キメラのいた系譜 第三部 3
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それが起こった当時、彼はまだ小学六年生だったが、あの最も親しかった友人に関する出来事で、彼が老衰で死ぬ間際になってもはっきりと覚えていた事件がある。彼と友人が生死をかけた決闘をするのはそれから僅か二年半後のことだったが、小学六年生の頃の彼らは、まだ互いに親友と言ってもよい間柄だった。あの日、受験勉強に関して覚醒して以降、彼は大切な何かを失ったが、同時に勉強における苦悩は完全に消え去っていた。友人も同じような境地に達していたかどうかは分からなかったが、ともかく彼にとっては、学校は完全にただ友人と楽しむだけの場となっていた。授業ではその内容ではなく、前に立って教鞭をとっている教師の人間性について見極めるつもりで真剣に授業を聞いていた。休み時間には一切を忘れて、友人やクラスメイト達と共に狂ったように校庭を走り回っていた。ある春の日の昼休みに、それは起こった。クラスメイトの男子達が集まって、校庭の端の方でドッヂボールをしていた。この時代、全国の小学生男子達は皆ドッヂボールに取り憑かれていたと言っても過言ではない。ドッヂボールに強いものこそが華を得て、今後の人生を豊かにし、死ぬときも幸せの絶頂の中、安らかにあの世へ旅立つことが出来ると信じられていた。ボールには硬球と軟球があったが、男子の間では硬球が好まれていた。軟球は主に女子がバレーボールなどに使用したが、多くの男子の間では、軟球を使うことは軟弱さの象徴と捉えられていた。彼の通う小学校でも例外ではなかった。毎日昼休み開始の時間になるとクラス内で決められた一人の男子が、教室の後ろの籠に仕舞ってある、青地に白いラインの入った硬球を抱えて廊下へ飛び出していった。何人かの男子達も慌ててそれに続いた。彼らは校庭でドッヂボールを行うための場所取りへ走って行ったのだが、どんなに急いで行っても、絶好の場所が空いていることは稀だった。校庭の場所取りに関して、学年間の差別は厳しく取り締まられていた。高学年だからといって、既に場所を取っていた低学年をそこから追い出すなどという行為は教師陣からはもちろん、クラスメイトからも容赦ない批判にさらされた。被告に対しては、教師陣には知られざる、児童たち独自の密かな処罰として、給食の時間に余った牛乳を服にかけられたり、近所の自然公園にあった、異臭を放つ緑色の池に落とされたりした。その日の彼のクラスにおいても、昼休み開始のチャイムが鳴った途端に、ある一人の男子がボールを持って教室を飛び出していった。彼と彼の友人は、昼休みはバスケットゴールに向かってひたすらシュートを繰り返し、ゴールできた回数を競う遊びをすることが多かったが、時折気まぐれに、クラスの男子が集まるドッヂボールに参加することもあった。この日はドッヂボールに参加することにし、二人は校庭へ向かったのだが、他の学年の児童も入り乱れて走り回る人いっぱいの校庭に出ても、なかなかクラスの連中を見つけることが出来なかった。絶好の場所である校庭のど真ん中では低学年の男子たち、おそらく小学三年生の男子たちがドッヂボールをプレーしていた。しばらくうろうろしていてようやくクラスの連中を見つけたが、彼のクラスメイト達はすぐそばにブランコや雲梯などの遊具が立ち並ぶ、校庭の中でも一番端の方の、「そこでプレーするくらいなら、熱した鉄板の上でやったほうがまだましだ」とまで言われるような、最悪の場所で狂ったようにドッヂボールに興じていた。彼と彼の友人と同じタイミングで、別の二人組もゲームに途中参加することになり、彼と友人は同じチームに参加することになった。コートの中を駆け回り、凶悪なスピードで飛び交うボールを避け続けていると、やがて緊張からくる異常な汗が脇の下から噴き出し、健康的というよりも、どちらかというと麻薬的な興奮に頭がくらくらし始めた。偶然手にしたボールを敵陣の方へ投げつけた。ボールを構えたその瞬間から予感はあった、得てして上手くいくときには大体そういう感覚があるものだが、彼の投げたボールは見事に敵陣にいたクラスメイトの右足に直撃した、その瞬間に、麻薬的な興奮が彼の後頭部をぞわっと駆け巡った。しかし別の敵がすぐに反撃に出た。転がっていたボールを取り上げると、彼へ向かって恐ろしい球を投げつけた。彼はひらりと身をかわしたが、後ろにいた彼の友人の腹に直撃した。当たった瞬間に「うっ」と苦しげに呻いたが、それからすぐ悔しそうに「ちっ」と舌打ちをして向こう側の外野へ走って行った。彼はそれからも小癪にボールを避け続けた。勝ち負けに対するこだわり以上に、彼は硬いボールが体に当たるときの痛みを恐怖した、どうしても積極的なプレーヤーにはなり得なかった。その時点で必然的にチームメイトからの評価も頭打ちになっていたが、しかし彼の投げるボールには、「決して侮れない」という何とも言えない不思議な定評があった。また同時にボールの避けの技術に関しては、数十年前にヒットしたハリウッド映画において、その映画の主人公が作中で披露した弾丸避けのアクションに由来する、「ネオ」という異名を得ていた。いつの間にか彼も、ドッヂボールの生み出す狂ったような雰囲気に完全に取り込まれていた。一個のボールが、まるで三個はあるように見えるほど激しく行き交っていた、勢い余ってボールがコートを外れて、遊具の傍まで転がっていってしまった。外野にいた彼の友人が走ってそれを追いかけていったのだが、そのとき、なんとも不思議なことが起こった。彼が見たのは、遊具の方へ向かって走っていたはずの友人が、いつの間にか体をくの字に折り曲げて宙に浮いている様子だった。友人は何かの力によって元来たコートの方に吹っ飛ばされていた。彼には、その友人の吹っ飛んでいる様子がスローモーションのように見えていた。敵の陣地のど真ん中まで吹っ飛ばされ、友人が背中から地面に落ちたとき、ようやく時間が正常に動き出した。「ブランコだ!」と誰かが叫んだ。
「ブランコだ! ブランコに吹っ飛ばされた!」
彼はドッヂボールに熱中していたせいでその瞬間を見逃したが、どうやら彼の友人は、少女たちが遊ぶブランコの下に転がっていったボールを取ろうとして屈みこんだ、そのとき、兎のように全身のばねを利用して勢いよく立ち漕ぎをしていた少女のブランコを腹にまともに食らって、五メートルほど吹っ飛ばされたらしかった。それを聞いて彼は愕然とした。彼には、友人がそんな愚かな失敗をするとは思えなかった。目の前で少女が漕いでいるブランコに気付かないはずはないだろう、そして気付いたのなら、その勢いよく動いているブランコの下に潜り込もうとするような危険なまねはしないはずだ、それくらいの判断が出来ないほど、あいつは馬鹿ではないはずだ――しかし現実に、友人は敵の陣地に転がったまま腹を抱え、見たことのない奇妙な形に表情を歪めながら、苦しげに唸り続けていた。ドッヂボールは中断され、男子たちは、地面に転がる彼の友人の周りにわらわらと集まった。ブランコの少女たちは天に届くほどの勢いで未だ立ち漕ぎを続けていたが、呆然とした様子で、その視線は地面に転がる男子に釘付けになっていた。周りに集まっていた男子の一人が、「大丈夫か?」と心配そうに呼びかけた。しかし、彼の友人には答える余裕すらないようだった。まるでジャガイモの芽を食べたときのように腹を抱え、苦しそうに唸り続けるだけだった。代表の二人が彼の友人の肩をそれぞれ左右で支えて、半ば引き摺るように保健室へ連れて行った。友人と最も親しい仲だったはずの彼はそれに付き添うこともせず、それどころか、苦しむ友人に一つも声を掛けることもしなかった。「再開しようぜ!」と突然誰かが言った。後から考えればこれもなかなか信じ難いことだったが、そのまま白熱のドッヂボールが再開された。ブランコの少女たちも、驚きの見世物が終わった後のように正気に戻って、前を向いて純粋にブランコを楽しみ始めた。彼も、親友の苦しむ様子などは跡形もなく頭から消えてしまって、再び熱いゲームに身を投じた。友人のことは微塵も心配していなかった。確かにとても苦しんでいるようだったが、あいつも緑色の尿を排出する人間、キメラと呼ばれる特別な人間なのだから、あの程度のことで大怪我をしたり、ましてや、命を落としたりすることなどありえないだろうと考えていた。友人を保健室へ連れて行った二人も、別に深刻に何かを思う様子なども全くなく走ってコートまで戻ってきて、何事も無かったかのようにそれぞれチームに復帰した。結局その昼休みは、彼の友人を除いて全員が、ドッヂボールに大いに熱中した。時間いっぱいまでボールを狂ったように投げ続け、録音のチャイムが鳴り響く中、ようやく教室へ駆け戻っていった。
五時間目の授業を開始するとき、担任教師が、彼の友人がいないことに気が付いた。周りの生徒に事情を聴くと、教師は目を丸くして叫んだ。
「なんてこと!」
その鬼気迫る教師の叫びを聞き、彼は再び愕然とした。教師はクラス全体に向かって叫び続けた。
「彼は心臓が弱いのよ! そんな強い衝撃を食らってしまって、何かあったらどうするの? そんなひどい事件が起こったのなら、まずはすぐに、担任の私へ報告するべきでしょう! 保健室へ連れて行くのもそうだけれども、それと同時に、すぐに担任の私へ報せるべきでしょう! 私が担任として、彼の親御さんに事態を連絡しなければならないのだから――」
教師は目を丸くしたまま、怒りよりも驚きが勝っている様子で説教を続けた。最後の方にちらと彼の方へ目を向け、思わず呆れたように言った。
「――仲がいい人もその場にいただろうけど――その人が、親しい友人として当たり前の、そういう正しい判断が出来なかったことは、正直とても驚いています」
教師は彼を名指して説教していたわけでなかったが、明らかにその言葉は彼を意識したものだった。しかし、教師の説教を受けても彼は、恥ずかしさに顔を赤らめたりはしなかった。むしろ何とも言えない不思議な感覚に囚われ、今までにないほどに困惑していた。すぐに担任教師に事を報告しようなどという発想は、正直あの時の彼には全く思い付かなかった。また説教を受けているその時も、そんな発想が思い浮かばなかったのは自然なことだったと、自身でも不思議なほどに頑なに信じ切っていた。おそらく他の、一緒にドッヂボールをしていた連中も同じ気持ちのはずだった。やはり彼らは未だに信じることができなかった。普段から勉強のできるあいつ、クラスでも一、二を争うほどに優秀なあいつが、まさか少女の立ち漕ぎするブランコに自ら突っ込んで吹っ飛ばされるとは――最も親しい友人として彼は、心配するどころか、むしろ軽い怒りすら覚えていた。
「まったく、見損なったよ」
彼は授業中、誰にも聞こえないようにそっと呟いた。
「そこまで馬鹿な奴だったとは、思ってもみなかったよ」
その日、学校にいる間に救急車のサイレンは聞こえてこなかったはずだが、どうやら彼の友人はあの後すぐ、病院に連れていかれたらしいという噂が流れた。翌日、彼の友人は学校を休んだ。それでも彼はまだ心配はしなかった。決してくだらない意地を張っていたわけではなく、心の底から微塵も心配していなかったのだ。友人がただの人間ではない、キメラと呼ばれる、実は強靭な人間であるということを知っていた面も無くはないが、やはりそれ以上に、動いているブランコに向かって突っ込んでいった友人の、そのあまりの不注意さに対して呆れていることの方が大きかった。そのように呆れる気持ちと、友人の体の安否を心配する気持ちに関して本来であればそれとこれとは話が別であるはずが、しかし彼にとっては、残酷にもその二つは大きく関連していたということだった。実際、その次の日も友人は学校を休んだが、別のクラスメイトと帰り道を共にしている最中に彼は、クラスメイトに向かって笑いながらこう言ったほどだった。
「ホント馬鹿だよな、あいつは」
そう言いながら道端に転がっていた小石を蹴って、彼は続けた。
「あそこまで不注意な奴は、別に今回のことが無くたって、いずれ近々に変な死に方をするに違いないよ」
友人が学校に来ない間、彼は事あるごとにそういう軽い冗談を言って、他の友人たちの笑いを取っていた。それに関しても彼は全く悪い気はしていなかった。いい加減その冗談も飽きてきた頃、事が起こってからちょうど一週間後に、ようやく友人が学校に戻ってきた。まるで何事も無かったかのように、別に以前より痩せているということもなく、朝の予鈴が鳴る直前にひょっこりと、薄汚れた黒いランドセルを背負って薄ら笑いを浮かべながら教室に入ってきた。
二十歳を過ぎた頃には、すでに彼の中では記憶が曖昧になっていたのだが、彼と彼の友人が仲違いをしだしたのはこの頃のことのはずだった。正確には彼が友人に、一方的に避けられるようになっていた。当時の彼には心当たりが全く無かった。友人が休んでいる間にろくに心配もせず、それどころか友人のあまりの不注意さを馬鹿にしてさえいたが、たとえそのことが本人に知られたとしても、別に大して機嫌を悪くされることもないだろうと考えていた。親しき中にも礼儀ありというが、自分たちの間では、互いの生命に関わるような最低限の礼儀だけで十分だと考えていた。それほどに彼と彼の友人は仲が良かったはずだった。しかしいつの間にか、全てはあっさりと崩壊していた。ある日の下校途中に何とかタイミングを得て、自分で自分を情けなく思う気持ちに耐えながら友人に聞いてみた。
「どうして最近避けるんだよ」
「知らないよ」と友人は、顔も合わせずに素っ気なく答えた。
「知らないわけないだろ、お前自身のことなんだから」と彼は食い下がった。「お前が休んでいる間に、散々馬鹿にしたのを怒っているのか?」
しかし、友人はやはり、「別にそれに関しちゃ怒ってないよ」と答えた。
「俺があのとき、馬鹿をしたのは本当だからね」
「じゃあ何を怒ってるんだよ」
「怒ってるわけじゃないんだよ」
友人は、老人のするような微笑を浮かべて言った。
「ただ少し、色々な事情が分かってしまっただけさ」
そう言って友人は足早に去って行ってしまった。彼には何のことだかさっぱり分からなかった。彼としては、友人が怒りを超えた、友情を回復する上ではもう取り返しのつかないような感情を抱いていると結論付けるしかなかった。彼は諦めて、他のクラスメイトとつるむようになった。共通の知人を通し、彼の元友人の様子も時折小耳に挟むことはあったが、それ以上のことは何もなかった。今までずっと仲の良かった二人が突然仲違いをするようになり、彼と彼の元友人の周りのクラスメイト達も、やはり心配よりもどちらかというと好奇的な関心を寄せていたが、さすがに二人を気遣って、直接的に事情を聞こうとするものは滅多にいなかった。それでも時折それらしい雰囲気になり、「そういえば――」と自然な形で事情を聞かれることもあった。しかし、当人の彼にも何と答えればよいのか分からなかった。「人間関係なんて、そんなものだよ」と意味ありげなふうを装って、適当なことを答えるしかなかった。
「俺もあいつも、結局は互いを利用していたに過ぎないのさ」
そんな調子が三ヶ月続き、そのまま小学六年生の夏休みに突入した。中学受験の本番を半年後に控えた彼らはほぼ毎日、朝早くから夜遅くまで、むず痒いような空気の張りつめる塾の教室に閉じこもり、勉強をすることになった。勉強をする機械となり果てていた彼にとっては苦痛でも何でもなかった。午前の授業を終えるとすぐにカバンから母親の作った弁当を取り出し、誰とも話さずに一人で黙々と食べた。昼食を終えても、トイレに行く以外は席を立たず、前の席の二人が、片方が所有しているipodのゲームを交代でプレイしているのを、本人らの了解も得ずに後ろからじっと見つめていた。彼にとって勉強は苦痛ではなかったが、さすがに一日中塾の同じ教室に閉じこもっているのはいくら感じる心を失った彼にとっても、どうしようもなく拷問じみていた。彼は授業中、ちらちらと時計を見る癖がついた。あと三時間で終わる――あと二時間で終わる――あと一時間で終わる――あと三十分で終わる――あと十分で終わるという頃には、毎回彼は静かな喜びに浸っていた。別にその後に何か楽しみがあるわけではなかった。強いて何かあるとすれば、すっかり暗くなった帰り道を、夏の夜風を感じながらゆっくりと歩き、今までの小学生生活の間に過ぎ去った、わずか五年半の歳月をしみじみと思い出すことぐらいだった。彼の通う塾は、彼の自宅の最寄り駅の、その隣の駅から歩いて五分の、焦がしたピーナッツの臭いを放つねずみ色の川沿いにあった。自宅から最寄り駅までは市営バスに乗って十五分ほどかかった。彼が帰りに自宅最寄りのバス停に降りる頃には、いつも大体午後八時を過ぎていた。同じくそこでバスを降りる乗客は全員が会社帰りの、スーツ姿の中年だった。その全員が全く同じような、影の中に沈んだような暗い表情をしていることは、彼にとっては不気味でしょうがなかった。実際、そこには時々彼の父親が混じっていたが、彼がそのことに気付くことは一度もなかった。ある夜、彼は普段通りバスを降り、残り半年の小学生生活に対して思い巡らせながら、自宅へ向かって暗い道を歩いていた。突然、後ろからとんとんと肩を叩かれた。驚いて振り返ると、そこにはやはり暗い影を顔に落とした、見知らぬスーツ姿の男が二人立っていた。片方は背が高く、もう片方はそれに比べて小さかったが、小学生の彼にとってはどちらも見上げるほどに大きかった。小さい方に顔を覗き込まれ、「――くんだね?」と名前を確認された。思わず頷きかけたが、彼は慌てて困ったように首を傾げてごまかした。自分はまだ小学生のはずだと慌てて思い返しながら、暗い夜に見知らぬ大人に突然声を掛けられた場合の、子供としての対処法を思い出そうとした。しかし、急な出来事ですぐには思い出すことが出来なかった。時間稼ぎのために、「失礼ですが、あなた方はどちら様です?」と礼儀正しく聞いた。すると小さい方が、顔の全体をほとんど動かさないまま、静かにこう言った。
「将来的には君の味方か、もしくは敵になる者だよ」
「それはそうでしょうね」と彼は、とりあえず相手に不敵な印象を与えようとして笑顔になりながら言った。もう少し時間を稼ぐ必要があった。
「ご用件は何でしょう」
「簡単な用ですよ」と大きい方が言った。
「つまりは我々が君の敵になるか、それとも味方になるかについては、すべて君次第ということです」
それを聞いて彼はようやく落ち着きを取り戻した。「それは困ったお話ですね」と冷静に答えた。
「あまり事を荒げたくないのですが――僕はここで大声を出して、周りの大人に助けを求めることも出来るんですよ?」
「そうしたいと思うのなら、そうすればいい」と、小さい方の大人も負けず劣らず冷静に答えた。
「ただそうして我々を撃退しても、すぐにまた次の者がやって来るでしょう」
彼は思いっきり息を吸い込み、近所中に響くほどの叫び声を上げる準備をした。一分間は途切れず叫び続けられるよう腹いっぱいに息を溜め込み、まさに大声を出そうとした、そのときだった。誰かが安心する声で呼びかけてきた。
「今帰りか」
彼の父親が暗闇からすぅと、二人の男の背後にいきなり現れた。父親の登場のおかげで途端に彼の胸には温かい安堵の波が広がった。しかし、奇妙な感覚は消えなかった。彼の父親の身長は高低二人の男の、ちょうど間あたりだった。まるで大中小の三兄弟がそろったようにも見えた。二人の男は慌てて振り返り、どちらかが、「あんた誰だ?」と素っ頓狂な声で聞いた。
「この子の父親だよ」と彼の父親は答えた。
「俺の息子に何か用でも?」
「敵になるか、それとも味方になるか、だってさ」と彼が代わりに答えた。それを聞いた父親は、目の前に立つ二人の男の目を交互に見つめながら、呆然とした様子で言った。
「まだ続けるつもりなのか、お前らは」
「もちろん、続けますよ」
大きい方が毅然とした態度で答えた。「勝てる戦に、挑まないわけにはいかないでしょう」
それを受けて彼の父親は、相手を憐れむように見つめながら、「勝てないよ」と言った。
「今までの過去を通して、君らには学ぶべきことがあるはずだ」
しかし、大きい方の男は声を上げて笑った。
「我々の側にも、新しい力を宿す子がいるんだ。素晴らしい戦力だよ――今までとはまるで状況が違うんだ」
「新しい力だと?」
彼の父親は眉間にしわを寄せた。「今更、何を寝惚けたことを言っているんだ?」
「本当のことだよ」と小さい方の男が、顔をにやつかせながら言った。
「あんたの化け物の力を受け継いだキメラさ。まぁまだ子供だけどな」
それを聞いて、彼の父親は強く言い返した。
「俺の息子ならともかく、俺と血の繋がりを持たないお前らが、万が一でも弟の力を受け継げるはずがない」
「お前の血を研究したんだよ」と小さい方が言った。
「その研究のおかげで、お前の息子と同じ、特別な力を持った子供を作り上げることが出来たんだ」
そして小さい方は、最後にこう付け加えた。
「キタハルの産んだ子供だよ」
息子の彼には意味が分からなかったが、しかしその言葉を聞いた、目の前にいた父親の肩の力が、ふっと抜けたようなのを見て取った。彼の父親は呆然と驚くのと、懐かしく思うのとが混ぜこぜになったような、複雑な表情を浮かべながら、「そうか――」と静かに呟いた。
「あいつの子供か」
「素晴らしい戦力だよ」と大きい方がもう一度言った。
「二十年前のお前より、はるかに優れた戦力になるだろう」
そうか、と彼の父親はまた呟いた。上の空になりながら、それでもはっきりとした口調で、「何にしろ、この子を君らの側に渡すことはあり得ないよ」と宣言した。
「この子は、私の息子なんだ」
最後にそう言うと、二人の男を押しのけた。息子の手をむんずと掴むと、そのまま二人の男を無視して家へ向かって足早に歩き出した。手を引かれながら息子の彼の腹にはまだ不安が渦巻いていたが、振り返って見てみると、二人の男は諦めた様子で、こちらに丸めた背中を向けながら、暗がりに溶け込むようにして去っていくところだった。彼は父親の方へ向き直り、「キタハルって誰なの?」と聞いた。
「父さんの、昔の友達さ」
父親はそれしか答えなかったが、それだけではないことは、そう言う本人の表情から明らかだった。しかし、それ以上聞いても何も教えてはくれないだろうと彼は直感した。代わりに、もっと自分に関わるようなことを質問した。
「僕も、何か特別な力を持っているの?」
父親は上の空のまま、「そんなことはないよ」と答えた。ただ、続けてこうも言った。
「いずれにしろしかるべき時が来たら、お前も全ての力を解放するんだよ」
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