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生き残りの道

生き残りの道

話は遡るが、1981年、ワシントンD.C.で、偶然通訳の笹本さんと言う人に、あるパーティーで出会った。  

我々家族はジョージア州から、越して来て数ヶ月。

ジョージア州では、 日本進出企業で、社内通訳として、毎日会社に出勤、毎日12時間近く働いた。

私には学ぶ事の多い仕事で、若かった事もあり、余り疲れさえ感じなかった。

夫の仕事の関係で、泣く泣くその仕事を私は辞めて、我が家全員、アメリカの首都近郊に越して来たのだ。

笹本さんの紹介で、国務省言語課に電話して、通訳試験の予約を入れた。

笹本さん曰く、「まずは試験を受けてみて、合格のための対策を練ると良い。」

数日後、 笹本さんに教えていただいた電話番号を使い、笹本さんが教えてくださった係の方に電話を入れた。

試験の結果、運良く同時通訳の試験に受かり、国際会議者として、国務省に登録できた。

ジョージア州時代、毎日、社内通訳として社長に同行、州の役人、弁護士、建築家、水道局職員、ジョージア州立大学等と、仕事の話し合い、結果的に、良い通訳の訓練になっていたのだ。  

何せ、日本からの進出企業で、 アトランタから車で40分程東にある、コンヤーズと言う町に、工場を建てる所から、仕事が開始したのだ。

それから、 紆余曲折があったが、 徐々に仕事が入り始めた。  

仕事内容も、てんでんバラバラ。  原子力発電所、経済問題、人事関係、農業関係、環境、高齢化、水際開発関連の問題など。

英語と日本語の単語帳を、せっせと作り始めた。

1980年代、まだアイホーンもインターネットも、民間人の間に、全然広がっていない時代であった。  

ジョージア州では、正社員として雇われたので、退職時まで、そこで働く覚悟をしていた。

アメリカ人の夫が、アメリカの首都にある新聞社に就職、離婚は夢にも考えていなかったので、 給料のより多い、夫の職場近くに住居を移転、私は主婦に逆戻り。

運良く、国務省言語課の試験に受かり、私は有頂天。  ただ仕事が飛び込んでくるのを待ち続けた。

いつまでも仕事が来ないので、地元の新聞の求人欄を見て、ジョージタウン大学の、事務職に挑戦、運良く受け入れて頂いた。 

副学長のもとで、事務の仕事をする事になった。

ところがお給料の安い事、天下一品。  元々、 副学長の下で働く事務職は、 大学院生の、アルバイト的位置づけだったらしい。 

そんな事は知る由も無く、有名な大学の事務職員になれた事を、喜んでしまった。

何が人生の転機になるか分からない。  偶然の重なりで、米国で通訳として、生き残る道を見出した。


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