12/12(火) お父さんは心配症、世界中の路上にころがっている小石
12月12日(火) 雨。今日は一歩も外に出ていない。
昨日書いた日記、よくよく見たら数日前とタイトルが激似だった。確認しなかったし、何も考えてなかったってのもあるけれど、ここ最近さみしい気持ちが表に出るくらい大きくなっちゃってるのか。
いつも書いているけれど、面倒な仕事をしたくない。わたし以外にやってくれる人はいないのに、ズルズルと先延ばしにしてしまっている。今週は絶対にやっつけないといけない案件。
気持ちが乗らず惰性で仕事をしている横で、ネコがスピスピと寝息を立てて寝ている。羨ましすぎる。
気持ちが落ち気味なので、何も考えずに読める本を…と、先日買った『お父さんは心配症』①(岡田あーみん/集英社)を手に取る。
はるか昔、りぼんっ子だった頃に毎月読んでたわ。
『ときめきトゥナイト』『有閑倶楽部』『ちびまる子ちゃん』『星の瞳のシルエット』『ポニーテール白書』などなどを読むために買ってもらっていた雑誌りぼん。ザ、少女漫画の中で異彩を放っていた『お父さんは心配症』は、今読んでもちょっと変だし笑えるしスピード感がすごい。
『断片的なものの社会学』(岸政彦/朝日出版社)をパラパラと再読している。
冒頭、著者が幼かった頃の癖の話がある。道ばたに落ちている小石を拾い上げ、いつまでもじっと眺めていると、世界にたったひとつの「この小石」になる瞬間が訪れ、そのことに陶酔をしていた、と。
最近、日記やエッセイを読むことが増えた。ネットだけでなく、個人で発行するzineはとても身近になったので、触れる機会が単純に増えたというのもある。
あの人もこの人も、わたしの知らない街で日々をやり過ごしている。日記を読んでいるその瞬間は、たとえば電車の中で隣り合わせに立っているような、少しだけその気配を感じることができる。
日記から離れると、わたしたちは知らない他人に戻る関係。
その日記はノンフィクションじゃないかもしれない。そんなこと、わからない。誰もがノンフィクションとフィクションを使い分けて生きている。その狭間にほんの少しだけ、読者として、登場をさせてもらっている。
そんなことを思いつつ、今日も知らない誰かの日記を読み、寝る前に『大阪の生活史』をぱらりと読む。
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