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【エッセイ】 美味しいは、味覚ではなく感情。

 真剣に見た記憶こそないが、テレビで料理人が戦っている番組を目にしたことがある。
評価基準の中には「見た目」も含まれており、審査員の目の前に並べられる料理はどれもアートな風貌だった。

 確かに、料理というのは見た目が汚ければ食欲はそそらない。
味わう前に、目で楽しむという第一段階が存在しているからだ。
この「目で楽しむ」というのは、味よりも大事なものであると言える。

 プロでもなんでもない僕みたいな一般人からしたら、おしゃれなお皿の上に、おしゃれに盛り付けられた料理が出てきただけで「美味しい」と言ってしまうであろう確約がある。
こればっかりは仕方ない。実際に食べてみて美味しいものばかりだったからだ。


 だけど、料理を「目で楽しむ」のは"料理そのもの"しか見ていないのかもしれないと僕は思った。
きっとそれで良いのだろうけど、なんか本当に美味しい料理ってもうちょっと、こうなんというのか、辿り着くまでに色々とあって…こそが真の美味しい料理なのではないかな、と。


 例えば、料理が苦手な恋人が一所懸命、本やネットで調べたレシピを自分のために作ってくれた料理は、高級レストランに引けを取らないものになる。
味こそ、本場の料理人が作ったものに劣ることは間違いないけれども、心から美味しいと言えるものは前者。味覚で美味しいと言えるのは後者ではなかろうか。

 他には、キャンプで作り上げた簡単な飯は「美味い!」と叫びたくなる。
この感覚は、普段体験することのない空間で食べるからこそ得られるもので、外という開放感から来る喜びを思わず声で叫びそうになってしまうものだと思う。

 親の作った昔から慣れ親しんだ味噌汁やカレーの味は、久々に食べると心にジーンと切なく響かないだろうか。
少し味が濃くてしょっぱかったり、逆に薄い味であろうが、それが思い出の味となり自分の中に刻まれる。
久しく帰った実家で食べた時の「こんな味だったなぁ」という感動は、形容し難いものであると思うのだ。

 ある日突然、目覚めたかのように料理に没頭し出して、自分の中で作り上げた料理は最高に美味しかったりする。
それを食べながらハイボールをグイッと飲み込んだ時の「くぅー!」というあの楽しみを抱えて、仕事を乗り切ったりする。

 初めて恋人と作った思い出のオムライスがあったとして、
喧嘩別れしたときに食べていたのがそのオムライスであったら、そのオムライスには「嫌な思い出」がこびり付いて、なかなかどうして食べたいと思わなくなる。

 「美味しい」は、あくまでも味覚。つまりは"感覚"。
…いやいや、僕から言わせてもらえば「美味しい」は"感情"だ。
そう考えると「美味しい」という表現には色々なパターンが隠れていて、面白い。

 そして全て、食べる前に目で見ている。
その"目で見ている"というのは、料理のことでは無く、料理が作られるまでに起こった事象。
この事象があってこそ、美味しい料理が出来上がっていくのだと思う。

 さて、そろそろバレンタインデーだ。
普段、何気なく受け取っているバレンタイン菓子。
義理であろうがなかろうが、友チョコであろうがなかろうが、口に含んだ時に感じる甘さは、相手のことを考えるとちょっぴり美味しさ(=嬉しさ)が増したりするかもしれないよ。

 作る側には、作る側のストーリーがあって、美味しい料理というものは出来上がっていると考えている。



我が家のにゃんこへ献上いたします。