Exhaust manifold Greatest Baby's round-trip letter(排気口のグレイテストベイビー往復書簡)

 かつてまだ混乱が混乱であり正しく戯れの対象として笑顔を向ける余裕が私たち現世人類にあった素晴らしい季節にアレンギズバーグとウィリアム・バロウズによるケミカルとスピリチュアルが混ざり合った紙の束。私にとって往復書簡のイメージはそこで止まっております。2020年という時代において1億総神経症、或いは、1億総精神病の昨今、私とSさんが消えそうな蛍光灯の下、お互いに向精神薬とコンビニで買えるドラッグことストロングゼロを摂取しながら、スタンダードとなった貧困の輪郭を携えて、遠く向こうに見える「浜辺美波ちゃんのいる彼岸」への逃避行に興じるのもまた、笑っちゃうぐらいに素敵な事なのですが、まずはこの往復書簡のお返事が大変遅くなってしまったコトへの謝罪を。ごめんなさい。体育祭で見せる真剣な横顔が美しく、そのまま恋に落ちてしまいそうなクラスメイトのギャル風に言うと「メンゴ、メンゴ」赤ちゃん風に言うと「ちゃいちゃい」3種類の謝罪を用意いたしましたので好きなのものを選んでいただけると幸いです。

「夢のように現れては泡のように消える。街に溢れるラッキースケベを探し回っていた午後。薄着の美少女たちがようやく笑顔で外へ繰り出せる喜び。ワンピースの揺れ。それからやはり笑顔の美少女たち。こんなに豊かな事があるだろか。こんなに今を信じられる事があるだろうか。こんなに、こんなに、こんなに・・・。言葉なんていらないんじゃないか。美少女がワンピースを来て暑さに少しだけ顔をしかめる。可愛らしい怒りだ。誰かを傷つける類の怒りじゃなくて美しさと手を握り合う為の怒り。ワンピースのしわを少しだけ気にして、それから揺れる。少しだけ。」かのような事をひたすら考えては、慢性的な偏頭痛に悩まされていた季節にSさんからお便りをもらってから「〆切はありませんよ」の言葉に甘えに甘え遥か永い時間が経ってしまいました。その間に私がSさんにした事は、一緒に飲んでいたら途中でいなくなり違う人と違う店で飲み始める。一緒に飲んでる時にSさんのボトルを勝手に飲み干す。一緒に飲んでる時に花火をしましょうと騒いで結局しない。等など。思い返す度に私のお祭り気質に赤面します。これは私が下町生まれだからでしょうか?

東京というスクラップ&ビルドを繰り返してきた都市のさらに埋立地から生まれ育った私は下町というラベリング以外の歴史性が全くの希薄なのですが、それ故に都市というものに昔から興味があります。相対性理論の大傑作『タウン・エイジ』は新しい歴史の地層を掘り返すというコンセプトの果に虚構と妄想の東京―郊外を浮かび上がらせる事に成功した稀有な音楽作品です。そこには漂白された生と死、日常と非日常が分けがたく癒着し、そびえるロマンチックさだけがシンボルとして存在します。相対性理論の最重要人物である我らがやくしまるえつこはかつて熱海のピンチョンという名前で活動をしていました。ピンチョンとは恐らくトマス・ピンチョンである事は容易に想像できます。えっちゃんはトマスピンチョンの愛読者として有名ですからね。えっちゃんがあんな分厚くあんな難解な書物を熱心に読んでいる姿を想像するだけで世界の美しさを信じることができます。では熱海とは?もちろんつかこうへいではないでしょう。なら熱海とは・・・。

三木聡が笑う犬の死骸から黒魔術で蘇らせた和製版『ツイン・ピークス』こと『熱海の捜査官』におけるあらゆる境界が溶け出した冥府としての熱海。それは『タウン・エイジ』におけるタウン=東京―郊外にも似ています。それら奇妙な場所から伸びる道。『タウン・エイジ』で登場するハトバスでゴーゴーの先。『熱海の捜査官』で光に包まれる道の先。あるいはそれらが「やって来た道」はたしてそれはどのようなところなのでしょうか?ゴーギャンの絵画の様にこう言い換えてみると・・・?「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
 
それは夜のマルホランド・ドライブではないでしょうか?という訳で出鱈目な前振りの果にバーンと発表。私のデヴィッド・リンチのフェイヴァリットは『マルホランド・ドライブ』です。大学時代に映画の授業で初めて観て余りのわけ分からなさに半泣きで授業終わり教授の研究室に突撃して「さっき観た映画が全然わからなくて夜も眠れそうにないので教えてください」と大泣き。勝手に研究室の冷蔵庫からワインを空けて飲んだのも良い思い出です。そしてゲロ吐いて・・・。そこからでしょうか、私は赤ワインが苦手になりました。

『マルホランド・ドライブ』はその難解さから(というかリンチって殆ど難解)様々な解説がありますが、私にとってこの映画の最大の魅力は境界の曖昧です。もっと軽く言ってしまうと「全てはあやふやでぐちゃぐちゃである」という事です。そうなんです。この世は全てがあやふやでぐちゃぐちゃなのです。税金の向こう先がハッキリしていた時がないように。下請けの下請けとかいう謎の縦割りが氾濫する世の中において、ハッキリしてるのは私がその場所に立っているということだけです(どんな場所であろうとね)この映画は女優の悲喜交々を描いてると同じ様に夢と現実の悲喜交々も描いているように思います。覚めて欲しい夢があるように、覚めて欲しくない夢があるように。覚める夢があるように、覚めない夢があるように。そしてそれらを幻想的なイメージが連鎖してスクリーンに焼き付くのは儚さなのです。輝かしさも失墜も栄光も転落も上手くいくことも上手くいかないことも、全てはあやふやなのです。そして、あやふやだからこそそれを解くのもまたあやふやさを肯定しうる私たちの手つきなのです。ハッキリしちゃったら面白くない。でもあやふやは不安。そんな想いって素敵だなと私は思います。悪夢的でもね。リンチの素晴らしいところは日常と非日常を分けない所です。非日常は常に日常のレイヤーに組み込まれていて、日常こそ非日常であり、非日常こそ日常である。そんな想いをリンチの作品を観る度に感じます。そしてそれって最高だよね。Sさんもそう思っていたら、もっと最高です。ちなみにツイン・ピークスはローラーパーマ最期の7日間が傑作です。あれってロマンチックさの塊みたいじゃないですか。ドキドキやワクワクを最上級にウルトラ化すると悪夢になるし悲劇になる。サンキュー神様。こんな具合に俺たちを作ってくれてさ。って思わずにはいられないです。

私が適当に書いている(適当ってテキトーとは訳違います)排気口Twitterでの「恋のポエムbot」でありますが、得てしてSさんが指摘するように夜や真夜中が拠りどころになっています。夜のマルホランド・ドライブ。夜の千代田区。夜の君の部屋。たしかに私は夜が大好きです。しかしこれもSさんが指摘しているように私の書く戯曲には夜/リンチの影響は殆どありません。私にとって夜や真夜中とは抑圧されたものの解放という感覚が昔からあります。それはリンチ的というよりも、私の個人的なもの感慨からの方が大きいと思います。坂本慎太郎がカバーしたカーペンターズ『イエスタデイ・ワンスモア』にこのような一節があります。「真夜中に家に来たり 喧嘩したり」或いはハイロウズ『夜の背』には「開戦前夜のキスは古いレンガの壁を焦がした」エレファントカシマシ『星の降るような夜に』では「星の降るような夜に 互い肩でも組んで 歩こうぜ」例えば朝に喧嘩なんてしない。眠いから。例えば朝にキスなんてしないし。恥ずかしいから。例えば朝に肩なんて組まない。四十肩だから。全ては夜。何かが起こるのは全て夜なのです。それが真夜中ならもっと最高です。夜は君の顔がよく見えない。見えないという事実が私たちに「よく見よう」と動かす。そんなもんでいいのです。動かされる理由なんて。それは日常とか非日常とかではなく、豊かさなのです。嘘でもホントでも。オッケー?って数歩先の闇に問いかける。すると声だけが聞こえる。「オッケー」それならパーティーを続けよう。あらゆる抑圧から解放へ。動く理由は単純に、動かし方は複雑に。

だから私が映画を撮るならやっぱり夜なのです。私はずっと修学旅行の夜をテーマに映画を撮りたいのです。そんで撮影中に女優とねんごろになって朝になったら、交わした約束も忘れてしまって、全ては幻だったんだって思いたいのです。それが浜辺美波ちゃんなら最高で、言うことなし。映画と演劇の違い、或いは決定的な違いは夜が夜として機能しない事と浜辺美波ちゃんがいないことです。映画には夜と浜辺美波ちゃんがいて、演劇にはそのどちらもいない。哀しいことです。それでもパーティーは続くのだろうか?

思い返せばSさんと初めて出会ったのも夜でした。それって常に最良の思い出で、最良のスタート。Sさんの素晴らしいブログを読んだのも夜でした。最高にキュートで素晴らしかった。あの幸福な読書体験。でもこのお返事は昼に書いてる。たまにはこうして明るい内に文章を書くのも良いかなって思った以上に、お返事遅れてしまったこの罪を光の元に晒しながら書く事が私なりの懺悔という事でここは1つ。

手紙のやりとりは儚さを伴います。このような電子データに紙から衣替えしても。この儚さを出来るだけ長く引きずるように。水中に顔を付けて出来るだけ苦しんでいられるように。はやくSさんのボトルを新しく入れに夜の街へと繰り出すように。そういえばSさんは最近なにしていますか?JA共済の浜辺美波ちゃんを今も眺めていますか?あのCMは今の日本で最も素晴らしい物の1つです。それから何かあっと驚く映画はありましたか?それとも映画にゲンナリしちゃいましたか?今の映画のゾンビっぷり、マッチョな身体に腐敗した魂。これが高度資本主義。わーおって具合に恐れおののく時代はとうに過ぎ、やはり私たちはいつの時でも「気が付いたら最悪に慣れて苦笑い」みたいなね。

外へ行くにも白い布を口元で覆わなくちゃいけない昨今。君の顔を見るにはより複雑な手続きを踏まなくちゃいけない。切れかけた蛍光灯の下まで君を導くには大変な労力と1週間分の言葉が必要なんだ。なんて世の中だ。しかし、それでも楽観的に、小さなユーモアすら見落とさないように。疲れてしまったら、ちゃんと眠れるように。

冬はもうすぐです。コロナのおかげで白い息が無くなり、肩を寄せ合うことの出来ない初めての冬。それでも。私たちには見つける事が出来るはずです。愛と笑いの夜みたいな。酔っ払って外で騒いで風邪をひくみたいなお茶目さ。神様そろそろ私たちの愚かさに暖かい手を差し伸べて下さい。後はこっちで勝手に悲しんで、勝手に滅びるので。

冬にこそ。映画と演劇に新しい実りが。積雪の下に春を待っている事を。あと、Sさんのボトルが何かの手違いで4つぐらいに増えてる事を。祈って。

排気口 菊地穂波拝

追伸 実はすべては幻だったのです。美しい類のね。



※遠い昔の手紙が発掘された。上記はそれをコピぺしたものである。本当に遠い昔の様だ。全ては幻だったのです。決して美しくはないしかし豊かな類のね。

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