来るべき排気口新作公演の話。

 しばし晴天が続いている。晴れやかな空を見上げる。足元には心地の良い風が巻き付いてくる。私の住んでいる場所は比較的穏やかな住宅地である。午後にフラッと外に出かけると、近所の学校が吐き出した、おさまりの良い子供たちが、おさまりの良い行列を成して、下校の喧騒を生み出しているのを見つける事が多々ある。私はそれを眺めるのが好きだ。すれ違う時に耳にする彼ら彼女らの愉快な叫びは、どんな音楽よりも耳うるさくて、思わず笑ってしまう。 

 来るべき排気口新作公演の台本作業をしている。現状、殆どなにも形になっていない。毎度の事なので必要以上に不安になって欲しくはないけど、緩やかに追い詰められているのは確かだ。いくつかの具体的な理由と、いくつかの抽象的な理由によって、当初考えていた排気口新作公演のアイディアを9割以上捨てる事になった。要は新しく1からまた考え直すという道を選んだ訳だ。

 結局、破棄してしまったプレスリリースに私はこのように新作公演のあらすじを書いた。「幕末は元治元年6月5日(1864年7月8日)22時。池田屋に潜伏していた尊王攘夷派志士を新選組が襲撃した。世にいう「池田屋事件」襲撃の1分前までの尊王攘夷派志士の人々を描く新作長編。」

 そう、池田屋事件の話を書こうと思っていたのである。なんと時代劇をやろうと思っていたのである。プロットもある程度出来ていた。

 池田屋の奥座敷を手前にした中座敷(あの有名な階段の近くと言えば分かりやすいだろうか)を舞台に新撰組に殺される尊王攘夷派志士の夕暮れから襲撃の1分前までの話。舞台からは見えない奥座敷に夕暮れから人が集まってくる。その手間の中座敷ではささやかな、それでいて多くの会話が成されていたのでは。と、私は妄想したのだ。ポロっと女中に本音を漏らす志士もいたかもしれない。関係ない人たちがそこにいたのかもしれない。否が応でも時代に流される志士たちの、しかし一人の人間である姿が中座敷に現れてるのではないか。そんな気がしたのだ。

 勿論、史実を半分は無視して好き勝手アイディアを盛り込もうと思っていた。例えば、「文明開化し過ぎた奴」ことブンメイ・カキタロウなる役を考えていた。この役はポパイに出てくるような格好でiPhoneも持っている。幕末にWi-FiとAirPodsを普及させようと奮闘している志士である。また劣勢の尊王攘夷派志士たちの助っ人で世界最強のチビちゃん剣士も登場する予定だった。そのチビちゃん剣士は中世の鎧を着て刀を両脇に5本も差している。だから動く度にみんなの邪魔になる。他にも新撰組の大ファンで自作のうちわを作っている女中や、この時代にあって逆に何もかも知らない河原に住んでいるチンとプンとカンという三兄弟という役もあった。

 歴史ファンからは目ん玉が飛び出しそうになるぐらい怒られそうである。しかし元々、殆ど資料の残っていない福岡祐次郎なる志士に心を惹かれていた私は彼を中心に物語を考えていたのだ。池田屋で襲撃された有名な志士たち、宮部鼎蔵や北添佶摩などを物語の中心に添えるのではなく、どんな人物だったのかイマイチ分からない福岡祐次郎を私の妄想を織り込みながら書いてみようと思ったのだ。

 が、上記に書いた通り、このプロットは今回の新作公演では採用されない。得てして私は新しく考えなくてはならなくなったのだ。

 台本を書くという事は、台本を考えるという事は、もう何作も書いているにも関わらず、本当に難儀な事だ。世界中の母性に甘えてしまいたい夜を何度も超えて、いっその事、田舎に逃げ出して無農薬野菜を作ろうという想いに囚われる朝を何度も超えて、キャンディークラッシュに夢中になるお昼を何度も超えて、台本は完成する。そうして得たものは完成された台本である。失ったものは・・・。もう数える事すらやめてしまった。

 酒飲みである私は夜になると全てを忘れるかのようにアルコールに溺れる。昨日は3回も酒を零してしまった。そうして音楽を聴いて踊る。永遠を信じる為に。そうして時々、泣きそうになるほどに素晴らしい豊かさを酩酊の波間に見つける事が出来る。大抵は二日酔いの諸症状によって容易く消えてしまうのだが。

 焦れば焦るほど書けなくなるのが人の性だ。焦れば焦るほど思い付けないのが人の性だ。今の私は奇声をあげて煙草を吸って、震える指先でビアトリクス・ポター『ピーターラビットのおはなし』のページをめくるだけのダメダメさを発揮している。このダメさをどうにかエネルギーに替える事が出来たら杉並区一帯の電力なら賄えるのではないかと思っている。

 それでも私は書くのだろう。そのような予感は、劇作家としての矜持から齎されるものではない。ましてや責任感や、申し訳ないが出演者やスタッフの為でもない。

 4月に排気口/中村ボリ企画『人足寄場』での出来事だ。私はこれを人伝から聞いたのだが、開演を待つ劇場で、ある1組の若い恋人たちが話していたらしい。それは今から始まる『人足寄場』を楽しみにしている会話だった。その後に折り込まれていた今回の新作公演の仮フライヤーを目にした彼女の方が「ねえ今度排気口、三鷹でやるんだって!!」と声を上げた。それから「この新作も絶対に2人で観に行こうね」

 この会話を聞いていた前列に座る友人たちから、その夜この話を聞いた時、私はとても心を打たれた。初めて演劇をやって良かったと思うほどに。

 名前も顔も知らないその恋人たちの為に今回の新作公演を書く。まだどんな内容になるかは分からないけれど、きっと君たちを肯定するような、君たちに見えない花束を贈る様な台本になるよ。私は君たちが何気なく交わした会話がとても嬉しかったんだ。本当に嬉しかったんだ。どうか9月まで別れないで欲しいなんて言わない。もしかしたら何かの事情があって来ないかもしれない。何か大きな変化があって演劇から遠ざかっているかもしれない。でもそんな事はさして重要じゃない。それよりも、君たちに宛てたいくつかの言葉がちゃんと誰かの隣に寄り添う事の方が重要なんだ。

 常に台本を書き始める最初の1文は非常に個人的な欲望から生まれる。

 しばし晴天が続いている。晴れやかな空を見上げる。足元には心地の良い風が巻き付いてくる。こんなにも穏やかなのに。これが今しか存在しない儚い一瞬だなんて。子供たちが1秒毎に大人になってしまうなんて。哀しみがそこいらじゅうに転がっているなんて。叶わない想いや願いがあるなんて。誰にも変える事の出来ない不条理なシステムがあるだなんて。

 「それに抗う術は無い」そんな風にみんなが口を揃えて呟く世界から、抜け出す為の想像力とハイボールが出る蛇口を考えている。もしも上手く形になった時は濡れた髪でハグしてくれ。酒を奢ってくれ。煙草はハイライトメンソール。

 皆さんの健康と穏やかさを祈って。

 

 

 

 

 

 


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