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連載小説『ヒゲとナプキン』 #19

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 コズエの家を出てからしばらくあてもなく歩き回っていたイツキは、歩道橋の上でかじかんだ指先に息を吹きかけながら、都心部の大動脈ともいわれる幹線道路を見下ろしていた。ずいぶん先まで渋滞しているようで、さっきからずっと流れが滞っている。

 こんなとき、ドライバーは何を考えているのだろう。運転免許を持たないイツキには想像ができなかった。大学時代に教習所へ通っていたが、入れ替わり立ち替わり現れる教官が「君は男なの? それとも女?」とデリカシーのかけらもない質問を浴びせてくるのに嫌気がさして通うのをやめてしまった。あのとき我慢して通い続けていたら、もう少し自由に好きな旅が楽しめていたかもしれないと思うこともあった。

 ポケットのスマホが震えた気がして、ズボンのお尻から取り出した。コズエからのメッセージだった。

「今日はありがとう。また、おいで」

 短い文章に続いて、一枚の写真が送られてきた。そこには、目を真っ赤にしたイツキと無垢な表情でカメラを見つめるマコトが写っていた。赤ん坊を「天使のようだ」と表現する人々の気持ちが、初めて理解できた気がした。

 そこに、前日にサトカから送られてきたメッセージが重なった。

「子どもが欲しいの」

 ついさっきまでマコトを抱きかかえていたぬくもり。もみじのような小さな手のひらでイツキの指先をぎゅっと握っていた感触。サトカが求めているものの解像度が、格段に上がった気がした。

 こんなにも眩しい宝物を授かりたいと願うのは、人間としての本能なのではないかと思われた。彼女からその権利を奪うことは誰にもできないはずだった。それは、たとえ自分であっても、許されることではない。

 そうしてイツキは、サトカとは切り離れたところで、また別の感情が芽生えていることにも気がついていた。

 父親として、子どもを育てる——。

 当たり前のように人生から欠落していた選択肢に、初めて触れた気がした。もちろん、これまでだって考えたことがないわけではない。だが、その想いに向き合えば向き合うほど、誰かが嘲笑う声が聞こえてきた。その声の主が、自分だったりもした。その声に耳を塞ぎたくて、いつしか考えることをやめていた。

 だが、歩道橋の上で動かない車の列を眺めながら、イツキはぼんやりと自分が父親として子どもをあやす姿を想像していた。知らぬ間に顔がにやけていた自分に気がつき、耳たぶが熱くなった。だが、かつて聞こえていた自分を嘲笑う声は、不思議と聞こえてこなかった。

 イツキは再びスマホを取り出し、検索画面を表示させた。そこに気になる言葉の組み合わせを打ち込んでいく。

「トランス ftm 子ども」

 何年か前に、ある記事を読んだ気がしたのだ。トランスジェンダー、それも自分と同じ「肉体は女性だが、心は男性」という境遇の人が「パートナーと子育てを楽しんでいる」と笑顔を浮かべている写真をおぼろげながら記憶している。当時はまだサトカとも出会っておらず、「自分には関係のないこと」と読み飛ばしてしまっていた。いったい、あれはどういうことだったのだろう。

「トランスパパの幸せ」と題した記事はすぐに見つかった。一秒が惜しくてスマホの画面を連打する。そこには二組の事例が紹介されていた。どちらのカップルも、イツキと同じ「トランス男性」とサトカと同じ「シス女性」という組み合わせだった。

 一組目は、養子縁組という制度を利用して、親になったカップルの話。彼らは事情によりわが子を育てることができない実親から生まれたばかりの乳児を譲り受け、里親として子どもを育てていた。二組目は、第三者からの精子提供を受け、体外受精によって子どもを授かったカップルの話。トランス男性の実兄から精子提供を受けて、妻が妊娠・出産したとのことだった。

 イツキはスマホをポケットにねじ込むと、目を閉じて天を仰いだ。

 それぞれのカップルは、どんな希望を抱いてその道を選んだのだろう。その道を選んだことで、どんな苦悩や葛藤があったのだろう。そこに思いを馳せる余裕は、いまのイツキにはなかった。だが、記事で紹介されていた先人たちの幸せに満ちた笑顔は、目を閉じてからも鮮明に残っていた。

 イツキの脳裏に、マコトの無邪気な笑顔が浮かんだ。サトカの頬に伝う涙を思い浮かべた。イツキはもう一度スマホを取り出すと、震える指でメッセージを打ち込んだ。

「話したい。明日、会えないかな」

 スマホを閉じて、歩道橋の下を走る幹線道路に視線を落とす。いつしか長い渋滞が解消され、色とりどりの車体が軽快に流れていくのが見えた。


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