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【書店便り3】紙か電子か:(1)図書館の古書の匂い

 このシリーズでは、いま「本」とどのように付き合っているか、「紙か、電子か」と云う切り口でつれづれに書いていきたい。初回として、図書館の古書の匂いについて。(以下、YOM(読む)のうちM(短く)の精神に反して長ったらしい文章だが最後までYOMでいただければ)


 ここでいう図書館とは東北大学附属図書館のことだが、まずはアクセスから。

 JR仙台駅西口から青葉通りに沿って歩いて行くと20分少々で広瀬川にでる。大橋をわたって左前方に青葉城の隅櫓(すみやぐら)を眺めながら坂道を上っていったところに、東北大学の川内キャンパスがひらけている。むかし伊達藩の二の丸があったところだ。

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 この写真はその二の丸の一角だが、正面の森の崖下には国際センターと広瀬川、反対側には、青葉山をバックに文科系4学部と図書館、植物園などがある。このあたりはみどりゆたかな木々にかこまれ、今の季節、新緑のあとの彩りがいっそう濃く広がっている。杜の都といわれる仙台でとりわけ美しく静謐な場所だ。新鮮な空気が心地よい。

 さて図書館の建物であるが、外見はたいへんシンプルで装飾らしきデザインは見当たらない。構造は地上2階、地下2階の重厚なコンクリートむき出し、強度の耐震、耐火を施した知の要塞のようだ。

 なかに入ると、天井の高い吹き抜けのホールが拡がる。解放感のあるスペースだ。両サイドにある階段は学生用の書架や閲読室、グループによる学習スペースなどに通じ、さらに認証カードがあれば受付カウンター横のゲートから地下の書庫にも自由に出入りできる構造になっている。

 その書庫であるが、1階が洋書、2階が和書、正確な数字は知らないが、おそらくは数100万冊の書籍が電動式移動書架にギッチリ収められているのであろう。

 先般「独リボッチの漱石 - 英国留学と子規・寅彦との交友」という電子本を出版したが、参考にした資料のほとんどはここから借りたものだ。延べ100冊近くになろうが、日数も数カ月から1年以上のものもあった。書斎のデスクトップを vpn(virtual private network) 経由で図書館につなぎ、そこのマイページから延長ボタンを何度か押せば半年くらいは借りっぱなしができる。ついに期限の切れた書籍は、キャリーバックに詰め込んでカウンターに出向き再借出しの手続きをすればよい。この上ない便利なシステムだ。

 というわけで、図書館なしには今回の執筆は事実上不可能であったのだが、とりわけ重要な資料のひとつが「ホトヽギス」という俳誌であった。明治30年に創刊された月刊誌だ。漱石はロンドンで、子規は根岸の病床で、寅彦は高知や本郷でその最新号を読んでお互いの消息を知ることができたのである。今日のことばでいえば、3人を結びつけていたプラットフォーム、情報の場(メディア)の役割を果していたといえるだろう。

 一例をあげれば、漱石はロンドンに着いて約3カ月後の1月22日の日記に、下宿に帰ってみると故国から届いていた「ほとゝぎす」を手にとり「子規尚(なお)生きてあり」とつけている。親友の無事を知った漱石は、この9文字に万感の想いと歓びをこめたに違いない。

 本題に戻ろう。執筆の途次、この雑誌をめぐって二度ほど貴重な経験をさせていただいた。

 まず最初が、明治34年発刊の第5巻第4号を借りたときのことだ。
 その目次を下に掲げよう。

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ここには、寅彦の妻・夏子(19歳)がハンドルネーム、奈津女として投稿した日記が載っている(左端)。これは、ある指定日(11月30日)の出来事をまとめた記事である。そのころ高知の浦戸湾の入り口にある種崎海岸でひとり結核療養していたのだが、その日の朝起きてから夜寝るまでの淡々とした情景を綴った日記である。筆者の知るかぎり、夏子に関する残された資料はおそらくこれ以外にはなく貴重な資料である。(拙書・第4章「高知がえりと夏子の日記」)

 ところで、この記事を掲載した第4号は「しがらみ草紙」(森鴎外などが発行していた文芸評論誌)と合冊にして製本され、地下書庫二階の一番奥まった阿部文庫の書架にあった。いまから120年も前の古書と云ってもよい書籍だが、なんと借り出すことができたのである。おかげで、何カ月もの間折々に自宅でくつろぎながらゆっくりとページをめくる、という贅沢な時間を過ごすことができた。

 さてこの文庫に冠されている「阿部」とは、法文学科の美学講座を担当していた阿部次郎のことで、当時のベストセラー「三太郎の日記」の著者、漱石の弟子でもあった人物だ。この文庫は書架5レーン分を占有し、〆て5~6千冊もの書籍がびっしり並んでいる。

 阿部文庫のまわりには東北大学ゆかりの学者の旧蔵書を保管している文庫が多数あり、そのうちのひとつに「小宮文庫」なるものもある。「漱石神社の神主」と云われるほど漱石を崇拝していた小宮豊隆の寄贈書だ。かれはドイツ文学講座を担当していたが、よく知られているように寺田寅彦とは終生の友人でもあった。また、終戦の一年前、図書館長の職にあったときに、鏡子夫人から漱石の蔵書等を一括して仙台で保管することを取り付けたことでも有名だ。現在3千点以上もの資料が保管されている。新宿にあった漱石山房が空襲で焼失したことを考えると、小宮の功績ははなはだ大きかったとも云えよう。

 ところでこの図書館は別館(2号館)へと通じているが、その1-2階が製本された雑誌類、3-4階が漱石文庫、狩野文庫、ケーベル文庫など、いわゆる貴重文庫を保管している(国宝級の資料のほか、世界的に第1級の資料と云われているブント文庫などドイツを中心とする文庫など)。もちろんこれらの貴重本を保存している書庫には立ち入ることはできないのだが、あるとき「ほとゝぎす」を探しに行ったときの体験を記しておこう。

 4階で手続きを済ませたあと、こじんまりとした閲覧室に案内された。しばらくして所望の雑誌を運んできた担当の館員から 楔(くさび)型の切り込みがはいった木製の書見台を渡されたのである。見開き角度が120度くらいか、それ以上には拡がらないようになっている。それゆえ、コピー機にかけるなんてことはご法度、ただ写真はご自由にということだった。これにはいささか驚いたが、利用者にとってはこの上なくありがたく幾葉かの写真に収めた。

 そうこうしているうちに、少し離れた机で和服を召したご婦人が熱心にメモをとっている姿に接したのである。一見して女流作家のような雰囲気を感じたが、なにかの資料をもとめてここまで足をはこび、この2号館の4階で資料と向き合っていたのであろう。プロの作家とか随筆家という人たちはたぶん、密かにこういう場所で資料を発掘したり、時代考証に使える資料を探したり、あるいは何かのウラをとったり、そういう「緻密なフィールドワーク」とでもいうべき作業をしているのか、とはたはた感心した次第である。

 さて、図書館の本のうち大学所管の貴重図書にまつわる、ささやかなふたつの体験を記した。最後に、じつはこれがもっとも云いたいことなのだが、紙の本、とくに今回紹介したような本やそれを保管している地下書庫に漂うあのすこしカビ臭い「匂い」、古書の匂い、が小生にとってはなんとも云えない。何年、いや何十年と開かれることのなかった本が放つその香りは長い年月をへて変質した紙とインクによるものであろうが、まるで長い間樽で醸されたブランディが眠りから覚めて放つ芳香のようだ。さらに、そこにもとの所有者が引いた傍線や走書きなどがあれば、その内容はわからずともなにか先人とコンタクトをもてた気にもなってくる。
 地下という、物音ひとつしない薄暗い閉鎖空間で、たった独り本と向き合う時間がもてること、これこそが私にとって、図書館でしか味わえない、そして紙でしか味わえない無上の楽しみであり贅沢な時間でもある。

参考までに
1.漱石ファンには見逃せない「漱石文庫」のデジタルコレクションはネットで一般公開され自由に閲覧できるようになっている。
2.狩野文庫(10万点以上)もかなりデジタル化が進んできているようだ。一般公開に向けた作業に今後も期待したい。
3.大学関係者でなくとも当館を利用することは可能である。詳しくは案内まで。各地にある大学の図書館も同様であろうと想像するが、興味のあるご仁は適宜連絡されてはどうだろうか。

 

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