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わたしの嫌悪が誰かの憧れ

『過去形』は少しさみしい。
なんのことはない「ありがとうございました」なのに、終わってしまった気持ちになる。
その対象が終わったってだけなのに、全てが終わってしまったような。

だからわたしはいつも
「ありがとうございます」
と、次に続くように願いも込めて言う。

自分でもめんどくさいメンタルだと思う。


声が大きい人が必ずしも強いわけではない。
静かに黙々と淡々と続けられる人だって強い。

わたしはそのどちらでもないけれど。

それでも少しだけ鈍感になって、少しだけ図々しく、声を出せたらと思う。

『52ヘルツのくじら』でいい。
孤独でいい。
だけど誰かに届いてほしい。

いつまでも『察してちゃん』のままではダメなんだ。

自分の問題なのに、それを相手に委ねるのは、お子ちゃまだ。

もう少し『自分を主張』してもいいんじゃないか。


だから、歌を歌うのは、わたしにとってヒーリングのようなもので、上手いとか下手とかではなく、そういう『声』を出す練習でもある。

そこは間違えないようにしたい。
変な期待をしたり、変な夢を見ないように。

それでも、スタエフでコメントやギフトをいただけることが、ものすごく嬉しい。


わたしは男性が怖い。
過去のいじめられた経験や父親、祖父の暴力。
性的なトラウマ。

今でも大きい声や大きい動作にこわばってしまう。

元々わたしは、笑うと目がなくなっちゃうような笑い方だったみたいだけど、
それもいじめの対象になったし、暴力の的にもなった。

だから、目をなるべく開いて笑う練習をした。


今でもカメラを向けられるのは、いろんな意味で怖くて表情も強張ってしまう。

強張らなければ素敵な笑顔になれるのか、と言われたら、
美人でもないし可愛くもないから、なれないだろうと思う。

でもそれでも、自分らしさは取り戻したい。


父親からの暴力もだけれど、
祖父が酔った勢いで祖母を怒鳴りつけ、押し飛ばしたことが忘れられない。

だけど、祖父がわたしに「一緒に寝よう」と言ったとき、怖くて一緒に寝られなかったことも忘れられない。
それが最期になるなんて、子どもの頃は思ったもいなかった。


こんなだから、酔った勢いでのボディタッチや、顔が近い、手が近いというのは本当に恐怖でしかない。

だけどそれを相手に見せてしまうのは失礼だ。
その人には関係ないから。

だからうまくはぐらかしてきたつもりでいたけれど、
わたしのその態度が、相手に変な期待をさせてしまったり、
女性からはよく思われなかったりもして、本当に難しいなぁと思う。

だから普通でいられるようになりたい。
いつでも普通のわたしでいたい。


自分の顔やからだにコンプレックスがある。
わたしはいつも劣っていると思っている。

だけどそれを表に出してしまうと、傷つく人もいる。

たとえば、わたしは自分の胸が大きいことに嫌悪しかないけれど、それを欲しいと悩む人もいるんだ。

性的な嫌がらせの電話、痴漢、レ〇プ未遂。
セックスシンボルである胸は、わたしにとって嫌悪そのものだし、
そんな過去の経験が『モテる』につながるなんて思えないのだけど、そうじゃない人もいるんだね。

だけど、わたしの嫌悪と相手の欲しいもの、
どちらかが出してしまうと争いになってしまうから。

であれば、自分は出さないようにすればいい。

自慢ではなく、わたしにとっては嫌悪であっても、分かり合えないのはきっと変わらない。

わたしばっかり我慢…と思うこともあるけど、見返りを求めないくらい大きい心を持っていたい。

この年になっても、目立たない地味な服を着たりして自己防衛しないといけないなんて。
だけど、自分の胸を自分で見ることすらも気持ち悪くて。


そんな中でも。

『触られたくないところがある』
というのを知ってる人の触り方は優しいということを知った。

「触るね」
「ちょっと近づきますね」
と、声をかけてくれる人がいる。


わたしのことやトラウマを、責めるでもなく憐れむでもなく、

普通に「触れられたくないよね」ってほっといてくれたり。

そういう人に対して、わたしは心を開いていて、この人になら触られても大丈夫だと安心しているんだと思えた。



そんな普通なら聞き逃してしまうような、あたり前な言葉が、
わたしにとっては大切にされてる感覚になって泣きたくなる。


そして自分も人のからだに触れていると、
なんとなく、「ここ触れられたくないのかも」って心が見えるように感じるときがある。

だから自然とわたしも
「触っても大丈夫?」と聞いている。

それは、『わたしが経験して得たもの』のひとつなのかもしれない。

だけどこれって、
手技とか技術とか論理とかよりも、ずっとずっと大切な言葉なんじゃないかって、
気づけば自分もそう声掛けしてるんだ。


誰かが
『手は愛の象徴のようなもの』
と言っていたけど、わたしもそう思う。

だからわたしは、わたしの手を大切にしたい。


なんでもそうだけど、
手は癒やしにもなるけれど、凶器にもなるということも忘れないでいたい。

わたしは、細くて長い指に憧れたけど、
『マッサージをする癒やしの手』とタイで言われたことが嬉しくて。

太くて肉厚な、こんな手でも、いいんだと思えた。

結局はみんな、ないものねだりで。
もちろんわたしも。
それを相手にぶつけるかぶつけないかなんだ。

そして、『逆の発想』ができるか。
視野を広げられるか、見つけられるかが大事で、いつまでも『ないもの』ばかり見ていたら見えないものがある。


だけどそれでも時々思う。

細くて長い指じゃなくても美しい所作はできるのだろうか。

って。

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