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内実の不在について

「飛ぶ孔雀」
山尾悠子

 スーザン・ソンタグは「反解釈」で、
「解釈学の代わりに、われわれは芸術の官能美学を必要としている」
と述べた。不毛な作品解釈は作品を貶め、本来の美を損なってしまう。我々は「XとはつまるところYを象徴している」というような批評ではなく、作品が、まさに作品そのものであることをみる目を養わなければならない、と。

 山尾悠子の作品に関しては、その「解釈学」は全く不要で、ただそこにはイメージと言葉の美しさがあるのみである。「山尾悠子作品集成」の解説で石堂藍氏が「空虚あるいは内実の不在」が山尾作品の最大の特徴であると書いており、それは確かにそうだと思う。内実とは、この場合、社会的テーマや主義主張の類のことであるが、そういったものを山尾作品から読み取ろうとしても、何ら意味のないことで、読者は山尾悠子の書き出した夢幻の世界に飛び込んで、めまいと不安を楽しむしかないのだ。

 シブレ山の石切り場で事故があって以来、火が燃え難くなった世界での人々のエピソードが、前半(「飛ぶ孔雀」)と後半(「不燃性について」)にわたって淡々と語られる。火が燃え難くなって、人々は難儀しているが、難儀だなあと持っている以上のことはなさそう。
 前半はいくつかの、この世界の小エピソードが並んだあと、やがて公園で行われる真夏の大寄せ(大茶会)へとなだれ込み、火が必要な茶会で火が燃えない所へ、火を届けることになった二人の少女が孔雀に襲われ、受難する。
 後半は地下の公営浴場と山頂の頭骨ラボが舞台となる。Kは地下の公営浴場で路面電車の女運転手に言い寄られて恋人となり、次いでダクト屋と付き合い、名無しの少女を連れて山頂に赴く。しがない劇団員Qは婚礼のすぐあとに頭骨ラボで働くことを強要されて登頂し、混乱を極めた新人歓迎会の最中に脱走を図る。やがて大勢が交錯して山頂に集う頃、地下の「大蛇」によってもたらされる崩壊の予感が漂う。

 この小説の、というか、山尾作品全般に言えるのかもしれないが、その幻想性が他を圧倒するのは筆致で、緻密で詳細な現実描写、例えば冒頭の町の説明や、火種屋にもっていくカイロ様の容器(「蝶番のついた丸い蓋はぱふ、と音をたてて閉じる」)、女たちの着物の柄、地下の浴場、階段井戸の正十角形、などの詳しい描写すぐ横に、非現実な世界、時間が凝固したり、石灯籠や犬がしゃべったり、石が成長したり、がすっと並んでいる。この辺は泉鏡花にも通じるところがありそうだが、細かな描写が現実性を、まさに読者と親近性を持つがゆえに、非現実世界の幻想性が際立つ。だがその非現実も、話の中ではなんだかちょっと変だなと思った後、ふと目を離すと違和感は現実と混ざり合って紛れてしまうのだ。

 澁澤龍彦は、幻想文学を書こうとする者は「もっと幾何学的精神を」持つべし、と、述べている。明確な線や輪郭で細部をくっきりと描かなければ幻想にはならない、つまりは、幻想と言ってもしっかりした論理や構築性が必要だということである。山尾作品が優れた幻想文学であるのは、まずは我々になじみのある現実が緻密に書きこまれているからに違いない。

 最初に書いた通り、この小説が何を意味するのかを考えることは全く意味がない。内実の不在は、解釈の必要性を与えず、読者はただ作者の幻想に放り込まれ、登場人物のうちの誰かに寄り添って溺れればいい。文庫版の解説で金井美恵子が書いているように「ただ心して読むべし。」である。

 さて、内容についてあまりくどくど書いてもネタバレするのもアレだが、ネタバレしたとて何なのだ。なので、私が感応したところを思うまま箇条書きに。

・前半は川中に広がる横向きの世界、後半は地下から山頂へと縦向きの世界。
・最初のトエの妹たちは、よもやQの妻の妹たちか?
・動く芝、産み出される関守石、成長する石、変形する少女の顔。動かないはずのものが動いたりするオブセッション。
・少女二人は北回りと南回りに分かれて火を運ぶ。何やら神話的世界。
・禁忌と罰。
・名もなき女たちの狂気。
・シブレ山とシビレ山。二つの山に対応してか、双子が前半と後半に登場。
・登場人物の何人かが不覚に眠りに落ちる。夢現に世界が混濁する。
・地下の大蛇はバシリスクでは?もとは王冠だったが変質して肉腫となった鶏冠をもち、退化した肢もある。
・なんとなく最初とつながりそうな、円環の世界。ガラスに囲まれた場所でカードを繰るのは誰?
・たまらなく好きなのは前半最後のスワンの独り言、それと「復路Ⅲ」と、作者自身も気に入っていると書いている、最後の少女のつぶやき。

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