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「砂浜」けっち

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Photo by Cean O. on unsplash

海といえば砂浜、砂浜といえば海。海と砂浜をたとえるならば長年生活をともにしている夫婦そのものだなと思います。

もちろん海のほうが砂浜よりも断然目立っています。夏といえば海! というフレーズは日本人のみならず海と接している国の市民たちは誰もがウンウンとうなづくことでしょう。一方で「夏といえば砂浜!」といっても、多くの人が目を丸くしてキョトンとすることでしょう。

ところが砂浜のない海なんて、いわゆる山の上の道路沿いから眺める海のようなもので、それはたしかに美しいかもしれないけれども遠すぎる存在でしかありません。やはり砂浜のうえで、場合によっては素足で海のなかに直接はいりこんでこそ、夏の海の魅力が全快になるというものです。

一方で、もしも海のない砂浜、つまり「砂地」だけだったら? そしたらそこは砂丘だったり砂漠ということになるでしょうが、魅力は激減するでしょう。日光で砂のひとつぶひとつぶが熱せられたようなジリジリする砂のそばに海がドーンと横たわっているからこそ、夏の海と砂は一体化して魅力的になるのであって、ただ見渡すかぎり砂しかなかったとしたら、きっと砂と太陽は我々にとっての苦痛の種になりそうです。

そんな砂浜について、僕は海にいけば砂浜は当たり前にあるものだと思っていました。でもちがうんですね。砂浜を我々がおもう砂浜として機能させるためには、行政が定期的に掃除をしたり、町の人たちが自分たちでボランティアを組織して砂浜を安心して歩けるようにチェックしているわけです。

なにもしらず「海と砂浜」を楽しんでいても、それはそれで海を楽しんでほしい、という町の人たちの狙いどおりなので問題はないのですが、やはり大人のたしなみとして、「大自然にみえる海とそこにあるだけにみえる砂浜」についても、それは誰かがいつも「準備してくれたもの」だと考えるクセをつけていけば、ありとあらゆる公共の場所は見えないところの善意や社会システムによって支えられているのだなあ、ということに気がつけるようになると思います。

僕はきょう「表浜海岸から始まる砂浜さいせいプロジェクト」のホームページをたまたまみつけてびっくりしたのです。「アカウミガメのさと浜を守ろう!」という目的のもと、表浜海岸の砂浜がそもそもどういう経緯で砂浜になって、いまはその砂浜の砂が減ってきていて海岸線がなくなるかもしれない状況にあること。そうすると沖合の生態系も変化して、砂浜で産卵するウミガメも生きていけなくなる……だからみんなでウミガメの里を守るために砂浜について勉強しよう! という志をもった活動をされている方々がいたのでした。

僕らが当たり前に思っている「夏といえば海、海へいって砂浜でバーベキュー」ということを可能にするためには、そもそも砂浜がないといけない。でもその砂浜は土砂の量が減ってきていて、砂浜を守ろうという意識をみんながもたないとなくなるかもしれないのです。砂浜ひとつとりあげても抱えている問題がたくさんあるみたいですから、世の中のあらゆる分野において「たくさんの問題」が起きているにちがいありません。それらすべてに反応し、運動に参加したりすることはやっぱりできそうにないのですが、せめて当たり前にあるものは当たり前ではなかった、という認識はもっていたいと思いました。


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