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倉庫としての場所 (スーパーと古本屋)

「近所のスーパーは倉庫だった」 と幼なじみの料理人は言った。

 先日、田舎に帰省した時、幼なじみに会ってきた。というよりも近所のスーパーが数年前に店舗閉鎖してしまって、食料が手に入らずに困った僕は、料理人である彼に何か食べさせて欲しいとせがみに行ったわけだ。

 幼なじみの友人に電話すると、彼はいつもの陽気な声で
「おおっ、ちょうど昼のお客さんが帰ったところで仕込みしてるだけだから来いよ。そうだなぁ、おでんどうよ。温めておくよ。」
と涙ものの神対応。

 歩いて数分の彼のお店に行き、厨房へ回る。彼は何かのお魚を捌いていた。
「ご飯は好きなだけ盛りな」
と言って、大きなお碗には熱々のおでんをたくさん盛り付けてくれた。そういう彼も昼のお客さんの対応に追われて昼飯がまだだったらしく、まかない飯のおでんを一緒に食べることになった。

「実家に帰省しても誰もいない空き家だろ。食べるものはあそこの角のスーパーが重宝してたけど、閉店しちゃってからは帰省するたびに本当に食糧難民みたいだよ」
という僕。

「そうそう、俺もあそこのスーパーが閉店しちゃってから不便でさ。うちの店から目と鼻の先だからさ、俺なんてあのスーパーが倉庫や冷蔵庫がわりの感覚でいたから不便になったものだよ」
と彼は言った。

 彼のこの話を聞いて、面白いなぁと感じた。
歩いて1分もかからないスーパーに買いに行けるのだから、卵や小麦粉や雑貨なんてものが急に入り用になった時には、つっかけを履いて買いに行けばいいのだ。

僕にとっては、「BOOKOFF」が書斎の延長線上にある。

 幼なじみの料理人の話を聞いて思ったのは、本好きな僕にとっては、ブックオフが書斎の本棚代わりみたいなものだなぁということ。歩いてとはいかないまでも自動車で十数分のところにある古本屋大手チェーンが僕にとっては自分の貸し倉庫 兼 書棚みたいな存在だ。

 月に数回、訪れる常連店の書棚を観察していると
「あぁ〜、この本は2年前に売った本だ。まだここに居るんだぁ」
「この本はまた読みたくなったので、また買ってみるか」
という具合に僕と縁が生まれた本の顔ぶれを見つけてたりして、なんだか一人で楽しんでいる。

 町の図書館も利用するけれど、公共の図書館から借りてくる本は当然ながら貸出期間があるので、どこかソワソワしてしまう。子供の頃は読みたい本を1冊か2冊借りてきて、読み終えると数日のうちに返すから図書館は都合がよかった。

 大人になってからの読書、特に最近の僕の読書スタイルは、気になるテーマについてキーワードとなる本を数冊から十数冊をまとめて囲っておき、数週間から数ヶ月をかけて読み飛ばしながら自分の興味に引っかかる考え方の断片を集める作業をする感じ。

必要なものを必要なだけ必要な時に取り出せる場所がある幸せ

 人間は所有することが一つの喜びにつながる場合もあると思う。一方で消費社会の中で何かをストックしておくことの限界や必要悪というのもあるのかもしれないし、普段の生活を身軽にしておくことは、精神衛生上に健全であったりするのかもしれない。

 ふだん当たり前の様にあるものが無いことに気がついたり、身近にあったものが手に入れられないことに気がつく時、人は現実をリアルに状況を認識できるのだろう。ものに限らずに、大切な人や縁ということにもあてはまるかもしれないけれど。

 兎にも角にも、実家がある街にかつてあったスーパーが消えてしまったという単純な事実は、なんとも不便この上なくて、寂しい気持ちがした。日本の現代社会が抱える事象として、これも一つの現れなんだろうなぁ、と感じた帰省中の出来事の一コマでした。

(おわり)

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