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【俳句鑑賞】パエリアの試食|禾門の俳句①

 パエリアのメンバーは、俳句の作り手であり、また読み手でもある。今回からはじまるのは、エイミーアットマイテーブルによる、『パエリア』の俳句鑑賞「パエリアの試食」。今回は創刊号の作品の中から、禾門の作品を取り上げて鑑賞した。俳句を読み方がわからないという方にも、読み解きの補助線となるはず。

『パエリア』創刊号の作品に寄せて(前半)

エイミーアットマイテーブル

犬のあと猫きて異形なす家族

 禾門は美しい白猫を飼っている。以前は犬を飼っていたと聞く。常に人や動植物と共に在り、追々ご紹介したいと思うが実に高度な生活者だ。荒々しさに情念を滲ませる作風で、中でも「異形」がやけに私に響いた一句。反対語にして考えてみようか。「同形なす家族」。私なら、リビングに両親がいて子がいて足元にペットが寝そべっているような、突っ込みどころ無く仕上がった家族を思い浮かべる。ならば対極の像に投影されるのは淋しさか鬱屈した怒りか。たとえば子の独立等で家族の構成員が減った老後を読み取るならわかりやすいだろう。しかし掲句からはもっと宿命的で、逃れ難い業のような通奏低音が聞こえる。愛犬や愛猫でさえ補うことのできない異形の心が見える。その解放の一助として、俳句が屹立している。

湯冷めして素描のやうに立つてゐる

 テーマ詠「素描」から。私は浴室を出た直後の景と捉えた。装飾を剥ぎ取れば真の姿しか残らないはずの裸体は、案外その人間を正確に表していないのかもしれない。体の線はいつもどこか崩れ、かりそめに描く素描のように概要的である。その曖昧さと油断の極まる場面として、禾門は湯上がりを設定した。ふやけた体に「素描」という言葉を斡旋したことで、膜のように人体を覆う実存性まで見せる転換が見事。ところで「裸」は夏の季語、「湯冷め」は冬の季語。季節感以外、季節感以上の違いに踏み込んだ掲句の奥行きは深い。


▼上記を含む禾門の作品全30句を掲載。『パエリア』創刊号はこちら

パエリアの試食 禾門の俳句②はこちら

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