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#36 人間よりも動物のほうが多かった頃の我が家について思うこと

私が物心ついた時から家にはハムスターがいて、
庭には全長60センチくらいのケヅメリクガメがいた。

そして小さいリクガメが3匹
水槽には沼ガメが4匹いた。

私が4歳の時に我が家は猫と犬をほぼ同じ時期に飼い始めた。

兄がアメショー飼いたい!と言ったから猫を飼い、
姉がチワワ飼いたい!と言ったから犬を飼い、
私がビーグル飼いたい!と言ったら却下された。

兄弟格差はこの時から始まっていた。
末っ子って最高!!!!!!
ハァァァァァァァン!!!!


我が家にいたチワワは13歳の誕生日を迎える前に他界した。
それまでの間、沢山の癒しをくれたが
それと同じくらいに笑いもくれた。

何度注意してもゴミ箱の側面におしっこするし

お手やおすわりなどのしつけをまったくしてこなかったのに
口くさい!といったらひっくり返ってお腹を見せてきたし

兄がいたずらごころで犬の顔に向かって屁をこいたら
くしゃみを何回もしていた。


でも今思えば反省しなければいけないこともたくさんあった。

それは、自分の面倒すらろくに見れないような人間に
誰かの面倒なんて見れないということ。

「ペットは飼い主を選べない」とはよくいったもので

私たち三兄弟の中で自己管理ができている人間など1人もいなかった。

兄は猫を飼いたいと言い出した張本人であるが、
ご飯を猫に食べさせている姿を見たことがない。

まあ、冬の寒い日なのにパンツ一丁で
寒い寒いと言いながらストーブの前を占領するような男だ。
自己管理も猫の世話もできなくて当然だろう。
(お前も似たようなもんだけどな)

犬も猫も主に面倒を見ていたのは母だった。
病院に連れて行くのも、トイレの掃除をするのも母だった。

私と姉はたまーに気が向いたらご飯をあげる程度だった。

そりゃそうだ。兄と同じで自分のことすらもろくに管理できていなかったのだから。

年を重ねるたび、学年が上がるたび、体が大きくなるたびに
私は大人に近づいていると思っていた。
勘違いもいいところだ。

17歳の時に犬がいなくなり
20歳の時に猫がいなくなった。

でもその頃の自分は年齢以外で成長などしていなかった。
頭は子供のままだ。
実家を出てしばらくしてから
ようやくそのことを強く実感できるようになった。


こんな情けないことを平気でしておきながら
綺麗事を並べるのは恥ずかしいが、

これからの備忘録として書かせてください。


ペットは癒しのための手段ではないし
飼い主の所有物でもない。
ペットは、ペットじゃない。
命の大切さを教えてくれる先生のようなものなんだなぁ。

よっぽどのことがない限り、犬や猫たちの方が飼い主よりも早く死ぬ。
大事なのは、その時に飼い主である人間はその子に何を与えられるか。


ペットショップで数十万払えば犬や猫の命が買えるし
数百円あれば金魚や小さいカメが買えるような世界に私たちは生きている。

でもそれぞれの命は金額で測れるようなものじゃなくて
その子のために時間や愛情をたっぷりとかけられるか
同じ生き物として尊重し、生涯を共にできて初めて飼い主になれる。

子どもは親の人格を育てるし
ペットは飼い主の人格を育てるんですね。

25年間生きてきて、今の今まで気づけなかった。


そんな私は今、
いやずっと前から
黒の豆柴を飼いたいと思っている。

しかし、今はそんなお金も環境も用意できない。

でもそれでいいと思っている。

なぜなら私は、まだそんなたくさんのお金を手にしてもいいほどの器ではないから。
自分以外の誰かの命を守れるほどの強さをまだ持っているわけではないから。

それは別に悲しい話ではありません。

今は家賃25000円のアパートで暮らしているけど、
惨めだと思ったことはない。

そりゃあ私だって、広くて新しくて
独立洗面台があって、風呂トイレが別で
ボタンひとつで風呂が沸かせて
書斎やカウンターキッチンがあるような家に住みたいですよ。

でもどんな家に住んで、どんな服を着ているかよりも
どんな生活をして、何を習慣にしているかの方が大切なのだと気づいた。

誰に何を言われても、
今ある生活、仕事の収入、自分の所持金の少なさは
全て自分が作り出したものであり、
自分の身に起こっていることは全て自分の責任だ。

自分を管理することはそういうことなんだな〜。
繰り返しになるが、実家を出るまでそのことについて考えたことがなかった。

だからまずは今の自分にできることを一生懸命やって
なりたい自分になるためにどんなことを習慣にしたらいいかを優先すべきだと思った。

日々の習慣が仕事内容に影響するし
仕事への姿勢が日常生活を左右するんだねぇ。


どうせ週5で8時間も職場に身を捧げているんだったら
1日1%でもいいから職場に貢献して、自分だけの価値を示してやろうと思ってる。

理想の自分、理想の生活を手にいれられるのはその後だ。

だから、それがいつになるかはわからないけど
それまで待っててね!
未来の私の黒豆柴ちゃん!
(所有物みたいな言い方すなよ。)



〜余談〜
現代は、人生100年時代とも言われているそうだ。

しかし、私はその言葉をあまり好きになれないし
その言葉をヘラヘラしながら言う大人があまり信用できない。

80年健康に生きられたとしても、後の20年を寝たきりで過ごすのなら
私は80歳で死にたい。

50代半ばで亡くなった友達のお母さんの話を聞いた時、
20代で亡くなった地元の先輩の話を聞いた時、

その紛れもない事実を知らんふりして
ヘラヘラしながら
”人生100年時代だ!”なんて言っている自分を想像した時に
思わず頭がクラっとなった。

いくら医療が発展したとしても
遅かれ早かれ、生物は必ず死ぬ。

その間に偉大なことを成し遂げても
逆にたくさんの人を騙し、欺き、傷つけてきたとしても
最終的には必ずみんな死に収束する。

私は、せっかく生まれて来れたのなら
どうせいつか死ぬのなら、

1人でも多くの人を喜ばせたり、笑わせたり、
勇気を与えられるような人生にしたい。

たくさんの人に感謝し、感謝され続けられるような人生を送って、
笑って死んでいきたい。

ここで言う生物は、動物に限ったことではない。


2020年、国家試験に合格し、
私の肩書きは管理栄養士になった。

2022年、保育園に転職し、調理室に配属され、
私の職業は栄養士になった。

「あとは、ただ働いてお金を稼ぐだけだ。」
「これでもう食いっぱぐれることはない。もう十分頑張った。」

そのころの私は肩書きや職業に囚われ、安心していた。

仕事に対して興味や好奇心を持って向き合わなければ!と思い始めたのは
つい最近の話だ。

食べ物を扱って給料をもらい、生活している人間でありながら
食材も、尊い命だということを忘れていた。

土から芽生えたものも、海や川で泳いでいるものも
長い時間をかけて立派に育ってきた命であり

それを日々ありがたくいただいている。

しかし、いつしか人は
「腹が減ったから食べる。」という都合で
屠殺したりむしり取ったりしている。

それを考えるようになってから
私は管理栄養士を”職業”としてではなく
”生き方”として捉えていかなければいけないと思うようになった。

そのためにできることは
食材を丁寧に扱い、感謝を忘れないこと。

食材によって
お皿に乗るものもあればゴミ箱に行くような部分もある。
安価な素材もあれば高価な素材もある。

安いから、捨てるから、
と言う理由で雑に扱っていた自分を許せなくなりました。

だから、人も動物も食材も
同じなんだなと思うようになったのです。

子どもは親の人格を育て、
ペットは飼い主の人格を育てるのであれば

料理の出来栄えや食材の扱い方は
作った人の人間性が影響しているのかなって。



管理栄養士という生き方を選んで
人を喜ばせたいと決めたのなら、
まずはそういうところから向き合わないといけないなって、思いました。

まだまだ足りないものが自分にはあります。
でもそれ以上に伸びしろもあると思ってます。

一歩一歩、積み上げていこうと思っています。

歳を取れば取るほど、かっこよくなりたいです。
そんな自分をこれからも大切にしていきたいです。