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神業天才絵師、伊藤彦造と若きアメリカ兵士。

私が初めて伊藤彦造のペン画を見て感じたものは
圧倒的な情熱と誠実さでした。

どの本だったのか忘れてしまいましたが、そこに書かれていた
彼のエピソードに私は胸を打たれ涙しました。

大正から昭和にかけて大衆雑誌の細密な挿絵で一世を風靡した
伊藤彦造という天才絵師の解説の後、
私の感想です。

こちらのサイトから要約させていただきます。

明治37年(1904年)2月17日、戦前・戦後に活躍した挿絵画家の伊藤彦造が生まれました。大分県大分市出身で、剣豪・伊藤一刀斉の末裔であり、自らも剣の師範でした・・・
伊藤家は実際に一刀斎以来の一刀流を継承しており、彦造の父親も達人でした。彦造も小学生の頃から、真剣を持たされて稽古を積んでいます。父親は剣への恐怖心を消すために、真剣で彦造を斬りました。もちろん怪我を負わせるのではなく、血がうっすらとにじむ程度に皮膚の薄皮一枚を斬るのです。・・・
彦造が挿絵画家としてデビューするのは、大正14年(1925)、大阪朝日新聞の連載小説「黎明」においてでした。・・・彦造の挿絵は、当時としては珍しい濃密なペン画でした。・・・・またペンで描くのも、真剣で打ち込むのも覚悟は同じという父親のアドバイスを受け、彦造は早い時期から下書きをせず、いきなりペンで描きました・・・
昭和6年(1931)、非常時の声が高まる中、27歳の彦造は憂国の思いから、「神武天皇御東征の図」を絹本に描きますが、なんとそれは自らの体を傷つけて、血をもって描いたものでした。・・・
特筆すべきは、昭和18年(1843)のアッツ島玉砕を受けて、守備隊長山崎保代大佐と将兵を描く記録画制作です。描き始めてより、彦造は血みどろの将兵が斃れる同じ夢を毎晩見続けたといいます。
彦造は非常に勘が鋭いというか、ある種の能力があったようです。事件の犯人を見抜いたり、災害を予知した話が伝わります。新聞社で仕事をしていて、棚の上を鼠が走った時、彦造が睨むと落下したという逸話もあります・・・・
66歳で筆を置き、彦造は、平成16年(2004年)9月9日、彦造は100歳で大往生しました。
筆を擱いた後、彦造はこう語っています。
「挿絵も芸術である以上、死骸を描いても美しくなけりゃいけません。醜い現実を、画家の目を通して美しく描く……。これが芸術というものでしょうよ」
               
                        以上

ここには書かれていないことなのですが
彦造さんは第二次対戦後、戦争画を描いたことで戦犯容疑を受け、
米軍座間キャンプに収容されました。

そこで彼はマッカーサーのために聖母マリアやキリストを描き、
または若いアメリカ兵士たちに絵を教えていたのでした。

その本の写真には、
先生の彦造さんと体格の良い若いアメリカ兵士たちが
教室の小さい机に向かい、所狭しと覆い被さるように机いっぱいに手を広げ、
頭が画用紙にくっつきそうなくらい懸命に絵を描いているところでした。

私はそれを見て、涙がこぼれました。
また、若きアメリカ兵士たちは、彦造の絵の時間になると
皆、走って教室に向かったそうです。

天才絵師の彦造は、常に真剣で誠実な人であり、
アメリカ兵士たちにもそのように教えたことでしょう。
今や若者たちは夢でいっぱいなのです。

彼らの心の中にはどこにも敵もなく憎しみもありません。
では、どうして戦いに送られた日本やアメリカの若者たちは
攻撃ができたのでしょうか?
薬物でコントロールされていたのです。
脳の状態を変えられていたのです。

彦造は66で筆を置いた後、100歳まで生きました。
家族と幸せな人生を送ったそうです。

誠実さと情熱で戦いを描き尽くし
米軍キャンプで若き兵士たちに絵画を教え
マッカーサーが彦造の家に尋ねてきて、妻の手作りの海苔巻きを食べたことも。

伊藤彦造は、もの凄い画力と世界に愛を表した偉大なアーティストです。
私は彼が日本の画家であることが誇らしく、心から嬉しくて、
感謝が止まらないのです。

           ー キョウコ

「挿絵も芸術である以上、死骸を描いても美しくなけりゃいけません。醜い現実を、画家の目を通して美しく描く……。これが芸術というものでしょうよ」

  ・・・彦造さん、その通りですね。





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