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村上春樹『職業としての小説家』に学ぶ論文の書き方


・こんな世の中なのでなかなか研究に向かう気力が起きないが、とりあえず「何か」を書き残して、執筆のリハビリをしたい。

・後輩が、院生室に村上春樹『職業としての小説家』を置いているのを見て、自分も積読していたのを開いてみた。

・「職業的研究者」、およびその卵である大学院生にも通じることが多く、刺激を受けたので、引用とメモを残しておく。


■「第6回 時間を味方につける――長編小説を書くこと」より

▶毎日決まった文字数を書く

長編小説を書く場合、一日に四百字詰原稿用紙にして、十枚見当で原稿を書いていくことをルールとしています。僕のマックの画面でいうと、だいたい二画面半ということになりますが、昔からの習慣で四百字詰で計算します。もっと書きたくても十枚くらいでやめておくし、今日は今ひとつ乗らないなと思っても、なんとかがんばって十枚は書きます。なぜなら長い仕事をするときには、規則性が大切な意味を持ってくるからです。書けるときは勢いでたくさん書いちゃう、書けないときは休むというのでは、規則性は生まれません。だからタイム・カードを押すみたいに、一日ほぼきっかり十枚書きます。(p. 141)
アイザック・ディネーセンは「私は希望もなく、絶望もなく、毎日ちょっとずつ書きます」と言っています。それと同じように、僕は毎日十枚の原稿を書きます。とても淡々と。(p. 142)

ポール・J・シルヴィア『できる研究者の論文生産術』をはじめとして、執筆法のマニュアルにはどれも「毎日書け」とある。この本もやはりそう。論文は毎日4,000字とはいかないだろうが。

「私は希望もなく、絶望もなく、毎日ちょっとずつ書きます」。良い言葉だ。絶望がないだけでなく、希望もないのがポイントなんだと思う。書くことに創造性とか社会的貢献とか、ステキな意味を込めては筆が止まってしまう。ただ単に、決めたから書く、というだけのほうがいいんだろう。


▶思いつくまま書き進める

第一稿を終えると、少し間をおいて一服してから(そのときによりますが、だいたい一週間くらい休みます)、第一回目の書き直しに入ります。僕の場合、頭からとにかく全部ごりごりと書き直します。ここではかなり大きく、全体に手を入れます。僕はそれがどれほど長い小説であれ、複雑な構成を持つ小説であれ、最初にプランを立てることなく、展開も結末もわからないまま、いきあたりばったり、思いつくままどんどん即興的に物語を進めていきます。その方が書いていて断然面白いからです。でもそういう書き方をしていると、結果的に矛盾する箇所、筋の通らない箇所がたくさん出てきます。登場人物の設定や性格が、途中でがらりと変わってしまったりもします。時間の設定が前後したりもします。そういう食い違った箇所をひとつひとつ調整し、筋の通った整合的な物語にしていかなくてはなりません。かなりの分量をそっくり削ったり、ある部分を膨らませたり、新しいエピソードをあちこちに付け加えたりします。(p 143)

千葉雅也先生が、レヴィ=ストロースの執筆法やアウトライナー術を下敷きに、「書かないで書く」執筆法を組み立てているのを、私も参考にしている。要するに、編集者としての自分をできるかぎり登場させずにまずは書ききり、その後に修正しまくる、というもの(詳しくは『メイキング・オブ・勉強の哲学』など)。

だが、小説でもそれができるとは思っていなかった。特に、「いま書きたいシーン」からではなく、頭から書けるなんて。

それから、少し間を置くのもポイントだろうな。ずっと同じものを目にしていると、面白いのか、合っているのか、自分では全然わからなくなってくる。間を置く期間も逆算して書かないといけないよな……。実際にうまくいった試しはない。


▶「何はともあれ書き直そうぜ」

「第三者導入」プロセスにおいて、僕にはひとつ個人的ルールがあります。それは「けちをつけられた部分があれば、何はともあれ書き直そうぜ」ということです。[…]方向性はともかく、腰を据えてその箇所を書き直し、それを読み直してみると、ほとんどの場合その部分が以前より改良されていることに気づきます。僕は思うのだけど、読んだ人がある部分について何かを指摘するとき、指摘の方向性はともかく、そこには何かしらの問題が含まれていることが多いようです。つまりその部分で小説の流れが、多かれ少なかれつっかえているということです。(pp. 147-8)
つまり大事なのは、書き直すという行為そのものなのです。(p. 151)

「全然納得のいかないコメントをもらったので、短くしろと言われたところは長く、長くしろと言われたところを短く書いてやったが、前の原稿より良くなった」というエピソードもあった。

この点は、特に独自性があって面白く読んだ。大学院生としては、「指導教員ですら間違ったアドバイスをしてくることが少なくないので、実は取捨選択して聞き流す勇気もまた重要なのだ」というアドバイスのほうがよく聞く気がする。まあ、小説家のほうが、論理や展開ではなく、テクストそのものにコメントを貰うから、直しやすいのかもしれない。


▶書くための固有のシステム

僕はそのような書き方を可能にしてくれる、自分なりの固有のシステムを、長い歳月をかけてこしらえ、僕なりに丁寧に注意深く整備し、大事に維持してきました。汚れを拭き、油を差し、錆びつかないように気を配ってきました。そしてそのことについては一人の作家として、ささやかではありますが誇りみたいなものを感じています。(p. 159)

「システム」……とうっとりした。単に「小説を書く」「論文を書く」と言われていることのなかにも、様々な作業と、その作業を取り囲む環境と、その環境に身を置く身体と……があり、それをうまく動かすためのコツを時間をかけて試行錯誤の末に会得し、また物質的にもメンテナンスしなければ、実はままならないのだということ。


■「第7回 どこまでも個人的でフィジカルな営み」より

▶朝に書く

朝早く起きて、毎日五時間から六時間、意識を集中して執筆します。それだけ必死になってものを考えると、脳が一種の過熱状態になり(文字通り頭皮が熱くなることもあります)、しばらくは頭がぼんやりしています。だから午後は昼寝をしたり、音楽を聴いたり、害のない本を読んだりします。そんな生活をしているとどうしても運動不足になりますから、毎日だいたい一時間は外に出て運動をします。そして翌日の仕事に備えます。来る日も来る日も、判で押したみたいに同じことを繰り返します。(p. 166)

執筆術を世に出す人って、全員朝に書いてるなあ……という確認。誰か一人くらい「朝は起きられないから夜書いた方が習慣にできるよ」と言ってくれる逆張りズムの持ち主はいないのか?

実際、たまーに朝のうちに執筆に向き合うと、訳がわからんくらい進捗が生まれてびっくりする。どういう仕組みなんだろうな。


▶煉瓦職人が煉瓦を積むみたいに

僕はその手の作業に関してはかなり我慢強い性格だと自分でも思っていますが、それでもときどきうんざりして、いやになってしまうことがあります。しかし巡りくる日々を一日また一日と、まるで煉瓦職人が煉瓦を積むみたいに、辛抱強く丁寧に積み重ねていくことによって、やがてある時点で「ああそうだ、なんといっても自分は作家なのだ」という実感を手にすることになります。そしてそういう実感を「善きもの」「祝賀するべきもの」として受け止めるようになります。(p. 167)

「私は希望もなく、絶望もなく、毎日ちょっとずつ書きます」の言い換えにかなり近いが、実は絶望もあり、しかし希望もある。


▶1時間のランニングか水泳

僕は専業作家になってからランニングを始め(走り始めたのは『羊をめぐる冒険』を書いていたときからです)、それから三十年以上にわたって、ほぼ毎日一時間程度ランニングをすることを、あるいは泳ぐことを生活習慣としてきました。(p. 171)

ランニングしてる人って何が楽しいんだよ、とずっと思っているのだが、村上春樹に言われると「村上春樹が言うんなら……」と思うから不思議だ。



本書は、「村上春樹が言うんなら……」の詰め合わせではあるが、それは、中身がなにかの焼き直しでしょーもない、ということを全く意味しない。むしろ、だからこそ良いのだと思う。

正しいアドバイスは「正しい」だけではなかなか受け止められない。村上春樹という「権威」。つまり、誰に「従属」するのかということ。誰の「命令」ならば(村上春樹は何度も、これは自分の考えにすぎずそのまま受け止めてもらう必要はないと書いているが)、ありがたく聞けるのか(聞いてしまえるのか)ということ。

別にミーハーである必要はなく、おのおのに「従属」してしまえる「権力」を選べばいい(実はいつの間にか選ばざるをえない)のだろうが。



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