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生産と消費 #HNKS06


こんにちは、配送あるあるです。

三週連続投稿、とはいかずに一週空いてしまいました。とりあえず何かを投稿しなければと、前回の「ぺこぱ脳で生きてみる #HNKS05 」のエピローグを載せたので、時間がある人はそちらの方も見てってください。


さて、今回はいつもより少し難しいことをテーマに扱おうと思っています。私なんかが扱えるテーマではないとは重々承知ですが、「世の中こんな風にも見ている人もいるのね」という視点を与えられたらないいな、と思っております。

そんな今回のテーマは、表題の通り「生産と消費」についてです。このテーマは最近の私のトレンドです。

それは、生産と消費は完全に分けられ、別の物されているような気がしますが、実はそれら二つは密に絡み合っている、もしくは同じ行為なんじゃないか、と気が付いてしまったからです。

さて、「何故そう思ったのか」うまく着地できるかわからないですが、最後まで付き合っていただけたらと思います。







産み出すモノ、費やすモノ

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生産とは「生み出すこと」、消費とは「費やすこと」。大枠はそうで間違いないのだが、今回はそこよりも深く掘り下げようと思っている。

まず生産について。個人的に何かを生み出すときの方法について、下のイメージ図のように4つに分けられるのではないか、と考えている。


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生産の大枠イメージ


スマートフォンで例えみよう。

iPhoneはApple社が今までにないカタチのケータイ電話を生み出したという点で、「0 to 1」の生産であるとする。すると、そのあとを追ってXperiaやGALAXYなど、様々なスマホが登場したが、それらはiPhoneが生み出した新しいケータイのカタチを、自社に取り込み改良した点で「1 to n」を生み出すものだとも言える。

しかし、携帯電話というフィルターを通してiPhoneを見てみると、iPhoneは今までのケータイとは一線を画すデザインではあるが、携帯電話というグループには含まれる。その点で言えばiPhoneは「1 to Ⅰ」の生産とも言えるかもしれない。「見た目は違うけど他人とは思えないモノ」、それがiPhoneとガラパゴスの関係性とも言えるだろう。ミルクボーイ的言うと「最中と八つ橋」みたいな関係のものだ。


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愛すべきiPhone SE(初期)


一般的に「0 to 1」の生産をイノベーションというならば、「1 to n」の生産は連続イノベーション、「1 to Ⅰ」の生産は非連続イノベーションと呼べる。そして、今あるモノの延長線として、様々な付加価値をつけて発展させる連続イノベーションは、コモディティ化を引き起こす、とも言える。

コモディティ化は、すぐ真似されるなどのあまりいい意味で使われないことが多いが、連続イノベーションが引き起こすモノは、ある商品・サービスのブランド・概念を確立させるのに貢献するモノとも言えるだろう。その点でとても豊かな生産であると言えるだろう。

XperiaやGALAXYなどの登場で、スマートフォンがコモディティ化したことにより、多くの人々がスマートフォンを手にできるようになった。それにより十年前はメールと通話しかないのが普通だったのが、今やいつどもどこでもインターネットとつながれるのが当たり前になったことも、コモディティ化による恩恵だろう。


そして最後の「1  to  A」の生産、これはリノベーションと呼べるのでは、と個人的に考える。ラーメンをもとに新たなスイーツを生み出す、というのは大げさだが、あるものにインスピレーションを受け、全く違うモノ生み出すというのはリノベーションのような再編成に近いと感じたからだ。倉庫だった建物を商業施設にするような操作は「1 to A」の生産と言えるだろう。



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生産も大きく二つに分けられる


以上のように生産にも様々な種類があるが、「0 to 1」のゼロからイチを生み出すモノと、「1 to n」「1 to Ⅰ」「1  to  A」のような元々あるものを消費して新たなものを生み出すモノと大きく二つに分けられる。肌感覚であるが、この世にある様々なもののほとんどが「何かを消費して行う生産」なのではないかと感じている。


そこで、生産がそうであるなら、消費にも同じことが言えるのではないか、という仮説が生まれた。つまりイチをゼロにするような消費と、消費することで何かを生産しているモノがある、ということだ。



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生産と消費 まとめ


ここまで概念的なことを並べてみたが、本題はそこではない。世の中のは色々な生産・消費があるが、その二つがこんがらがっているポイント、「何かを生み出すときに消費しているコト」と「何かを消費するときに生産しているコト」について、述べていく。







生産と霧


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何かを生産する時に、実は消費しているモノ。


何かからインスピレーションを得て生み出したモノも、あるものを消費して生み出したと言えるのではないか。今回すごく言いたかったことは、あるものを消費した時に、生み出したものの価値があるものを越えなかった場合、それは生産とは呼べないではないか、ということだ。つまり生産は「価値を生み出すこと」だと考えている。


例えば、論争。特にSNSで行われる論争なんかが特にそうではないか、と思う。論争を生み出すということは、自分の意見が正しいと人に押し付け、その強度を競い合う、ということだ。それのどこに価値が生まれるというのだろう。論破したからって一体何が手に入るのだろう。その論争に使われた出来事、物語が不憫で仕方ない。

しかし、今Twitterでトレンドに入る、炎上するというのがあたかも泊かのように扱われる風潮がある。炎上商法という言葉がマーケットの世界でも存在しているように、話題になることが正義として扱われている。

それが自分を売る行為や集客につながるのかもしれないが、炎上商法のアウトカムは「多くの人の目に留まること」でしかなく、決して「自分や話題の価値を上げること」ではない。そのアウトプットが炎上商法でしかないのなら、悲しい以外の何物でもないんじゃないか。


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確かに私自身もトレンドに入っているものをよくふいに見てしまっている。「多くの人の目に留めるようにする」という点では価値のある行為であると言えるが、そこで生まれるのは全く関係ない、何も知らない人々の同情、批判、論争。結局その話題以上の価値は生まれることはない。そしてすぐさま次の話題へと人々の関心はながれ、いつの間にか忘れ去られる。SNSは話題を消費するだけの機械なのではないか、とも思える。

善悪の話をしているのではない、私自身もうSNSに依存してしまっている。それは生産とは呼べるではモノではないということだ。ツイッターでツイートを生み出してるように見えても、それは話題を消費しているだけなのかも知れない。


そしてもう一つ例を挙げたい。

NIKEのCMを見た。日本の在日外国人の学生を題材に、マイノリティである故の境遇に苦心しながらも、それぞれがスポーツを通して逆境を乗り越えていく、そんなCMに私は見えた。


このCMも話題になり、Twitter内で炎上した。

「日本ではこんなこと行われていません」「それはあなたの周りだけなんじゃないんですか」「もうNIKEの商品は買いません、捨てます」「ならその靴私にください」などなど、、、

例を挙げれば尽きないが、まさしく賛否両論。私には正直どちらが正しいかわからない。

このCMは「日本にも未だに存在する、人種差別に光を当てた」という点では素晴らしいと思う。しかし、そのCMにより生まれたヘイトなどのガヤにより、本当に在日の人が苦しんでいる問題のところには光が当てられていないのは、意味がないのではないかとも思う。日本人なら当たり前にある権利が、在日の方にはないなどのいじめ以外の問題がまだまだたくさんあるということを下の記事を読んで私は知った。



カマたくさん、という私が尊敬している有名なゲイの方がいるのだが、その人の動画の中で、「差別がどうこう言ってる人の大半は好き嫌いの話しかしていない」という言葉があるのだが、それがこのNIKEのCMの時も起きていたように思える。


結局、差別を扱おうとすると炎上が起きる、ということを顕在化させただけで、権利や生活などの他の問題に対しても議論を生みにくい状態と創り出してしまったのではないだろうか。

もちろんそんなことする奴は少数であるのでほっとけばいい、と思うかも知れないが、少数をほっとけばいいということは、永遠にマイノリティの人々が抱える問題は解決されない、ということではないか。それって本当に日本の人種差別問題に対する価値を上げたと言えるのだろうか。本質に霧をかけただけなのではないか。



とはいえ、これは商品・ブランドの広告なのだ。このCMのアウトカムはきっと「NIKEの、スポーツの素晴らしさを広めたい」だと思うので、そもそもお門違いなのかもしれない。本心はどうかわからないが、これ以外にも悲しい生産がこれまでも、そしてこれからもたくさん生まれるわけだ。


それが起きてしまう原因はつまるところ、知識が足りないだけなんじゃないか、と思ってしまう。その出来事、事件、物語などの歴史や背景、社会構造など、どれだけ知ろうとしたか。どれだけ歩み寄れたか。それを知っていたらもっと違う見せ方があったのではないか、とも思えてくる。

それが、ある題材を扱う上で必要な姿勢なのではないか、その姿勢こそが誠意、敬意と呼べるのではないか。

その誠意、敬意の差は必ずアウトプットに出る、と思っている。敬意そのものはカタチにはできないが、違うカタチになって目に見えるはずで、そのひとつが見せ方なのではないか、と考えている。そこには分かりやすさはほとんどない、しかしだからこそ尊さが生まれるのではないか、とも思う。私自身、すぐ理解ができるモノには敬意は湧かず、すぐに忘れてしまう。


このわかりやすいモノばかりが目立ちやすくなった現代で、分からないモノを分かろうとする姿勢こそが誠意、敬意であり、それが本気度のバロメーター、行動力であると私は思う。

実力は結果、敬意は過程に宿る。反響の差は敬意の差。その価値を曇らして生み出したモノは決して生産ではなく、ただの消耗ではないかと、私なんかは思う。







消費と優しさ


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何かを消費することで、実は生産しているモノ。


様々なものを消費したけれども、最終的に新たな価値を生み出した、もしくはある価値をより高めた、と言えるものについては、私はそれは生産と呼べるのではないか、ということだ。つまり消費は「価値を生み出さない生産」とも呼べると考えている。

そもそも何かの価値を上げるということは、ものすごく大変で、多くの人は成し遂げられない偉業だと思う。もうすでに文化ができているところなら尚更のことだ。多くの人々が手を尽くしまくっているなかで、今ある価値を更に強める(アップデートする)か、新しい価値観を生み出すのは至難の業だ。


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音楽なんかで例えるとわかりやすいのではないか、と思う。

無名なアーティストが必死こいて自分の音楽を作ったとしても、「~ぽいね」だったり「~風だね」など言われてしまう、私自身もLucky Kilimanjaroを初めて聴いた時に「サカナクションぽいな」と思ったのもよく覚えている。

それぞれがオリジナルなことは間違いのないことだが、世の中はやはり甘くなくて「~に似てるけど、なにか違うよね」と思われないと、選ばれる理由がなくなってしまう。結局差別化をできないと、他で代用できてしまう程世界は音楽に溢れてしまっている。

それでも私は今もなおLucky Kilimanjaroを聴いている、とても好きなアーティストの一つだ。それはきっと彼らの音楽にしかないモノを私自身が見つけられたからだろう。



さて、どのようにしたら差別化し、オリジナルを生み出せるようになるのか。


1つ考えられるのは、レファレンスを集めるという方法だ。今ある様々な事例を集めて、参考にするという、言わば消費行為だ。いかにレファレンスを集められるのか、この量こそがその人の想いの強さであり、作品の厚みになるものだと私は考える。


・ただ感覚で生み出したモノが他になかったモノ

・レファレンスを集めに集め、見つけ、生み出したモノ


この二つの方法で、例え同じものができてたとしよう。資本主義的な視点で見たら両者別に変わりはなく、どちらでもいい。しかし、これからの創作においては、後者の方が今後も伸びていく可能性があるではないだろうか。

それは、築き上げたモノ、支えているモノがある方が、言葉や形に説得力が増す、と考えているからだ。建築を学んでいく上で、それをひしひしと感じた。今までの自分に一番足りていなかった部分だと思っている。

私は、レファレンスの量こそが、その人が本気かどうか、好きかどうかの指標になり、人を判断できる要素になるなのではないかと考えている。「好きこそものの上手なれ」というが、好きなものでないと人は深く掘り下げられないし、レファレンスを集めまくることはできないものだ。好きだからこそレファレンスを人より多く集められ、差別化できるほど自然と上達できるのではないか、と感じる。


なので、想いや本気度なども目に見えないと思われているが、それらはレファレンスの量に表れる、つまり目に見える形となるということだ。そういうところをもしかしたら就活などで見られていると思うと、背筋が伸びる。


だからこそ、中途半端に消費するのではなく、徹底的に消費に消費を重ねてレファレンスを集め、その文化をできるだけ理解しようとすることが大切ではないだろうか。その中で見つけた文脈的つながりのある新しさこそ、価値を上げるということ、生産だと思う。それを調べきる姿勢、深堀する行為こそが優しさ、愛なのではないか、とここで言いたい。


世の中には、質と量がある。

質には センス、感覚、経験 が現われる。

量にこそ 優しさ、愛、本気度 が宿る。


両方のバランスがやはり大切だ。そして量にこそがその人のバックボーンになるのではないか。その量なくして感覚・センスだけでわかった気になったり、これはダメだと決めつけるのは、あまりにも早計過ぎる、と自分自身思う。

優しさとは、消費行為にこそ見えると考えている。優しそうな行為がいくらできたとしても、どのように消費しているかにこそ、人間性は表れる。時間でも、お金でも、言葉でも、何でもいいが、消費行為は自分を見つめ直すキッカケになるのではないだろうか。


話が逸れてしまったが結局のところ、消費の量こそが生産につながる、と私は信じている。







おわりに


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ということで「生産と消費」について今回は書かせていただきました。私が書いているこのnoteにも同じことが当てはまるので、途中から自分で自分の首を絞めている気がしてきて恐ろしくなりました。自分で自分のハードルを上げてしまって、これからが心配です。ま、それも一興ですね。


人は生きているだけで消費も生産もします。それらは表裏一体で、生産に見えても実は消費しかしていなかったり、消費していてもそれが生産につながっていたり、もうごちゃごちゃしています。どちらもとても大切なことで、そこにハッキリとした境界線はないのですが、価値を生み出せているかどうか、がキーポイントだと私は思います。


自分が誰かと会っていたその時間は生産なのか消費なのか。

誰かにかけたその言葉は生産なのか消費なのか。

誰かに使ったそのお金は生産なのか消費なのか。


その視点で見てみると、自分はその人のことをどう思っているか、見えてくるはずです。人を判断して分けるということは、とても気が進むものではありません。

ですが、自分を消費しかしてない人たちと関わり続けるほど、今の自分で居られる時間は長くない、と思います。なので生産と消費という視点は、人の見方のバリエーションになるのではないでしょうか。




またも長くなってしまいましたが、お読みくださりありがとうございます。

それでは、また来週もお会いましょう。


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引用

カマたく さんのTwitter

https://twitter.com/takuya_hyon?s=11

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