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ジュリアン・アサンジ - デジタル時代のヴィラン

今回は、ハッカー特集シリーズの第2弾として、ジュリアン・アサンジに関するお話をさせていただきます。

ジュリアン・アサンジとは何者か?

1971年、オーストラリアのクイーンズランド州の生まれたジュリアン・アサンジは、幼少期からコンピューターに強い興味を持つ少年で、彼は10代の頃から自らの才能をいかんなく発揮していました。彼が16歳の頃、アサンジは自らが作成したモデムを用いてインターネットに接続することに成功します。

モデムとは、コンピュータを他のコンピューターと通信させるために用いるデバイスで、当時インターネットがまだ一般的でなかった時代に、16歳にしてモデムを作り上げるというのは、驚異的な才能の持ち主であったと言えるでしょう。

アサンジのハッカーとしてのキャリアは、1980年代後半から1990年代初頭にかけて始まります。当時の彼はプログラミングやハッキングに熱中しており、日々そのスキルを向上させていました。20代になりたてのアサンジは、あるハッキング事件に関与し、警察に逮捕されます。しかし、彼の卓越したハッキング技術を認められ、罪状を軽くしてもらい、短い期間で釈放されるのです。

アサンジは2000年代中盤に、ウィキリークスを設立します。このサイトは、企業や政府の内部情報を暴露するウェブメディアで、世界中の政府機関や企業、報道機関に大きな影響を与えました。次の章では、彼がウィキリークスで取り上げたいくつかの重大な機密情報のお話をします。

ウィキリークスが暴露した重大な真実

ウィキリークスで、最初に世間的に大きな注目を集めたきっかけとなるのは、米国のヘリコプターがイラクで民間人を射殺する映像「Collateral Murder」を公開した時でした。

この映像は、当時世界中で大きな話題となり、アメリカ軍に対する国内外の批判を強く集める結果となります。

また戦争に関連する暴露では、「アフガニスタン戦争日誌」もアメリカおよび同盟国の戦争遂行に大きく影響を及ぼしました。ウィキリークスは、米国の機密文書約7万5000点を公表し、その情報の中では同盟国による裏工作や、民間人が犠牲となった未公表事件の内容が含まれていました。

ウィキリークスの勢いは留まることを知らず、同年11月に「ケーブルゲート」と呼ばれるアメリカの外交文書(機密書類)を、サイト上で公開しました。これによりアメリカと各外交関係にある諸国との、非公開なやり取りの内容が漏洩することになります。

最後に「2016年のアメリカ大統領選挙」では、民主党の内部メールがウィキリークスによって公開されました。この事件によって、アメリカの選挙に対して外国からの干渉があったという事実が発覚します。

ハッカーとしての行く末

アサンジの活動は、非公開情報の開示という観点で、情報の民主化という観点では高く評価を受ける一方で、国家の安全や機密を脅かすという意味でアメリカや関連国からは危険分子という扱いを受けます。アサンジはアメリカ政府から起訴され、最終的にロンドンのエクアドル大使館で7年間の避難生活を送ることになります。

その後、2019年に彼はエクアドル大使館から追放され、イギリスにて身柄を拘束されてしまうのです。アメリカはイギリスに対して身柄の引き渡しを要求しています。

アサンジの人生は一貫して反体制的な立場を取り続けており、重大な秘密を世間に公開することで、権力闘争を行ってきました。その行動は法的な問題を多く引き起こし、結果的に彼自身の逮捕という形で幕を引きます。彼の人生は、情報開示の重要性とそれが及ぼす社会的な影響について考えるきっかけを与えてくれます。

おわりに

ジュリアン・アサンジの活動は、私たちに情報の保護やサイバーセキュリティの重要性を教えてくれます。特に多くの情報がデジタル化されている現代、デジタルで保存している情報が全て抜き出され、公開されてしまえば、公開された人間や国家は大きなダメージを負うことになるでしょう。

本ブログでは、サイバーセキュリティを学ぶきっかけとなるような記事作成を心掛けており、少しでも興味関心を持ってもらえるようになれば非常に嬉しいです。過去の記事では、ハッキングやサイバーセキュリティを学ぶ上でのコツや、取得するべき資格等について書いたものもありますので、是非読んでみてください。

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