イギリスの属国のアメリカも同じ穴のムジナ。それがデフォルトだ。歴史改変もお手のもの。ゲーム業界を飛び越えて巷を騒がせている、アサシングリードの弥助もそうだ。人口減少すると分かりきった日本人なんぞ、自分たちの奴隷植民地政策に抗った英雄ではなく、奴隷制度を利用していた張本人にしたれと。リアル西海岸の観光地の売店で、模造刀をチャイニーズニンジャブレイドと言って騒ぐアメリカンキッズなど、そうそう誤認を正してくれそうにないぞ。日本人の歴史には自虐史観植え付けといて、イギリスはアヘン戦争を教科書に載せないそうな、あまりにも自分たちが悪者すぎて耐えきれんてか。
大丈夫、本当のことで先祖の残酷さにより血脈は汚されているが過去のことだからと言ってあげたいが、それはニヒリズムを享受する我々が大人だからこそで、現実問題として純真なキッズたちの瞳の輝きは失われる可能性はある。それはトラウマになる。愛国心を育めない。やっぱり、伏せとこう。絶対美化できんし。

ほんまね、誰にも忖度しないで人間のサガ(性)を人類史から読み解いて反省する学問が必要だと思う。実際あるか知らんけど。グレートスピリッツを信じて滅ぼされるような民族も、それは信仰に散る怠惰と言って構わない。近代兵器と計略に対する政策が間に合わなかったと。だから、建前でも国として存在する日本はすごいこよな。命賭けてビビらせてやったからこそ、茹でガエルにして売国という解体作業にこれだけ周到に時間を掛けるしかないのだから。

だいぶ話がそれました。まとめましょう。

とにかく、パリ・オリンピックに見え見えのアジア人差別によっても、あまーい甘い西洋人の考えが透けて見えた。アジア人に対してフェアじゃない審判の様子からも日本人も中国人も韓国人も東洋人として一緒くたに差別しようとするのが見てとれる。オリンピックとは本来ならそういう差別心を無くすためにフェアなスポーツで互いのパフォーマンスを讃えあうものでがないでしょうかね。冒頭にあるような幼稚な自我を満たす機会ではなく。あとね、これ、私が幼稚だからこそ分かったことなのよ。あー、◯にたい。




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