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クリエイターの4つのテーマ その2

前回の続き、クリエイターズ・エンタテインメントのFM番組で話したクリエイターについてのお話です。実際の放送(配信)は間もなくでしょう。
あの時に話し切れなかったことをこちらに書くという企画の2回目です。

【テーマ2 クリエイターをしていてよかったこと】
…と言われてもねぇ、と一瞬絶句した質問です。気が付いたらなっていたという感じでしたから、今でも「クリエイターになったんだ!」という実感が実はあまりないのです。区切りがなかったというか。これはきっと、僕の書いたもの(脚本なりエッセイなり)や作った舞台が、商業ベースで流通していないことが大きいのだと思われます。本を出版したとか、自分の脚本が有名俳優・演出家で紀伊國屋劇場で上演されることになり、脚本料が入ったとか、そういう華々しい経験がない。公演のたびにチケットを売ったり、DVDや脚本を売ったりしているのにこんなことをいうのも何なのですが、創作物が「売れた」=世の中に広く出回ったことがないのです。
なので、おそらくそうなった時に「クリエイターをしていてよかった」と心から思うのでしょう。世の中に広く出回るということは、世の中に認められたということなのですから。言い換えれば、自分の作品を受け入れてくれる人が、自分の周囲を越えて広がったということです。逆にいえば、それがないうちは「自称クリエイター」と見なされても文句は言えないということです。何だか身も蓋もないですが、これはクリエイターに限ったことではありません。

ただ、これで終わってしまっては、この後の2つの質問がまったく成り立たなくなるので、現時点でよかったと思うことを書いておきたいと思います。一番はやはり「存在意義が認められた」ということです。大袈裟に聞こえるかもしれませんが、本当にそうです。
鴻上尚史さんの言葉を借りれば「ブサイク村」に生まれた僕は、見た目で人を惹きつけることはできません。また、スポーツができるわけでも楽器を演奏できるわけでもないので、人前で何かを披露し、それを見てもらうこともできません。「我思う、故に我あり」といいますが、例えば無人島にたった1人でいる状態で、自分という存在を感じることはできるのでしょうか。あるいは、自分の存在意義を見出すことができるでしょうか。「自分は生きていてもいいんだ」と本当に実感するのは、他人に認められた時です。見てくれもだめ、パッと見て評価される特技もない。そんな僕にとって、「作品」は唯一他人に「見てもらえる」ものです。勿論、発表の場があり、それを実際に見てくれる人がいなければだめですが、1人でもいてくれれば救われるというものです。その人にとっては、僕が存在した何らかの意味があったということになるのですから。
番組では、こんな話はしていなかったと思います。が、現時点で感じていることはこれに尽きるかも知れません。よきにつけ悪しきにつけ、自分の作ったものに感想をいただけるだけで幸せです。

と、ここまで書いて思ったのですが、これはすべて「自分のため」の話です。クリエイターの本当の喜び、それは例えば作品を見た人が元気になること、幸せな気持ちになることです。あるいは心がかき乱されたり、今まで見えていなかったもの、見ようとしてこなかったことが見えたりすることです。何か新しい扉が開かれたと感じてもらえることです。そして、例えば音楽なら、何気なく口ずさんでもらえるようになること。例えば文学なら、何度でも読み返してもらえること。絵画や彫刻なら、その作品の前に立ち止まり、いつまでも見ていたいと思ってもらえること。そういうものが生み出せたことこそ、クリエイターになってよかったと心から思える真の理由です。また、クリエイターたるもの、そういう心構えでなければなりません。そうでないと、単なる自己満足、あるいは押し付けになります。
人様にとって何か「有用だ」と思わせるものを作ること、広い意味で「役に立つ」ものを作ること。それがクリエイターの使命であり、本分だと思います。それを成し遂げるのは並大抵ではありません。まず「自分を分かってもらう」「自分の世界観を見てもらう」「自分の言いたいことを伝える」という「自分」を捨てるところから、クリエイターの仕事は始まります。逆説的に思われますが、それが本質だと僕は考えます。時代を超えて残ってきた優れた芸術作品といわれるものは、大抵作者の自己主張が感じられないものではないでしょうか。「お前が何を感じ、何を考え、何が言いたいのかなんてどうでもいい。我々に何を見せてくれるかが問題なのだ」と多くの人が考えた結果です。人はベートーベンがどんな人物で、どんな思想を持っていたのかに感動するのではなく、ベートーベンが楽譜に書いたものが演奏されたのを聞いて感動するのです。
前回の「作品を生み出すコツ」で書いた「降りてくる」感覚はここに繋がっているのです。何かが降りてくるのは、己を虚しゅうした時です。自分がうんうん考えている時は、「自分」という雑念が入っているので、いいものとアクセスできません。優れた芸術家を「芸術の神様と結婚した」「芸術の神様に魅入られた」といった表現をしますが、おそらくそういうことです。神様の力が宿るには、芸術家自体が空っぽの「器」になる必要があるのです。

我ながら「正論」を書いたものだと思います。綺麗事です。現実のクリエイターは人一倍「俺(私)を見ろ!」と思っている人間です。でも、願いが叶って人々から注目され、お金と名声が手に入ったところで、本当にクリエイターとして幸せだといえるのでしょうか。

でも、僕はまずお金と名声が欲しいですけどね…

締まらない締めになってしまいました。

次回は「クリエイターになって苦労したこと」です。


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