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執筆中 〜発達OTはドロドロの沼地〜

 こどもの作業療法に憧れながらも発達領域で働くことを諦めてしまうOTがいる。こどもと楽しく遊んでいたら、「遊んでばかりで甘やかしている」と受け取られたり、母親に親身に寄り添ったら、母親同志のグループ間抗争にまきこまれていったりなど、多くの場合、対応がわからなくなることがきっかけであるときく。そしてそうしたことは、教科書で学べることではない。
 事例3(架空)に、「こんなのやだ」と呟き涙を流した母親の話が出てくる。その背景には出産時のトラブルや高齢での出産、出生後の疾病など「私がこの子を健全に産めなかった」「私の育て方に問題があった」と心理的に落ち込んでいたり、そこに嫁姑問題が絡んでいたり、医療訴訟に発展するようなケースもあるかもしれない。わが子の行く先の見通しが持てないなかで、家族は作業療法室にやってくる。人間作業モデルでは、そのような背景をナラティヴスロープとして視覚的に表現される。
 脳性麻痺の運動療法で、医学的には最高の成果を生み出しても、そのことが正常化しない身体の焦点化につながり、無能感を育て、青年期になった時点でひきこもりになってしまった人もいる。また、幼少期は教育に合わず、ASDや、ADHDと診断されたが、大きくなって大活躍し診断さえも外れてしまったという人もいる。知能検査の数値の高さから、予後良好と思われていた人が、成人して無気力となり社会的な敗北状態から抜けられなくなっていることもある。幼少期に最善と予測され提供された教育や療育が、実は長い時間経過の後に再評価してみると、真逆の効果を生み出しているということは珍しいことではないのだ。発達領域ほど、予後予測が見事に外れる領域はない。発達領域における、作業療法の実践は、とても曖昧で蓋をあけてみないとわからない領域なのである。
 サイエンスとアートでは扱う命題の種類が異なるのだ。事例2(架空)では、OTは離床時間を増やすという命題に対して、生体力学的なアプローチで解決しつつも、患者が住職としての役割へ復帰することを支援している。量的データと質的データの両方をバランス良く扱うことでジレンマを解消した。サイエンスに偏り過ぎると作業療法が殺伐としたものになってしまうが、アートに偏り過ぎるといい加減になってしまう。OTは、医療の中でも、量的研究と質的研究という相矛盾するプロジェクトを同時に使い、作業療法の実践を通してジレンマを具体的に解消していく稀有な専門職であるといえる。

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