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あの日。と、これからの日々。

東京で経験した飲食店での経験を、連載で書いていましたが。
今回は閑話休題。
勤務中に体験した震災の話と、これからについて書いていきます。

<あの日まで>

少しだけ、僕の略歴です。
2009年4月、26歳にして、初めての一人暮らし(上京)をしました。
当時は新宿区にアパートを借り、日本橋へ地下鉄で通っていました。

あの日は2011年ですから入社して2年が過ぎようとしていました。
実家の仙台では祖母と両親が暮らしていて、兄の家族、姉の家族も同じ市内に住んでいました。
その年の2月に、父が定年退職し、ほぼ1か月後の3月11日に震災は起きました。

<あの日>

日本橋(八重洲北口付近)の飲食店で働いていた僕は、他のスタッフと一緒にランチ営業の片付けや、休憩の準備をしていました。
まだ店内には、お客様がまばらに残っていらっしゃいました。

14時46分。
スタッフを含めた、店内にいる全員の携帯電話の緊急地震速報が鳴り響きました。
地震の多い国なので、強い地震があったとしても、その時点で深刻に考えるというよりは、まずお客様の出入り口の確保、ガス元と食器棚を安全に保ち、身の安全をはかるという、普段から気を付けている順番で対応しました。

しかし、予想に反して強い揺れが長時間続きました。
店舗は高層ビルの1階のため、揺れが収まってからも耐震構造がはたらき、上層階の揺れがゆっくりと続くため、地震後の店内も同様に周期の長い揺れは続きました。
いまだに、あの揺れには不快感がつきまといます。

館内放送では、小さい頃から何度も聞いてきた避難訓練と同様に「宮城県沖を震源とする巨大な地震が発生しました・・・」と何とも現実味の無いアナウンス。
一瞬、地元の安全を気にしたのか、頭が理解しきれなかったのか記憶は定かではありませんが、身の危険をしっかりと感じたのは、その後でした。
身の周りでビルの倒壊や火事が起こりうる場合も頭を過りました。

そして、このような時に思い出すのが、大自然の力や人間の非力さです。
普段は、頭の片隅に忘れてしまっている感情。天災の恐怖です。

少しだけ落ち着いた頃、店長か誰かが僕に言いました。
「地元だろ?」

血の気が引きました。
東京であそこまで揺れたのに、仙台はどうなってしまっているんだろう。

急いで連絡を取るために電話を掛けました。
分かっています。当然すぐに繋がることが無いことは。
メールか、LINEか、SNSか。色々試みましたが、どれも連絡がつながる家族はいませんでした。

休憩を取れる時間も報道を逐一確認していました。首都圏から東北の太平洋側全般に起こった津波や、液状化現象、ビルから割れたガラスが落ちてくる。などの、不安なニュースが次々と取り上げられていました。

<怒り>

その対象は、最初は所属長である店長と料理長に対してでした。
電気、水道が通っているので、夜の営業もすると言うのです。
「それどころじゃないだろ」「それでも金儲けか?」
言葉にはできない感情や怒りが芽生えました。

身内に連絡もつかず安否もわからないのに、仕事を出来るわけないだろ。
そんな気持ちと同時に、ニュースから見て平野より山に近い家族は多分大丈夫だろう。という気持ちもどこかにはありました。

自分の中で冷静な部分はそう思っているのに、交友のあるなしに関わらず、地元の人達のことを考えたら、仕事のことなんてまったくもって身の入らない時間だと決めつけていたのです。

しかし、その偏った想いの一部に過ちがあったことに気付きました。
夜営業を始めると、帰宅の困難な方々が続々と、ご来店されました。
僕にはその人達のことが考えられていなかったのです。
家族や友人達が大事なことに変わりはないのですが、目の前にも震災で被害を被った方々がいるということを。

電車が止まっていて、タクシーも捕まらず帰るに帰れない人たちが、待機や食事の目的で、座って落ち着ける場所を求めていたのです。
お店の電気と水道が通っているということは、電子レンジ、卓上IH、ガスコンロなどの一部の設備がが使えるということです。
夜の営業用に仕込んであった、鰤大根。それと、炊いてあったご飯に味噌汁。それらを定食として販売をしました。
(値段は多分格安だったと思います。)

食料品の持ち込みも、その時ばかりは大丈夫ということになりました。
店長の判断でしたが、帰ることのできない人たちに座って休んでいただくためのスペースも確保された形になっていました。

そして僕は、少し視野が狭かった自分を悔やみました。
地元の人達の安否ばかりを気にしていて、目の前にいる人達のこれからについて全く考えておらず、ましてや怒りさえおぼえてしまったのですから。

<その後>

店舗の営業は、21時前の退館と言うことに、僕も帰宅することになりました。
運良く、都内の地下だけを走る地下鉄は運航しており、(普段使う東西線は千葉で地上に出るため止まっていましたが)、大江戸線、丸ノ内線、銀座線などいくつか使えた線があったと思います。

大江戸線の利用は、あんなに地下深い駅なのに改札前まで人が並んでいたので断念し、多分、銀座線と丸の内線を使ったのだと思います。
中野坂上で下車し、山手通りを歩いて帰宅しました。

都内でも、救急車が結構な頻度で走っていたのを覚えています。

YouTubeや地上波では、連日津波被害についての映像が多く流れていました。
その情報は数日間の間、通信の絶たれた被災地では、得ることが出来なかったようです。
堤防のどちら側に住んでいたかで、その後の状況に大きな差が生まれたり、原発の倒壊、海の汚染、人災など。
僕にはどれも現実味が無く、周りや都内では自粛という雰囲気が大半を占めているだけでした。

<1週間後>

毎日実家に電話をかけていて、ようやく安否を確認できたのは、1週間後でした。
呼び出し音が鳴り、電話線が繋がっていることが分かり、家は無事だということが分かり、まず一安心。

電話への応答もありました。

電話線の構造上の問題か、通信上の問題なのかは分かりませんが、最初の電話はこのような感じでした。
祖母が何度か「もしもし?」と言っているにも関わらず、僕の声が届いてはいないようで、「なんだい、何も聞こえないわ」という、祖母の声と共に電話は切られましたが、そんな普段の会話ができている雰囲気に安心しました。

<約1か月後>

すでに実家との連絡も、通常通り取れるようになった頃。
会社から休暇を与えて頂き、実家で1泊し直接会うことが出来ました。
高速道路の復旧は震災から1週間程度という驚きの早さだったと思います。そのお陰で、高速バスが運行していたので、出来る限りの食料を持って実家へ向かいました。

店長は、自費でお小遣いやカップラーメンなどを、僕へ託して下さいました。
しかも毎週現地へボランティアに赴くという、心意気の方でした。
その後、店長は会社を辞めてしまったので、未だにちゃんとしたお礼が出来ていないのが悔やまれますが、いずれ上京の際に叶えたいです。

仙台駅で停車した高速バスから、父の運転する車へ乗り換え、市内を走っている際に見た街並みは、落ちた瓦屋根にブルーシートをかけた家、でこぼこの歩道、ガソリンスタンドに並ぶ給油待ちの車の列など、普段とは違う帰郷を思わされました。

<それから>

病院に行くほどでは無いものの、強めの地震が起こると少しめまいが起こり、気持ち悪くなる様になりました。
かなり無頓着で強めのメンタルだと自負している僕としては、この程度で済みましたが、沢山の後遺症が皆さんの体に残っていることだと思います。
音に関する記憶も少なからずあるようで、緊急地震速報や、ACの特定のCMには嫌な気持ちを思い出させられます。

それからのプロスポーツ界や芸能界において仙台、東北を拠点とする方々の活躍や、著名人の方々の激励には、東京にいる僕でさえも沢山の力や活力を与えて頂きました。
中でも、マー君こと田中将大投手の大活躍。サンドウィッチマンをはじめとする芸人の皆さん。ベガルタ仙台の躍進。これらは特に心に残っています。

他には、今でも歌で勇気を与えに来て下さるアーティストの皆さん。
国境を越えた、数々の支援を下さった世界中の人達。

いまだにお心配りをしてくださる皆さん。
心から感謝すると共に、いずれその時が来れば、僕らが支援する側にまわるかも知れません。その心構えは、一生持ち続けたいと思います。

当時大きく取り上げられた文字があります。
「絆」です。

一人でどうしようもなく、家族のことしか思いやれなかった自分が、一瞬忘れてしまっていた気持ちです。
その言葉は、これからの社会にも大事なキーワードであると思いますし、冒頭で説明した通り、地元へ帰ってきた僕が、またその言葉に助けられている場面が多々あります。

<10年で変わったこと、感じていること>

10年で変わったことと言えば、確実に皆さんが触れると思うのが
「コロナ」です。
世界中の人々にまんべんなく、その脅威が拡がっています。

個人的にあった変化と言えば、10年間で28歳から38歳へ。
大きな出来事と言えば、恋愛、結婚、離婚を経験し、コロナによる需要の変化によって希望退職を募られ、会社を希望退職したことです。
もともと、いずれ地元へ帰って生計を立てたい。というのが上京した時からの目標でした。
そして、今現在は仲間たちと新たに時代に即した生活を模索している所です。

そうして、実家暮らしの時から繋いできた絆をもとに、もっともっと沢山の交友関係を広げていけたら、充実した生活が出来るのではないかと考えています。

多種多様な仕事や趣味を共有してきた仲間と、お互いに必要で足りていないスキルを信頼して補い合えるのもこれからの希望です。
自分の業界が潤い、相手が辛いときは手を差し伸べることも出来ると思います。
その様に支え合えるコミュニティを大きくすることが、これからの僕の生き甲斐になっていくのだと思います。

「震災から10年」についての話はここまでです。
以下は、僕がこの10年で強く感じている大きな課題についてです。

<大きな課題>

それは、「モラル(の低下)」です。
不祥事、貞操観念、煽り運転、マスクを付ける付けない、男尊女卑の発言、飲食店の自粛要請と率先して行動すべき民選議員の軽率な行動。
僕が意識する前から、存在し世間で騒がれていたのは承知しています。

しっかりと意識を持ち始めたのが最近のことだったので、近況という側面で書かせて頂きます。
次の文で、ごく当然のことを書きました。
ご興味のある方はお付き合い下さい。

<モラルについて>

モラルがあるとは、一般常識的に物事の分別が付き、それに則って行動できることを言うのだと、僕は認識しています。
検索をすると、「マナー」と「モラル」について明分化されていることもありますが、倫理観、道徳観と言った対人関係に必要なスキルの一つだと考えています。
そして、モラルの無い言動が増えていくことで、ルールや法律が増えていくのだと思っています。

本当は、冒頭の「一般常識的」という言葉は、場合によって個人や大衆の思想の押し付けの様な捉え方をされることもあるので、常用はしないようにしています。
自己中心的な行動が目立ち、批判されると、ルールが増えていきます。
僕はこの過剰に決定されるルール、法律というのが好きではありません
より厳しく細分化されたルールを生み出し、時として自分の裁量や自由を奪うものだからです。

近頃、法案化される事案や、罰せられたり、吊し上げられたりするということが頻繁に報道されますが、全てがこの「モラル」によるものだという印象を受けます。
もちろん、新しい社会の枠組みを作る上で、時代に合わせた規則やガイドラインの作成は必要なことであり、それを否定するものではありません。

他人の行動に対して、受け入れることのできる閾値(パラメーター)は、人によって様々です。度が過ぎることや、自分以外に迷惑を被る人たちがいることを意識して行動すること。
その対象が、身内であった場合に同じ行動を取れるのか。
まわりまわって自分に返ってくることが意識できるか。

自分が動かなくとも、仕事が進められる時代になって、コロナも含めた時代背景から、余計に人と人との直接的な関わり合いが減っていく時代になったからこそ、声を大にして「絆」や「思いやり」といった、相手を気遣う気持ちを強く主張していきたいと思っています。

<文末のご挨拶>

長文になりましたが、それぞれの10年という話題について触れながら、最後には脱線し、個人的な主張も書かせて頂きました。
議題となった10年の前後には何年もの歴史が、皆さんの中にあって、その流れの中にある10年間だけを切り取るのは難しいなぁ…と考え、この様な形を取りました。

僕にとっては震災による直接的な被害はほぼありませんでした。
そして、東京で大きな流れに飲み込まれていた時代がこの10年間でした。
全てのエピソードを書き記すことは、時系列の整理や、新たに増えた趣味などまとめきれない情報量になるかも知れない恐れから、今の段階では手を付けませんでした。

これからの10年は、時代に流されることもあるでしょうが、必死に船を漕ぐ時期もあると思います。
そんな時に、思いやりを持って泰然とした面持ちで暮らしていられたらいいなぁ。と思っています。

まずは仲間たちと、その基礎となる信頼や信用を今以上に育んで生きていきたいと思います。
それがこの人生100年と言われる時代に取り戻すべきものだと信じているからです。

ご拝読ありがとうございました!!

#それぞれの10年

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