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日記を追いかける #HNKS09


お世話になっております、配送あるあるです。


いつの間にか冬が終わり、なんなら春も終わろうとしています。気が付いたら学生ラストイヤーにもなっていて、時の流れが恐ろしいです毎日です。小学生のときに「一年って長いなぁ」と思っていたのが嘘のように、このままいつの間にか社会人になって、いつの間にかおじいさんになっていく気がして、なんだかゾッとしています。しかし、就職先がなかなか決まらないので、社会人になれないフラグすら立っているのがもっと恐ろしいです。ひぃ。

今回は「日記」をテーマにして記事を書きました。私は就活における自己アピールの中で、この「日記」というものをもう多用しまくっています。もう始めてから5年も経ち、ここまで書き続けている人は周りにはいなく、その量にも驚かれるし、そこに興味を持ってもらえると得意なフィールドで戦えるので、好感触の手ごたえがあります。日記の話をしたほとんどの面接は次の選考に進めている気がします。ちなみに内定はゼロです。

そんな日記の話をたくさんしていたら、記事にできるくらい考えがまとまったので、今回はそれを放出していこうと思います。私がnoteを続けられている理由、書くという作業を支えているもの、それが少しでも伝われば、配送あるある冥利に尽きます。

今回の記事は歴代最長なので、ひとつひとつに記事を分けて読むことをお勧めします。



そりでは。




日記に綴るもの


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「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり。」

土佐日記(原文) 紀貫之


日記と言えば、土佐日記の冒頭のこのセリフがとても有名ではないだろうか。中学の時に初めてこのセリフを聞いた時は、なんて変態野郎なんだと思ったものだ。

なぜ、男の紀貫之が女のフリをして、日記を書くというコンセプトにしたのか、という疑問に関しては「ありのままの感情を記すため、当時は女言葉といわれ男性が使うことはなかった仮名文字で表現した」など諸説あるが、正直なところ謎ではある。

しかし、誰かのフリをして自分の日記をつけた紀貫之の気持ちがわからない訳でもない。日記を5年も続けていると、その行為について自分なりに色々見えてくることがあるものだ。

にしても昔から日本人は、周りからの目を気にして目立たないようにしていた、というスタンスは読み取れる。西暦935年から今までその文化が残っていることが、何より面白い。こういうところに歴史を学ぶ面白さがあるな、と最近感じている。


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話を戻そう。

日記というものは、読んで字のごとく「日々の記録、自分に起きた出来事のを記したもの」である。一日の終わりに机に向かいながら、今日という日を振り返りノートに記す姿を思い浮かべる人は多いのではないだろうか。

「今日私はどんな一日を過ごしたのか」を自分の主観で紙などの媒体に残していく行為こそが日記であり、そこに書かれるのは、自分が主人公のお話だ。言ってしまえば、自分の人生を自分の手で執筆・編集し物語にすることが日記なのである。どっかのJ-POPの歌詞みたいであるが、少なくても私はそう思って日記をつけている。

人生を物語にする、と大それたこと書いてしまったが、やることは全然大したことではない。書くだけだ、長くても短くても、どちらだっていい。

「日記に何を書けばわからない」
「そんないちいち書くほど、毎日が違わないのでは」


などと、日記を書いたことがない人に言われたこともある。正直そう思うのは無理もないし、気持ちも分からなくもない。しかし、そこに対するあなた方が納得するような答えはない、とも思う。なんだっていいし、一日一日はそれぞれ全く別の一日だからだ。

これを書いた方がいいと言われて始めるものでもないし、正解もない。自分の思う日記というものを体現すればいいだけなのだ。楽しかったことだけでも、うまくいかなかったことだけでも、誰かへの悪口だけでも、なんでもいい。このnoteにアップされる記事と同じでいいし、実際noteに日記替わりに記事をあげている人もたくさんいる。そこの記事を参考にしてもいい。


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ただ私はnoteに日記をあげることは、まずしないだろう。noteの記事とは別にして、日記を私はつけているし、そう書くことをオススメもしている。誰にも見られない媒体に書く日記の方が、私の中にある「日記を書く価値」は高まるからだ。別にやっている行為自体は同じなのだが、noteと日記では意味が大きく変わってくる。それは「人から見られる・見られない」というファクターが、日記に書くべき内容にものすごい影響を与えるからだ。



日記を書く上で抑えなきゃいけない何より大事なことは、自分の内面を映し出すこと、決して偽らないこと、この2つだ。そして言うなれば、この2つさえ守れば、何を書いてって構わない。日記とはそういうものなのだ。

そして、この偽らないというポイントがなかなか難儀なものである。特に人から見られていると尚更だ。見栄を張りたがる機能が、人には生まれつき備えられているもので、嬉しいのにカッコつけて喜ばなかったり、悲しいのに笑って見せたり、他人を意識して自身をどう振舞うか状況によって対応することで、人間関係は成り立っている。それは見栄であることに間違いないが、気遣いだったり建前だったりと、「爽やかな必要悪」の類の日本語にとして扱われている。

しかし、率直に自分がどう感じるか、というものがあるからこそ、建前だったり気遣いというものは生まれるものだ。そして、そこはなかなか人に話すことはない、ダークな感情が多く含まれる。それを貯めておくは体に毒だが、友達や家族などにぶつける行為のもいいものではない、人にネガティブは配るべきではない。私はそのぶつけ様のないモヤモヤの捌け口として、日記は存在していると思っているし、そう活用している。


だから日記においては、自分の本心、本当はこう思っているということを書かなければならない。「今日は○○に行って、△△して、楽しかった~!」などと言った記述は書く必要がない。そんな当たり障りないものはインスタグラムにでも投稿すればいい。「あいつのことは本当は嫌い」であったり「ああいうことされたけど嬉しかった」など、人には言いたくない内面を映し出さなければ意味がない。そこに一番不必要なものは「他人にどう見られているか」という視点なのだ。

建前という服を脱いで、裸の心に向き合わなければ、書く意味の続ける理由もなくなってしまう。その本心の良し悪しを、他人が評価するべきでもない。「自分がそれをどう思うか」という自己評価がよっぽど大事、というかそこしか問われていないのである。そして、そういう心の揺れは、すぐに思い出せなくなってしまう。日々の喧騒にかき消され、いつの間にか自分の本心には気づけなくなる。

それでは、生きる上で一番大事な自我は育たない。その先にあるものは虚無であり、様々な言い訳を社会にぶつけるしかなくなる。社会に依存しながら社会に文句を垂れる人間にはならないために、自我は必要なものなのだ。

自我とは他人の基準ではない、自分の基準である。そこがないと良し悪しの判断すらできない人間になってしまう。人に見せびらかす訳ではないが、持ってないといけないもの。自我は「人生における生殖器」のようなものだ。人に自分の基準を強要することは「強姦」になってしまうので注意が必要だが、日記はその生殖器を去勢されないように存在していると言っても過言ではない。社会は余裕で自我を呑み込んでくる、日記は「社会から自分を守るためのシェルター」なのだ。


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それはnoteでも同じことが言える。不特定多数の人間がアクセスすることができるこのサイトには、ある種エンターテインメントの側面、ヒエラルキー構造さえも孕んでいる。noteだって社会なのである。

その中で、他人の目を気にせずに自分に起きた出来事、それに対する思いをありのまま書き出すことなんて、きっとできないだろう。他人に見られるのが前提の環境で、納得できるものを書く以上、たいてい前向きにしたり、面白くしたり、驚かせたりするものだ。ありのまま書いているつもりでも、知らぬ間に外の視点によって曲がっていく。それらは日記において、逃げとしている、それでは自我は育たないからだ。日記においては、見栄すら偽りなのである。

何より、自我に他人からいいね!など一番いらないのだ。そもそも評価が要らないのだから、いい評価だろうと悪い評価だろうと、自我を歪める癌でしかない。日記で他人からの承認欲求を満たそうとした時点で、言ってしまえばあさましい行為なのである。


これらがnoteで日記を勧めない理由であり、己への自戒でもある。


私にとって日記がそうである以上、書けば書くほどに自我ににコミットする時間が増えてくる。そうすると、普段見ないようにしている自分をさらけ出すことが必要になるので、自分の中の汚れや歪み、淀みがよく目に入る。当たり前の話だが、自我は綺麗なんかではなく、どちらかと言えば醜い。その醜さを己として書き残してく行為は、どうしても気乗りしない。そこが一番のハードルだとも思う。

この問題に対する私なりの解は、冒頭の紀貫之の「土佐日記」にあるのだ。


「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり。」


それは、自我を自分とは違う存在に置き換えること。土佐日記でいうところの日記の主人公を女として書く、ということだ。自分の出来事を、あたかも他人の出来事のように書くこと。この意識を持つだけで、本当にスラスラ書けるようになる、実際私はそうだった。そして客観的に自分を見て判断し、自我を形成するためにも、この行為は理にかなっている。その点で自我を女に見立てて日記に残していった紀貫之の気持ちがわかる気がするのだ。


日記は、簡単に始められる上に奥が深いと、常々感じる。書く必要がないものだからこそ、自由でありその分価値を問える。見いだせる価値は何か、手を進めながら見つけていく過程を学ぶこと、それが日記の神髄なのかも知れない。







継続する「価値」


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日記を書くことによる副次的効果。


そもそも日記というものは、続けられなければ成立しない趣味だ。別に毎日書かなきゃいけない、という訳ではない。一週間、一か月空いたとしても、また再開しさえすればいい、日記とはアーカイブのようなものなのだから。しかし途中で辞めてしまったら、それこそ日記の恩恵を受け取ることなく終わってしまう、もったいない行為だ。日記が、分け隔てなく皆にもたらしてくれるもの、それは「継続する価値を教えてくれること」だ。


「積み重ねてきた今日までは 明日に消えたりしない」


これは、私の座右の銘のひとつにしているもので、ある音楽の歌詞である。「継続する価値」というものを、まさしく体現しており、私自身何度も救われてきた言葉だ。継続してきたことは積み重なり、すぐに無くなったりはせず己に蓄積されていく、というのを身をもって知れたからこそ、自身に響いたと思っている。それらの体験は日記を書いてたおかげでもたらされたものであり、今も書き続けている理由だ。

その体験をした時というのは大きく分けて2つ、「積み重ねが可視化された瞬間」と「積み重ねを実感した瞬間」とある。それらは誰もが体験できる可能性があることでありながら、多くの人は味わうことができない瞬間だと思っている。こういうものこそ、凡人の武器であるし突き詰めてるべき点だと感じている。いわゆる「ニッチを攻める」のニッチとは、恐らくこのことだ。


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まず、「積み重ねが可視化された瞬間」について。

これはとても想像しやすいと思うが、書いてきた日記が溜まる度に感じる。最後まで書き終えたノートを閉じ、本棚にしまう瞬間。そして新しいノートを開き、文字を書き始める瞬間。

厚さとは正直関係なく、この冊子いっぱいに自分の出来事と感情が記されていると思うと、不思議な気分になる。どこかで呆れつつも、どこら誇らしげな自分がいる。当然、続ければ続けるほど、とんでもない量になる。塵も積もれば山になるとは、よく言ったもので、日記も書き続ければ小説のハリーポッターの分量さえも越えられる。

今自分が書いてきた日記を目の前に、思うのは「これはどんな天才がいたとしても容易く抜かれることはないだろう」という実感だ。俗にいう自信、というものであろう。この生涯、自信を持てずに燻ってきた私にとって、この実感はとてつもなく大きな意味を持つ。0を1に変えられた、という実感程勇気づけられるものはない。

継続で自信は生めるのだ、最近は余裕さえも生まれてきた。他人と比べて劣っていても、全然理想通り進まなくても、「でも私には日記があるし」「はじめは大抵こういうもん」という言い訳をつけるし、それに納得できてしまう。これがとんでもなく強い、要らない嫉妬をする時間が減るのだ。その分、自分が大事にしているものに時間をさける。この好循環の起源こそ、自信なのである。

仮初の自信なのかも知れないが、自信をもっている人の方が活躍している理由がわかった気がする。自信は人生を快適にする「グリーン車」のようなものだ、その車両に誰でも乗ることはできるのだ。その車両に乗るためのチケットはどこでどんな対価を支払えば、買うことができるのかは、人それぞれなのが難儀なところであるが。しかし、自分がしていることを積み重ねなければ、そのチケットの存在すら気づけない。

今、自分に自信がない人がもしいるなら、私が言えることはひとつ。

今していることを続けなさい。他者を追随できないほど、時間を費やしなさい。何か一つの要素であったとしても、周りに自分以外誰もいないことが、何よりの自信になるから。


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次に、「積み重ねを実感した瞬間」について。

これは特に書いてる時に感じることが多い、そして人と話している時にも時々感じる。共通しているのは、言葉を扱っている時ということだ。もちろん、このnoteを書いている時でも、そのこと瞬間に多々出会ってきた。自分にこんな表現ができる感性があったのか、と自分に驚く瞬間とでも言えるだろう。

日記とは自分の出来事に向き合うことになるのだが、アウトプットは文字なのである。つまり日々、「どんな出来事だったか、どんなことを思ったか」という心の揺れをまずひとつのまとまりにし、それをどこまで書くか解像度を決め、それを順を追って言語に変換するというトレーニングをしていることになる。感情の言語化という、言葉における「永遠の問い」に勝手に参加させていただいている気分になる。

その問いに挑戦し続けたからこそ実感したことは、「自身の成長」だ。始めたばかりの頃の日記と、今書いている日記を見比べた時なんかはわかりやすく、格段に言いたいことが伝わる文章になっているものだ。文章力が高まるほど、読んだ時に思い出す記憶の解像度が高まるのも1つの実感であり、それは分量の多さには比例しない。表現次第なのだ。その表現の成長を自分の基準で計ることができ、どう成長してきたかわかるのが、成長を促進する隠された真理のように思う。

その能力がつくほど、自分がどう思っているか把握できるようになり、すぐその場で言語化できるようになる。そうすると、いかなる場面でも自分を見失うことなく、感情の位置を把握できるようになる。客観的に自分を保つこと、自分の力を発揮できる範囲が広がることで、成長を実感している節もあるのだ。

なので感情を見失うことが、結果を出すときに一番の不要なものだと最近感じる。そもそも己を把握できなければ、正しい判断などできないと、もう何度も今まで体験してきた。感情と自分はなるべく離しておくことに限る。そんな、自分が自分のことを上から眺めているような視点を、感情の言語化能力がもたらしてくれる。

そうなると、捨てられるものが増えていくのだ。自分のこだわりや維持を自分以外のものと思って考えると、いとも簡単に無駄であることに気が付ける、そこにかける時間はなるべく短い方がいい。手に入れる瞬間よりも手放す瞬間の方が、成長の実感は大きく、それは続けてきたからこそ身についた価値観なのである。


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継続する価値というものは、今回述べた日記以外の切り口も、もちろんたくさんある。しかし、総じて言えるのは「自分が自分に自信を持てるようになる」ということだ。心の底から思うのは、若いうちに身につけておくべきものは、英語でもプログラミングでもなく、自信である。自信はいい結果も、いい人間も、いい行動力も全て運んできてくれる。「任せてもいいな」と思わせられる自信は、いかなる環境においても最強の武器である。

そのためのツールとして英語でもプログラミングでも用いるべきであり、自信を支えていくものまで磨くべきだ。自信のある人には、資源が集まるようになっているし、その資源を生かす能力を身につけていけば、その連鎖に長期間滞在することだって可能だ。自信は全時代共通の「打ち出の小槌」なのだ。







毎日とは


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皆にとって、「毎日」とは一体どういうものだろうか。日記を書く上で大前提となる「一日」、その定義とは何なのか。朝起きて、昼に活動して、夜に寝る。そして一日が終われば、また朝がくる。それが一般化された「一日」のイメージに近いものなのだろうか。

また、昼にする活動によって「一日」は分類分けされている。社会人なら労働、学生なら学業をする日を平日とし、それらをしない日の事を休日と呼んでいる。それら「平日」「休日」をバランスよくまとめて「週」とし、「月」とし、「年」としている。そういう規格に則り、生活を送っている実感が「日々」であり、そのサイクルを「毎日」としているのだろうか。

私の知り合いも、人生は環状線だと言っていた。山手線のように同じことをぐるぐる繰り返すことが生活であり、毎日をそう過ごしていると、65歳を越えた農家なもんだから、説得力はすごくその時は納得してしまった。


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ただ私は、「毎日」って実はそうではないんじゃないか、と最近思う。人生は回ることはない、行ったっきり戻れない一本道だと信じている。同じところは巡ることはない、毎日は決して同じではないのだから。そのことは理解はできても実感はできない人が多いように思う。事実、毎日は繰り返しているように見えるからだ。


しかし、その実感は案外すぐにできるはずだ。例えば、SNS。毎日同じような投稿がタイムラインに並んで見えてるかもしれないが、全てが同じ内容など起こり得ない。日々色々な人が感じる些細なことは、似ようがなく、それが飽きが来ない大きな要因だと思う。パクツイなどもたまに回ってはくるが、そこは言葉と同じで発言する人によって、意味や重みは変わってくるし、自分の心理状態で捉え方も違ってくる。SNSを見るという行為そのものは同じかも知れないが、その中で起きていることは日々更新され、周期的に繰り返すものなどではない。

そして、それは毎日だって同じことなのだ。朝起きて、働いて、疲れて、寝てを繰り返していたとしても、そこで起きる事柄は日々少しずつ変わっている。そんな微々たる違いを毎日が変化している根拠にしているのだ。そこに目を向けず、ぼんやり毎日を見ていたとしたら、それは毎日は同じだと思う。目が悪い人が裸眼で生活した場合に物事を判断するあの感覚と、きっと同じであろう。日々の違いを教えてくれる大きい要素はない代わりに、小さな変化はそこら中に転がっている。


そこに目を向けれるようになること、細かい変化に気づくことこそ。日記がもたらしてくれるのは、眼鏡のように毎日を見えやすくしてくれる知恵なのである。毎日が繰り返して見えるカラクリは、解像度が限りなく低いこと、なのである。その視点知る事こそ、日々の生き方が変わってくるのではないか。


Everyday is a New Day.


毎日は繰り返さない、同じではないと気づくことができたら、一日一日の尊さが見えてくるはずだ。朝焼いたトーストの味がいつもより美味しかったこと、たまたま入ったラーメン屋が当たり障りない味だったこと、帰りがけにみたツイートに励まされたこと。取り返すことができない毎日を過ごしている実感、それを教えてくれる小さな発見の積み重ねが、毎日の捉え方を変え、より一日一日を楽しめるようになり、明日も生きる理由になるのだ。


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毎日とは、太陽の軌道でしかない。太陽が地球を一周することが一日なのであり、その周期に合わせて生活していることが、毎日が繰り返していると感じる大きな要因だ。朝が来て、昼が来て、夜が来るというサイクルも、決して人間が持っているサイクルではなく、地球のサイクルなのだ。人間同士が生活しやすくなるために太陽の軌道に合わせ、太陽の移り変わりを「時間」という企画として作っていっただけで、必ずしもそのサイクルでなきゃいけない理由はない。


「恐れることはない。
遠いものは大きく
近いものは小さく見えるだけのことだ。」
バロン(耳をすませば)


人生は一本道なのだ。ちっぽけな人間ごときが、一年後どころか一週間後すら、どうなっているかなんて、わからない。遠くなど見渡せないのだ。見渡せないから大きく見えるのだ。しかし未来は遠くにあるのではない、足元にある、今の積み重ねが未来をつくるからだ。

幻想でしかない遠くの大きいものばかりに気を取られ、確かにある近くの小さいと思っているものの大きさに気づけない。その小さく大きいものをまず見つけることが、遠く大きなものに近づく確かな方法なのである。そのために、日々を追いかけ、日記を追いかけるのだ。それは、自分の手でしか作ることができない、自分で動くしかないのだ。

繰り返しているように感じる毎日を、一日一日に分解する力こそ日記が持つ力である。未来を見渡す視界をあえて狭め、今という時間の価値に光を当ててくれるものでもあると、私は信じている。日記は習慣でありながら、日々を習慣化させない不思議なツールなのである。







おわりに


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という訳で、「日記を追いかける」いかがだったでしょうか。何の気なしに始めた日記でしたが、本当に続けていてよかったと、常々感じます。内定もらえなくても「おれはこのままでいい」と思えるのも、偏に日記のおかげです。

最近は歳なのか、毎日があっという間に駆け抜けていきます。この時計の回る速度が年々増している感覚は、最近というより、ずっと前から感じています。ふと日々を振り返ると、昨日だった一日が知らぬ間に一か月前の一日になっていたり、毎日がものすごい速度で過去になるのを、何度も目の当たりにしてきました。

その度に、できることなら一瞬一瞬を切り取って、見えるところに飾りながら、毎日を感じて生きていきたいなと、思うようになりました。一日一日がもったいなく感じるのが、なんだかもどかしくて、どうにかしたかった。

それが「日記」を書きたいと思った衝動でした。私は乞食少年なので、もったいないと感じるのが、一番のストレスです。そのストレス解消が、自己満足を埋めてくれます。


あれから、もう5年ほど日記を書き続けているということは、毎日毎日自分に起きた出来事を飽きることなく記してきた、ということ。言いたくはないですが、「自分大好き人間」であることのこれ以上ない証明になります。

でもずっと昔から、自分のことが好きだったわけではなく、日記を書いていく過程の中で徐々に、自分のことを好きになっていったような気がします。書けば書くほど、自分が遭遇する出来事が面白いことにも気づいて、自分がこの先どんな出来事に巻き込まれ、どういった人間になるのか、誰よりも自分が一番気になっています。

まるで自分の人生なのに自分のことじゃないような、主観を遠くから見ているような、そんな感覚を覚えてるようになって、主観で物事を言える人のことを羨ましく思うようにもなりました。結局、人間はないものねだりな生き物です。

もちろんいいこともあります。そこに少し寂しさを感じつつも、主観が離れたおかげで毎日の出来事が「いつかの伏線」なんじゃないかと勘繰りまくれるようになりました。ここまで到達すると、もう楽しい。失敗すらも、し甲斐がある。恥かくのも、どう人に話そうか考えて面白い。自分のことを好きになってからというもの、毎日不調なのに、調子がいい理由は、ここにあるのかなと思っています。

毎日伏線、毎日経験。一日一日を大切にしない理由は見つかりません、もう必死に生きるしかないのです。それが、一番楽しいんですから。


ハイパー長文になりましたが、最後まで読んでくださり、深く感謝申し上げます。




誰か余っている内定ください。



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