弟たちのこと

親孝行だった末の弟

6月2日は実弟の51回目の誕生日でした。父が離婚して再婚しているので、私には二人の弟がいます。血がつながった3歳下の実弟と、継母の連れ子で、血がつながってはいない6歳下の末の弟です。その実弟の誕生日だったので、弟たちのことを思い、ブログを書きたいと思いました。

私が14歳、実弟が11歳、末の弟が8歳の時に父と継母が再婚して、私たちは兄弟になりました。私達が家族になり、兄弟になってもう40年経ちます。私達もアラフィフになり、みな色々なことを経験しました。父が亡くなり、継母が亡くなり、喪失感も経験しました。末の弟が、母の49日忌の後、「兄弟3人だけになりました。力を合わせて頑張りましょう」とラインをくれました。父が亡くなった時も、母が亡くなった時も、末の弟と彼のお嫁さんが、経済的なことも含めて、すべての段取りをやってくれました。末の弟と彼のお嫁さんには感謝の思いでいっぱいです。

末の弟は、東京で焼き肉店を経営しています。お嫁さんも店を手伝っています。私が病気になる前は、彼は父や母と一緒に、私の嫁ぎ先の岡山のお寺にも来てくれました。小さな時はとてもやんちゃだったけれど、ラグビーと出逢い、中学・高校・大学とラグビー部に所属して頑張っていました。脱サラして、焼き肉店を始めてからもラグビーの指導を続けています。面白くて、頭がよくて、優しくて。そして親孝行でもあった彼を6歳下ではあるけれど、尊敬しています。

私が統合失調症を発症してからは、末の弟やお嫁さんとは疎遠になっていました。でも、継母が亡くなってからは連絡を取り合ったりして、距離がぐっと縮まりました。お嫁さんもとてもよくしてくれます。継母のおかげだと思います。


ファーストメモリー

ここからは、私の3歳下の実弟のことについて書きたいと思います。彼のことを弟と呼びます。

皆さんの、一番最初の記憶、ファーストメモリーっていくつの時で、どんなものですか?私のファーストメモリーは、弟が生まれた時のことなのです。私は3歳になる少し前でした。

祖母に連れられて、弟が生まれた産院に行った私。祖母が抱き上げてくれたのか、それとも台に乗ったのかは覚えていないのですが、生まれたばかりの赤ちゃんが並ぶ部屋の様子をガラス越しに見て、
(どの赤ちゃんが、私の弟なのだろう?)
とワクワクしていました。その赤ちゃんの中で、保育器に入った赤紫色の赤ちゃんがいて、
(あの赤ちゃんじゃなければいいなあ)
と思っていたら、看護師さんがその赤ちゃんを指さして、私の弟だと合図して…
(ガーン!😨あの赤ちゃんが弟なんだ)
とショックを受けたことが、私のファーストメモリーなのです。


優しかった弟

最初の印象は最悪でしたが、弟ができて、私は嬉しかったです。小さなころはよく一緒に遊びました。両親が離婚するまで、4年間ほど私たちは岡山で暮らしました。当時私たちが暮らしていた家の周辺は山があって、川があって、田んぼがあってと自然がいっぱい。私は、ザリガニ取りや虫取りが大好き。ゲイラカイト(懐かしいでしょ?)や男の子とキャッチボールをするのが大好き。弟は、女の子の友達とままごとや人形遊びをするのが大好き。なんかあべこべといった感じでした(笑)岡山での子供時代の記憶は私にとって、とても幸せなものです。

その後、両親が離婚して、父に引き取られた私と弟は、伯母と祖父母が暮らす京都の家に預けられました。私が10歳、弟が7歳の時でした。10歳。10歳をティーンエイジャーといってもいいのかわかりませんが、友達と遊ぶのが楽しくなった私でした。弟とではなく、友達と遊ぶことの方が楽しくなり、彼は寂しい思いをしていたかもしれません。友達と遊んで帰りが遅くなった私を自転車に乗って探しに来てくれて、車に引かれかけてケガをしたこともありました。本当に優しい子でした。


罪を犯した弟と、心が壊れてしまった私

そんな優しい弟は、大人になってから、やくざの道に足を踏み入れてしまいました。そして覚せい剤と恐喝で警察に捕まり、服役しました。その知らせを継母から聞いた時の私は、激しく動揺しました。

お寺の仕事に加えて児童英語教室を経営していた私。忙しい毎日を過ごしていました。忙しいけれども充実した日々を過ごしていました。息子たちも健やかに育ってくれていて、とても幸せな日々を過ごしていました。弟が逮捕された知らせは、そんな私にとって、とてもショックなことでした。

(この知らせが皆に知れたら、私は、そして息子たちはどうなるのだろう?)
(弟は元気でいるのだろうか?)
途切れることなく心配事が湧いてきました。いつもいつも心配事が頭の中を巡る感じといったらいいでしょうか?そして、ある日、脳の中がまるで炭酸水がシュワッと噴き出すようになって、真っ白になってしまいました。何も考えられなくなりました。私の心が壊れた瞬間でした。でも、その瞬間、なぜか私は嬉しかったのです。
(もう考えなくていいんだ。もう悩まなくていいのだ)
と思ったからです。

それから弟は、罪を償い、やくざの道からは足をあらって、頑張って働いています。私は精神科への入退院を繰り返したのちに離婚して、自殺未遂をしたりと色々な辛い経験をしました。でも、今は生活保護を受給しながらも、やりがいのある仕事に就くことができ、「違いを認め合う会」Crossroadsの活動をしたり、こうやってブログを書いたりというライフワークとよべる活動もすることができています。カウンセラーの妙さんとの出逢いをはじめ、素敵な仲間に囲まれて、また尊敬する、赤羽雄二さんや石川和男先生、野口雄志先生とのご縁もいただき、いま本当に幸せに暮らしています。


人生の意味は自分で決める

いま私は、本当に幸せです。どん底を味わったからこそ、今の幸せを心からありがたいと思えるのです。私は両親の離婚や、自分自身の離婚など、「家族」というものに振り回され、息子たちを振り回す人生を生きてきました。複雑な家庭で育ちましたし、結婚生活も山の中のお寺での生活と、ちょっと特殊な環境でした。

でも思うのです。自分が幸せに生きられないのを育った環境や親のせいや、過去の出来事のせいにするのって、「何か違うのではないかな?」と。もちろんそれらは私たちに大きな影響を与えます。でも、そうだから自分は不幸な人生を生きていると嘆いていても、前には進めない気がします

「アドラー心理学入門」の中で岸見一郎氏はこう書いておられます。

「(アドラー心理学は)うまくいかないことの責めを自分以外の外的なもの、過去の出来事、才能、そういったものに帰することを断固拒否するのです」

「自分がこの人生の主人公であることを知った時、人は自分が動くしかないことを学ぶことになります」

そうなのです。自分が人生の主人公なのだと思います。
その人生に意味づけするのも自分自身。

上がったり下がったりと、いろいろあったりで、時には人も巻き込んでしまう私ですが、「自分の人生を生きるんだ」と覚悟して生きていきたいです。

だって一度きりの人生だから・・・
反省はしても後悔はしたくないから・・・

最後まで読んで下さって、ありがとうございました。

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