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三流漫画家・南Q太に直接人格否定された。もう私は読まない。さようなら南Q太

私はツイッタランドで戦争をしていた。でもこの記事を書いて終戦する。
自分の人格、思考を否定する加害行為を行われたので、自分の思考、人格を守るために一人相撲をしている。
東京都知事選への投票を理由も示さず強要されたことに腹を立ててる。

事の発端はこれだ。

私は中学生の頃にガロを知り、界隈の漫画を読むようになった。界隈だから全員好きなのではなく、読んでみて好きだと思う作家さんを読み続けてる。南Q太もその1人だった。
30年大切に読み続けてきた。
ツイッタランドの南Q太のアカウントも、結構前にフォローしている。

私は瞬時にこのように引用RTした。
私は南Q太が個人的に蓮舫を支持しようと、その思いを表現することも否定していない。ただ根拠も明示せず、ファンに思考を強要するのをやめてくれって言ってるのだ。
そしたら南Q太から、反応があった。

「多様性を実現する」と言っているから、蓮舫を支持する。と言ったその口で「君は俺の漫画のどこを読んでいるの??」と、私の思考の多様性を否定した。
ここに大きな矛盾があることにお気づきだろうか?

私はこの一言でぶち切れた。

「君は俺の漫画のどこを読んでいるの?」

南Q太の作品を読んでいれば、当然蓮舫支持になるはずだ、ならないのなら読者ではない、真に理解した読者とは言えない。
私の読書経験を真っ向から否定するものであり、作家本人に、差別された、人格否定された、侮辱された、と思った。今も思っている。

とすぐに返信したが、これ以後の回答はない。
南Q太はこの後もTwitterの更新をしているので、私を無視すると決めたと判断した。

やばい奴に絡んじゃったどうしよ?→ブロックしたり、投稿消したら余計騒ぐから、無視して放置しよう、ミュートして無視すればいいや。と判断したのだろう。

この後私は半日、悶々と自分が間違っているのか?考え続けた。

私は知名度のある作家さんが、政治的発言発言をする事を否とは思っていない、悪とも思っていない。むしろもっとどんどんして欲しい。政治的発言を世の中のタブーにして欲しくない。
どういう思考回路で、どういう考えを持っているのか?もっと表現して欲しい。

自分がこう思うということは自由だ。それを表現する事も自由だ。

ただ、その結論を強要するのをやめて欲しい。

芸術に触れ、何を思うかまで強要されるのなら、私がその芸術に触れる意味がない。
作品を読んで100人が100人全く同じことを思うのなら、私の思考は必要ない。
99人と少しでも違うことを思い、それを表現したら、それを否定され、人格否定される位なら、もうその芸術に触れなくていいと思う。
無駄に私の人格を傷つけたくない。
じゃあもう南Q太を今後読むのやめよう、と思う動機になるし、今まで大切にしてきた著作も、私の読書体験も、あの時感じた思いも全て間違ったものだった、否定された。作家本人に否定された。
そんな経験もうしたくない。

私は村上春樹を読み続けている読者であるが、村上春樹の歴史認識には同意しない。でも、村上春樹がどんな思想を表現しようと自由だし、それが悪いことだとも思わない。
でも、村上春樹は、その自分の歴史認識、価値観を読者に強要は決してしない。
僕はこう思うけど、あなたはどうですか?に留まっている。

村上春樹は、自分の作品を読んで何を思うかは自由だと言っている。何を感じるかは読者に委ねられている。
私が何を感じようか自由だと、私の思考を一読者として尊重してくれている。
村上春樹に直接言われたわけでもないけど、あなたはそう思うんだね、でも僕はこう思うよ、と言うと思う。
なぜそう思うか?
村上春樹は、過去、車の免許はいらない、と発言していた。でも、実際には免許を取り、作中で魅力的に車の運転をする描写をしている。それを読んだ読者が「あなたが車の免許取らないって言うから、それを支持して取らなかったのにどうしてくれるんですか?w」という、半ば当たり屋的、笑いの要素がある読者からのメールを無視せず、わざわざ取り上げて「申し訳ない、僕は不完全な人間で過去の自分の言葉に責任を持てなかった」と、真っ向から謝罪してるのだ。
この一件で、あー村上春樹って自分の言葉にちゃんと責任を持てる人なんだ、自分の言葉の持つ影響力を理解してる人なんだ、非があると思ったらそれを謝れる人なんだ、と思った。
そういう小さな事の積み重ねで、言っている事の一貫性がある。信頼できる、支持したいと思う。
だから、作家と読者としての信頼関係が成立しているから、村上春樹を支持し続ける根拠になっている。
「お前が免許取ろうが取るまいが自由じゃないか、自分の発言なんかに影響されず、好きにすりゃいいじゃないか、関係ないだろ」
とは、言わないのだ。村上春樹の発言を支持した人を無下に扱わない。影響を否定しない。そういう作家じゃないから支持できると判断する。

村上春樹がSNSをやっていて、
その根拠も明示せず、

「僕の読者なら当然〇〇を支持するよね?そうならないのなら僕の読者とは言えないよ。君は僕の作品の何を読んでいるの?」

と言われたら、私は村上春樹を読むのをやめるかもしれない。信頼関係が崩れたと思うと思う。
私が元々、〇〇を支持していようが、〇〇を支持していなかろうが、同じ結論になる。
根拠も明示せず、読者なら当たり前にそう思うはずだよね?と断定するのは奢りだ。
そんな風に読者を軽んじる言動をするのなら、もう村上春樹を読むのを辞めよう、影響を受けるのをやめようと思うと思う。

何かの芸術に触れ、こう感じろ、こう思え、と強要されたり、こういう思考・結論にならないのなら、読み解けてない、読者ではない、と作家本人が言うのなら、私が触れて何かを感じたり、考えたりすることを否定する人なんかに、影響を受けたくないと思う。

作家本人が、どういう思考を持とうが自由だし、その思考を表現するのは自由だ。
自分がこう思う、と、表現することはその人の自由だ。

でも、こう思いなさい、と、強要されるのは違うと思う。
作家が自分の作中で何を表現しようが自由であると同時に、読者だって、そこから何を感じるかは等しく自由だと思う。何を選択して読むか?は読者の自由だ。

「俺のフォロワーなら当然〇〇だよね?」

という発言を何度読み返しても、読者の想像力を否定した、読者を軽んじる発言にしか思えない。
この言葉が当たり前に受け入れられる層が自分の読者層だと思うなら、読者をバカにしている。

しかもその根拠の主張内容が「多様性の実現」であるのだ。

読者が女だろうと男だろうと、ゲイであろうと、ビアンであろうと、バイであろうと、アセクシャルであろうと、老人であろうと、若者であろうと、どんなバックグラウンドでもいいじゃないか。
作家がそれを差別するのか?

どんな宗教信仰してようと、どんな歴史認識であろうと、どんな思想・信念の持ち主だろうと、本を買って読んでいたら同じ読者だろ?
それこそが多様性なんじゃないのか?

作家が〇〇を支持しない結論になるのなら、自分の作品を理解できていないから、読者ではない、というのなら、それこそ多様性のない、レイシストじゃないか。

今回私は
「君は俺の漫画の何を読んでいるの??」
と、名指しで、直接的に否定されたのだ。
これが、私の人格否定以外のなんになる?

多様性の実現を支持すると主張した口で、私は人格否定されて、差別された。

そんな作家のいう「多様性の叶う理想郷」って一体なに?

読者をバカにするのもいい加減にしろ、と言いたい。

私は南Q太のTwitterの垢を見つけるまで、南Q太が男なのか女なのかも知らなかった。知らなくても作品を好きだと思った。
知ってなかったらいけないの?
好きだと思ったらいけないの?
読者にそんな条件付けるの?
南Q太が、実際に男だろうが、女だろうが、ゲイであろうが、ビアンであろうが、バイであろうが、アセクシャルであろうが、何歳だろうが、どうでもいい。
それで作品の価値も評価も変わらない。
それが多様性じゃないの?
私が中学生の頃から、感じてきた思いを否定して、人格否定して、それが長く支持して読んできた読者にすること?

村上春樹はジャズについて「多くの音源に触れることがジャズを知っているとうことじゃない。たった1枚でも繰り返し熱心に聞いていればジャズファンだ」という。きっと読者も同じように扱うと思う。村上春樹の作品群全てを繰り返し読んでいる人だけを読者としないだろう。例え実際に読んだのが1冊だけであろうと、それに触れて影響を受けた人を読者というのだろう。私はこの考えを支持する。
例えば私の無料のnoteを全部読んでくれた人だけが読者だとは思わない、1つの記事しか読んでなくても、そこから何か感じた人が読者だと思っている。それが私の記事に同意する結論にならなくても。

作家が生命削って作品うみだしてるの知ってるから、作品をリスペクトするんでしょ?作家をリスペクトするんでしょ?
0から1をした作家を大事に思うんでしょ?

作品をリスペクトして欲しいと思うなら、読者の事も同じようにリスペクトしろよ。
読者だって、生命削って、お金使って、時間使って、労力使って、作品と向き合ってるんじゃん。消費してるんじゃん。

お互い生命のやり取りをしてるから、芸術が人の胸を打ち、心を動かし、支持されたり、商業的に成り立つんでしょ?

長い間、漫画家として、作品で食べてきて、読者の事なんにもわかってないじゃん。
心の底からガッカリして、失望したよ。

作品を読んで、〇〇を支持しない人は読者じゃない。
作品を読んで、〇〇を支持する結論にならない人は、自分の作品を理解してない。
そうやって、作家が読者を選び、差別するなら、もう私はその作家の本読まないよ。
作家が読者を選び、感じ方を強要し、差別するのなら、〇〇を支持しない人には作品を提供しない、売らない、読むなというのなら、もう私に作品売ってくれなくていいよ。出禁でいいわ。

私が社会のマジョリティで困ってないから、多様性を否定してる?
は?
私なんて圧倒的マイノリティですけど?
誰が好き好んで精神障害者になりたいんですか?
好き好んでフルタイムで働けなくて、経済的に困りたいんですか?
産んだ子ども人質に取られて、民法上の権利侵害され続けてるのに、慰謝料請求したら、子どもの学費払わない、退学させる、子どもの進路違うものにする。って脅され続けて、戸籍上も自由になれなくて、調停で決まったこと私は守り続けてるのに、相手ははそれも履行されなくて、無視して軽視され続けて…。裁判やっても、消滅時効に阻まれて、かかった費用回収すらもできない条件飲まされて…。そんな経済状況なのに、戸籍上の夫に収入があるから、低所得者向けの給付金も受け取れない。

私が困ってないから、マジョリティだから、困ってないから、その発言が理解できないのではありません。
私は圧倒的マイノリティです。
でも、誰からも強く否定されたり、生きていけないように疎外されることなく、今の東京で生きています。
今の東京で、シングルでも、事実婚でも、結婚しても、子ども持つか持たないか自分で選択しても、同性カップルでも、別に生存を害する程までに不自由しません。
税制上優遇がある程度じゃないですか?
むしろ、マイノリティの私でも生存できるように社会に支援してもらってます。
というか、誰だってマイノリティだと思う。何かの部分がマジョリティであっても、 別の角度から見れば誰だってマイノリティの要素はある。
私だって全てがマイノリティなのではなく、ある部分ではマジョリティだ。例えば日本語を使えるということが、日本にいればマジョリティだ。

実際には経済的にも困ってます。色んな面で困ってるけど、こんな私にも国民皆保険制度により、医療が受けられて、障害者年金受給させていただいてるから、なんとか生活ができて、生きてる。
日本の社会保障制度がなかったら、私はもう生きていない。私の生命があるのは、日本がそれを実現してくれてるから、ですよ。
そして、こんな低所得者の私にも人権を尊重してくれて、他の人と同じく1票を投じる投票権があって、首長を選ぶ選択権がある。
私は日本に感謝してますよ。
日本という社会に感謝してますよ。
日本を作ってくれた人に感謝してますよ。
社会を支えてくれてる人達に感謝してますよ。
めちゃくちゃ感謝してる。
日本語ネイティブな事誇りに思ってます。
日本に生まれ、日本に国籍があることを誇りに思ってます。

今の日本の平和が、なぜ成り立ってるのか?
今の日本の社会保障制度が、なぜ成り立ってるのか?

多角的に見て、選挙に1票を投じたい。
だからそれを根拠も明示せず、強要しないでくれって言ってるだけなのに、なんで人格否定までされなきゃいけないんだよ。

黒人の人が、母国で当たり前に差別を受けて来て、日本に来て、ちゃんと個人として人に受け入れられる事を、日本って凄い、って、他の国と違って差別しないの凄いって、多くの人が言ってるの知らないんですか?
肌の色が違っても、黒くても白くても、それだけを根拠に差別するような人間の集まりじゃないですよ、日本は。

多様性を支持するという口で、人の人格否定する人のいう、多様性の叶う社会って一体なんなんですか?
既にあるものに目をくれないで、評価しないで、ちゃんと社会を認識できてるって言えるんですか?
多様性、既に実現してるじゃないですか?

私は、誰か偉い人が評価してるから、フォロワーが多いから、支持する、正しいとは思いません。
自分の目で見て、考えて、結論を出したいから、それを強要しないでくれ、自由にさせてくれって言ってるだけですよ。

出版で生きてるということは、配本制度の事も知ってるんですよね?
過去の国家の検閲を反省して、日本のどこにいても本という情報に偏りなく触れられるように考えられた制度の元、自分の作品が流通して、商業的利益が得られることを当然知ってるんですよね?
配本制度があるから、マイノリティの出版物でも、流通して、日本全国どこの本屋さんでも、決めた価格で読者が手にできること知ってるんですよね?

そういう歴史を鑑みずに、作家が読者に思考を制限するような言動をすることは、過去に行われた反省すべき国家の検閲とやってる事同じなんじゃないですか?
フォロワーなら当然〇〇支持だよね?という発言は、読者に対する脅迫です。
作家が作品を自由に表現できることが、当たり前では決してないんですよ。それが流通する事が当たり前じゃないんですよ。過去にその問題に向き合って来てくれてる人がいて、ISBNの制度と配本制度を作ってくれたからできてるって知ってて言ってるんですよね?ちゃんとそこまで考えられてますか?
私がnoteで好きなこと言えるのも、憲法という明文法で基本的人権が認められ、表現の自由を与えられ、社会によって通信環境を得られ、noteという場所を用意され、そこに自由な事を書いてもいいとされてるから、できてるって認識してますよ。凄く少数でも、私の書いたものなら読んでみようと思ってくれる人がいて、その人が日本語理解できて、成り立ってるんです。私は凄く少数でも、私の書いたものなら読み始めてみようか、と思ってくれる人を大事にします。どんなバックグラウンドの人かなんて関係ありません。たかだかnoteに書き始めて半年で、ゼロスタートで、それでも見つけてフォローしてくれる人がいて、誰かに届いてる。何かしら影響を与えてるって意識して、認識してますよ。それを当たり前の事じゃない、有り難い(あることをがむつかしい)ことだって思ってますよ。
どこの誰が書いてるかわからない、でもこの垢の記事ならとりあえず開いてみようかって思ってくれる人を大事にします。その人の思考を強要なんてしないし、付いてきてくれるのも、離れるのも自由、その人の選択だって思ってます。だから、無料の掃き溜めでも、せめて量だけでも裏切らないように、質の部分は分からないけど、タイトル詐欺にはならないようにテキスト用意しようって、私なりにこの垢大事にしてるんです。noteが潰れて消滅したら、この記事なくなるけど、ある限り自由に表現させてくれる場所だと思ってるから、noteで書いてるんです。それが当たり前だなんて思ったこと一度もありません。
この垢でアンチもしてますけど、アンチされた人がどれだけこの垢を苦々しく思ってるかも意識してます。私は自分の権利を侵害されたと、根拠を明示できることにしかアンチしてませんので。そして根拠を提示して、だから私は支持するに値しないって、表現してるから、無視しても残る。少数にしか支持されてない非力な表現者かもしれませんが、それなりの根拠で言ってるから、匿名の発信者でも、読んでくれる人が居ると思ってる。私なりの抵抗手段ですよ。
Twitterは表現を非表示にされたり、作為的な事が多いのも知ってる。でもnoteはそうじゃなく、私の言論を守ってくれると思うからnoteに書く。このテキストがインターネット上に、noteが潰れない限り、私が自分で消さないかぎり、残り続けるって意識してますよ。


村上春樹が、作品を通じて読者が何を感じようが、作家の範疇ではない、何を感じるかは自由。
でも、書いた村上春樹とも、同じ本を読む読者とも、地下2階で、あるいは火星の地下道で、あるいは枯れ井戸の底で、会いましょう。一緒に過ごしましょう。あなたと私は必ず繋がっている。と表現してくれていることが、どれだけ私の人生の支えになったか分かりますか?生きる救いになったかわかりますか?

向井秀徳がLIVEで、「直接話すのではなく、また皆さんこういう場所で会いましょう」と言ってくれる事が嬉しかったり「陰口叩いて溜飲を下げとる奴らや、徒党を組んで安心しとる奴らや、さりげなく行われる裏切りや、自意識過剰と自尊心の拡大や、気休めの言葉や、投げやりや、虚無や、孤独主義者のくだらんさや、繰り返される諸行無常や」という言葉どれだけ、私に気づきを与えてくれたか。向井秀徳は気づきを強要してないでしょう?結論を強要されてません。LIVEで「孤独主義者のくだらんさや」ってことをわざと最後に元々の原曲から歌詞変えるの聞いて、向井秀徳自身もきっと、くだらんと自分で言ってる孤独主義者に該当するって考えてるって示唆を受けて、「自分が自分であるっちゅーことに疑問をもとう、イッツアライクラ(それこそが)自問自答」って歌う。疑問をもとうって私に言っるんじゃないんですよ。向井秀徳は向井秀徳自身に向けてその言葉を放って表現するから、聴く人に響くんでしょう。

あのちゃんが「僕はLIVEが好きだから、僕はここで立って待ってる」「不誠実な人は淘汰されたらいいと思ってる」「あなたの絶対になってあげるね、それが僕の使命だから」「自分がやりたい事貫かないとこの世界でだってやっていけないんですよ!」って言ってくれることが、どれだけ精神を支えてくれてると思うのかわかりますか?

配信者の養分@伊藤がリスナー1人1人と向き合ってその上で自分の考えを話して、毎日配信の終わりに「お前ら今日もありがとうな、明日も来いよ、じゃあお疲れ様でした、今日もありがとう」って言ってくれるから、明日も起きよう、配信見るためにもう一日生きてみようって思うかわかりますか?「どうしても今回勝ちたいから投げてくれ」って言われて、160円1個しか投げられないけど、養分の収入60円にしかならないのに「1個でも投げてくれてありがとう」って配信で言ってくれることや、配信後に自分の手間と時間割いて、アプリのシステムで「ありがとう」ってわざわざメッセージくれる事がどれだけ嬉しいか分かりますか?私たちの配信者とリスナーとしての信頼関係わかりますか?

魚喃キリコが「(ストロベリーショートケイクスで、編集者に原稿なくされて)ちゃんと謝ってくれよ。謝ってくれるなら、幾らでも描いてやるよ」って書くことで、金銭的対価が得られることだけを動機に人が動くんじゃない。人間としての尊厳を守ってくれ、1人の人間として扱ってくれるなら、いくらでもそれに応えるよ、お金を払うから当たり前じゃないって表現してくれる事が「うつがなおっていく…」と作中で表現することが、同じ苦しみを魚喃キリコも感じながら、生きてる、私の苦しさは私だけのものじゃない、同じ人間なんだ、って思えることが、どれだけ心を支えてくれたかわかりますか?

最低限の衣食住以外は娯楽なんですよ。エンターテインメント。なくても生きていける。なのになぜ人は芸能に、芸術に触れようとするか?生存に不必要な娯楽にお金や時間や労力を使うのか?

生きていく支えになるからでしょ?
生きていくことを肯定して欲しいからでしょ?
辛い現実から、少しでも自分の心を支えて欲しいって思うからでしょ?
辛いと思う現実の中にも、なにか小さくても幸せを感じることができるはずだって気づかせてくれるからでしょ?

南Q太だって、読者にとって、そういう灯台のような存在でありたいと、生命削って作品残してるんじゃないんですか?
私はそう思って読み続けて来たのに、「君は俺の漫画の何読んできたの??」なんて、よく言えたもんですね。これを読んでも恥ずかしいと思わないのなら、自分の作品にはそんな価値はないですよ、って自分で宣言しちゃうってことですからね。

村上春樹は言ってました。ジャズバーの経営にあたって「10人のお客さんが来て10人全員に気に入られる必要はない、その中の1人に凄く気に入らたら商売は成立する」この言葉の逆を言えば「10人中の1人にも気に入らなければ、商売は成り立たない、10人中の10人全員に気に入らなければ商売は成立しない」って事ですよ。
私はこの基準を大事にしてます。100人と知り合って、好意を向けてくれるのはたった10人ですよ。でもその10人との人間関係は大事にしよう。相手の幸せになる行動を取ろう。良くして貰った分その人にも良くしよう、そしてそれ以上に他の良くしてくれた人にもペイフォワードしようって。社会のモラルとマナーを守って、言動をしよう、その10人との交流が、私が社会にペイフォワードする事が、回り回って私が直接的に関われない、私の1番大事な私の産んだ子に、社会がいい影響を与えてくれると。子が本当に困った時に助けてくれる人に巡り会うと。助けてくれる社会であると。必要な判断材料を提供してくれる社会であり続けてくれると信じてるんですよ。

そういう社会にするために選挙があって、投票権があって、それを自分で決めたい。意思決定したいって言ってるだけなのに、人格否定された。
あなたが誰を支持するか、それを否定したわけではないですよね?
根拠も示さず強要するのはやめてくれって言ってる。
自分の読者に何かを支持して欲しいと思うなら、こうこうこういう理由で、こういう所を評価していて、こういう根拠で実現できると思うから、自分を支持してくれるなら、その考えを知ってみて、考えてみて、できれば応援してください。じゃないですか?
なんで読者の思想を尊重する事ができないの?
選挙の応援演説に立つ人は、そうしてるでしょう?
自分の支持者なら当たり前だよね、って応援演説して誰が受け入れるんですか?
この人のこういう所を評価してるから、自分を支持してくれるなら、考えてみて欲しいって、意思決定は相手に委ねてますよ。

南Q太にとって、私は気に入らなかった方の9人だと思ってるですよね?
私は10人中の1人だと思って作品読んできたのに。
片思いだったんですね。
だからもう私は南Q太を離れます。支持しません。差別はしませんが、区別はします。三流の漫画家だったと区別します。読むに値しない。私の人生を、私の限りある時間もお金も労力も、使う必要がない、と区別します。

人は間違いを犯します。私も間違います。良く間違います。すぐ間違います。
でも間違いに気がついたら訴求的速やかに謝ります。
間違うのも人間なら、謝ることが出来るのも人間だと思います。
それができない人間にはなりたくない。
それが出来ない表現者を、私は支持しない。

私は今回の南Q太の言動の何が間違いだと思うか、分かるように丁寧に噛み砕いてTwitter上で表現して、1晩考える時間を設けました。
私自身も、自分がした発言に間違いがないか考えました。その上でこのnoteを纏めています。
それでも反応がないということは、私の気持ちは無視していいものと判断したとうこと。マイノリティの言うことなんか無視していい。1人の読者を大事にすることも出来ない作家なんだ。と判断しました。1人の読者と向き合うことも出来ないのに、多数に向き合えるんですね。
その支持するものが「多様性」?w
ダサい。

「想像力を最大限に働かせること、そしてその想像したことに責任を持つこと」
と村上春樹はいいました。
自分の言動がどんな影響を持つか、発する前に考えています。
発信力のない過疎だから、やってもいいじゃない。過疎の私であっても、表現する事に責任を持とうと思ってます。
このテキストを公開する事が誰かに与える影響を想像して、10人読んでくれて、そのうちの1人にその人の責任なく、深刻な悪影響になると思うものは公開してません。
私は他責思考の人間ではありません。
自分の発した内容に責任を持とうと心掛けています。無料の、過疎の、掃き溜めでも、誰かに与える影響を真剣に考えてます。
noteでインターネットで南Q太と検索したら、この記事が出るようになることを認識して公開します。
私の人格否定し、加害された事実を、私は許しません。読んだ10人全員が同意する訳ではないでしょう。でも自分の頭で考え、判断出来る層に、南Q太の作品を読む必要がないという判断材料になるように、このテキストを公開します。

私の思考は私だけのモノです。
自分の目でみて、考えて、判断します。
その為にできるだけ一次資料に触れ、正確な情報を正確な大きさで受け取って、正当に評価しようと考えてます。
だから誰かにそれをコントロールしようとされれば、私は私の方法で、徹底的に闘います。
何かを思った時、これは誰かのメリットの為に誰かに恣意的に操作されて思わされてるだけなんじゃないか?と常に自分を疑っています。その上で、判断を下してます。
満足な豚であるよりも、不満足な人間であろうとしています。
人格否定をされたら、私は私の方法で闘います。
それが、世の中の主流の考えと逆行するものであったとしても、私の思考は私だけのモノです。
情報の提供は受けても、意思決定を下すのは私です。私の人生の主人公は私で、他の誰のものでもありません。

ちなみになぜ南Q太と呼び捨てにしてるかの価値観についてはこちら↓↓↓の冒頭で公表してます。

それが失礼だと思う人は見てください。

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