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小説「本物」

本物

 俺は本物の人間ではない。彼の発言力や佇まいを見ていると、そう感じさせられてしまう。
 彼の名は秋元光一という。さわやかな笑顔と少しはねたくせっ毛が柔らかい印象を与え、ふるまいは常に洗練されている。その細い瞳は多くを映さないかのように見えて、大事な場面で細かいことにも気が付く。感情に素直かつ冷静で、おかしいと思ったことは積極的に発言してくれる。誰とでも仲良くできるため常に人が集まってくる。ああ、とても人間らしいではないか。
 コップの底に溜まったコーヒーは俺の顔を映せるほど残ってはいないが、その味は俺の隣に座る古臭いノートPCをいじくっている小太りの中年男性よりは、苦々しくなかった。中年男性のカタカタというキーボードの音だけが店内に響いている。平日の昼間のこの時間帯に喫茶店にやってくるのは、いつも俺とこの中年男性くらいだった。キーを叩く薬指には指輪がはめられていたが、その指輪も少し錆びついているようだった。せわしなく動き続ける指輪を見て、この男性もきっと数年前までは本物の人間だったに違いない、と思った。俺はしばらく、その中年男性の指輪をぼーっと見つめていた。
 秋元光一は職場の同僚だった。入ったのは秋元のほうが先だったため、厳密には先輩だが、年で言えばおそらく同期か少し下だ。あまり話したことはないので詳しくは知らないが、俺と家が近いらしく、どうやら通勤中の間抜けな顔で歩いている俺を何度か見かけているらしい。恥ずかしいのでやめてくれよ、そう言ったらそれ以上は追及してこなかったし、それ以来こちらから話しかけないようにしているが、秋元はどうやらそういった他人の感情面の部分においては愚鈍なようで、事あるごとに話しかけてきた。

「悠一さんは偉いですね、そういう仕事をやってくれるのは悠一さんだけですよ」
「悠一さんの分作っておいたので、食べていってください」
「悠一さん、お先に休憩入ります」

 俺は人間同士の雑談といったものが苦手で暇になるとどうしていいかわからないから、仕事を見つけては暇つぶしでやっているだけだ。職場の足を引っ張るような出来損ないの俺には、中央テーブルで女性と世間話で盛り上がるよりも、職場の隅で雑用係がちょうどいい。なのに秋元は人の輪を抜けてまで話しかけに来てくれる。最初はいい人だな、くらいにしか思ってなかったが、最近こいつは俺に何をさせたいんだろうかと疑ってかかるようになった。特に、休憩中の一言がずっと頭から離れないでいる。

「あの上司は絶対におかしい、人間じゃないっすよ」

 人間じゃない、という言葉にとても鋭利さを感じて、その場で何も言えないままの俺は苦笑した。コピー用紙は数十枚単位で無駄にするし、割った食器でおそらく月収が飛ぶし、毎月の売り上げも部署内でおそらくビリであろう俺よりも、毎日決まった時間に出勤して俺のやらかしのケツを拭き、部下達にあれこれ指示を出す上司のほうが人間じゃないのだろうか。そんなことはないだろう、と思っていると秋元は、
「謝ることが出来ない人なんですよ」
と、愚痴をこぼし始めた。どうやらまた社内でのもめ事に巻き込まれたようだった。人望があるというのも考えものだ、秋元のような人間はしっかりした人間は、特に頼りにされるだろう。
 コーヒーカップから手を放し、俺は席を立った。相変わらずせわしなく動き続ける指輪を背に、俺は店を出た。
 まっすぐ歩こう。まっすぐだ、そう自分に言い聞かせながら通りを直進した。通学帰りの女子中学生二人組みが向かいから歩いてきた。制服は紺色で、きっちりとしていて、楽しそうに談笑している様は俺の暗くよどんだ感情とは不釣り合いだった。すれ違う瞬間の笑い声が冷たく心に突き刺さるので、つい上体のバランスを崩しそうになった。まっすぐだ、真っすぐに歩けばいい。それだけで俺は人間になれる。
 女子中学生らは当たり前だが俺に声をかけることはなかった。あたりの木々が風に揺れてさわさわと音を立てる。ふと空を見上げるとよく晴れていて雲一つもなく、いつもスマートフォンを眺めてばかりだった俺は空がこんなにも青いのかとみとれかけ、電柱に勢いよくぶつかった。幸いなことに上を向いていたので鼻の骨を折ることはなかった。しかし足と腹部をぶつけたので、痛みでよろけてしまった。そのまま地面に座りうずくまり足をさする。

「まっすぐ、まっすぐ」

 声が出たのは痛みに対してではない。それはただ道をしっかりと歩むことすらできない自分に対する悔しさ、恥ずかしさ、いたたまれなさといったものだった。恥ずかしさのあまり殺してくれとすら思った。

 俺は人間ではない。
 不安定な精神では、真っ直ぐ道を歩くことすら難しい。
 もしかしたら誰かにぶつかって大怪我をさせてしまうかもしれないし、そうなったら、俺のせいで誰かが真っ直ぐ歩けなくなるかもしれない。
 だから俺は決めた。
 努力をしようと。俺は今まで「真っ直ぐ歩く」という努力を避けてきた。できるだけ。トリッキーでも、運任せでも、とにかく前に進めさえすれば、それでいいと思ってきていた。
 だが、流石にこのままでは状況は好転しない。何より、俺自身が面白くない。
 真っ直ぐ歩く努力をするためには、まず体を支える柱を探すことが必要だった。
 人間では無い俺を、上手いこと支える柱なんてそうそう見つかるわけがないので、何本か仮の柱を自力で建てることにした。
 しかし、どうしてかな。まだ真っ直ぐ歩くことすら出来ないこの俺が、柱のような何かをいくつも建てて行くうちに、家が建ってしまった。
 柱と言えるものは何一つない欠陥住宅だったが、それでも家は家だった。そして、人間では無い俺にとって、この家は、非常に住み心地がよく、癒された。
 そうして1ヶ月、俺は毎日真っ直ぐ歩く特訓をした。
 特訓が終わると、まるで全身がチーズになってしまったのではないかというくらい、体に力が入らない。両腕は、放っておけば地面に届きそうなくらい脱力していて、歩行の邪魔に感じた。なんだか本末転倒だなと感じながら、家のベットに寝転がる。そうなると、今度は「腕を切り離そう」だとか、いっそ自分のことすら「ロボットだと思ってみよう」とか、突拍子もない発想で、おかしな目標を立て始めるようになる。そういう時は、とにかく深く考えず寝ることにした。
 真っ直ぐ歩くことすらまだできていないのに、空を飛びたいとか言い出しているような状況で、俺は日々の努力をしながらも、心のそこではちっとも人間になれる気がしていなかった。
 それから、前に進むための技術を知らないので、そしてそれを理解し身につけたかったので、歩き方の本から何から様々な本を読むようになった。
 中には、空を飛ぶ方法が書いてある本もあった。最初は眉唾物だと思っていたが、多少理屈や筋が通っていたり、なんとなく共感できるような話が載っていたので、目を逸らす気にはなれなかった。そういう方法もあるのか、と思うと少し気が楽になった。
 また、人間では無いからこそ理解できるものがあることを深く痛感した。つまり、闇である。人間は闇への恐怖心から抵抗や拒否反応を起こす。しかし俺は人間ではないのでそういったものを真正面から見ることが出来る。そして、それが一体どういうものであるか、なんとなく「わかる」のだ。
 闇を感じた時、俺はすぐさまシャッターを切るようにしている。見つめることで、もしかしたら、俺の「何が人間では無いのか」が、理解できるのではないか? と思っている。ただ、決して飲み込まれることがないように、闇を見たあとは必ず欠陥住宅に帰るようにした。欠陥住宅に帰れば、自分を支える仮の柱たちが、俺をどういう存在で何をしたかったのか思い出させてくれた。
 真っ直ぐ歩く特訓ばかりしていると、今度は自分のことや、家の手入れを忘れてしまうことが多くなった。夜通し歩き続けた時なんかは、指先がとても冷たくなって、自分は実は人間だったのかな、とも思ったりした。

 無数のコバエがあちこちへ飛び交っている。
 秋元は引き受けた仕事の都合上、殺しなどの直接的に非合法なものには関わることが出来なかったが、それでもメンバーとして「彼ら」のために動かなくてはならない時があった。
 今日がまさにそういう時で、そして「彼ら」の案件には必ずと言っていいほど、死体が存在する。
 今、この部屋には、秋元の掃除の成果で、死体の匂いは完全になくなっている。
 しかし、部屋主が戻ってきてしまえば、いずれこの件はどこかへ漏れるだろう。少なくとも関係者への混乱は避けられない。

「あーあ。あー、あ。本当、物足りないなあ。もうねえ、全然、物足りないよ。この程度で死なれては、何も面白くもない。……この拳銃は使いやすそうだから、僕が貰っておくよ?」

 死体に向かってにこやかに話しかける。
 もちろん、返事はない。狂人の声に返答する死体など、存在するわけがない。

 ガチャ、と。
 玄関からドアが開く。

 ドアから入ってきたのは、秋元に見覚えのある青年。
 悠一だった。

「部屋主が帰ってきたか」
「何してるんだ?秋元」

「掃除!」
「……銃を捨てろ」

 悠一が、ポケットから取り出したナイフを構える。

「戦いたいなら、俺が相手になるよ。だからその銃を捨てろ、秋元。俺と……決闘をしろ」

 慎重に、言葉一つ一つ、選びながら発する。

 しかし。

「何言ってるんだよ!」

 秋元は目を丸くして、まるで向日葵の花のような純粋な笑顔で語り出す。

「敵がいないのに、ナイフを握ったってしょうがないじゃないか!」
「……は?」

「悠一くんは何かを勘違いしてるのかな? うん、きっとそうだよね、だって僕達は、敵同士にすらならないよ。君と戦っても、負ける気がしないんだ。どうせ勝つとわかっているのだし、そもそも僕に、君と戦うべき理由はないだろ?」

「そんな、俺はお前を……殺しに来たのに……。俺は、殺そうと、したんだぞ……?」

「なら、今すぐ殺してくれよ」

 ナイフの柄を持つ右手に、秋元の左手が触れる。挑発的だが、そこに一切の殺意が見えない。
 むしろ、秋元は囁きかけるように好意的な声色で、それが余計に俺の焦りを募らせた。

「っ……! らああああ!」

 苛立ち、蔑み、嫉妬。自分の中の暗い感情を、全てナイフに乗せるようにして、秋元目掛け振り上げた。

「……」

 一瞬だけ。

 秋元の表情から、何もかもが失われる。時間が止まったようにも感じる。フェイントなのか、それとも彼のスイッチが切り替わる瞬間なのか。そのまま、するりと秋元は上体を揺らし、俺の直情的なナイフを躱した。

 カシュ、とナイフが地面に線を描く。

「秋元ぉ……」
「フフッ」

 不敵な笑い声をこぼしたその直後、秋元の右腕が俺に向かって伸びてきた。
 真正面から不意にやってきた現象に、動揺で心臓が跳ね上がる。ヘラりと彼の口元がだらしなく歪み、その不気味さに目眩を起こした。まずい、このままでは殺される。
 秋元の腕が俺の首筋へかかる。ギリギリと力がこもるのをただ耐えていた。
 少しだけ、このまま死んでもいいのではないかという考えが脳裏によぎる。
 ふいに。秋元が口を開く。

「なってみろよ。人間に」

 秋元の腕が急にほどけて、俺は、地面へ開放される。

「痛てぇ!おい、何だよ急に!」

 見下ろされる形になって、彼の間抜け面を下から眺めていると、なんだかこの状況が馬鹿らしく思えてきて、感情の振れ幅が下がっていく。
 落ち着きを取り戻してから、秋元が答えを待っていることに気づく。秋元の表情は、先程とは違って少し悲しんでいるようにも見える。これがこの男の素なのかもしれない。

「俺は……人間にはなれない。なぜなら、もう既に俺は、人間だからだ」

 俺は秋元の先程の訴えに、毅然と釈明をする。
 それを聞いた秋元は、台所に戻り、置いてあった銀色の丸い器からコップへ中身を移し替えると、軽く口をつけ飲み下し、そのまま俺の元へやってきて、俺に向かってコップを突きつけてきた。

「ミルクシェーキ、うまいぞ」

 正直意味がわからなかったが、あのまま殺せたであろう俺をほったらかすような真似をする時点で、彼に悪意があるわけではないのは確かだったし、口をつけたということは毒が入ってるわけでもないだろう。
 俺は秋元に差し出されたものを素直に飲んでみる。

「……」

 ろくに冷えていないし、氷も入っていない。ぬるぬるとしていて、後味もなんとも言えない酸味のようなものが残る。

「甘ったるい。精液を飲んでいるようで不快な気分だな」
「わかってないな、それがいいんじゃないか」

 秋元はヘラヘラ言ってのける。こんなものを飲まされるくらいなら、普通に水をくれよ。

「やりたいことがあるんだ。そのために金が必要なんだ。君だってわかるだろう。この世界は理不尽だ。金がなきゃ、何も出来ないさ。君と戦って遊ぶのも楽しいけど、まあ、君を殺してもお金にならないからね」

 何を言い出すかと思えばまたこの手の話か、もう聞き飽きた。
 いい加減こいつは俺が潰さなければならない。
 夢見がちで、料理も下手くそで、決闘の場面ですらヘラヘラ笑いやがるような、気の抜けたクソ野郎、その上金を求める。
 そんなどうしようもない功利主義のこの男が、早く破滅するところが見てみたい。

「じゃあ俺は、金のない世界を作る」
「えっ」

「今決めたよ。俺はお前が息のあるうちに、お前が楽に生きることができる世界を作る。お前が俺を殺さない限り、お前は俺に勝てないよ。俺が理想の世界を作って、お前をボコボコにしてやる……俺は、お前に、勝つ」

「……そうか、がんばれよ」

 コップを秋元目掛けて投げつける。彼はコップをひらりと躱し、真正面の玄関を通って帰っていった。

 俺の名前は悠一。真っ直ぐ歩きたいだけの人間だ。
 秋元光一とは、あれからしばらく会っていない。どうやら仕事を辞めたらしい。
 秋元が職場を去ってから、俺も仕事を辞め、毎日歩く練習をしている。
 それでも、できるだけ鮮明に、秋元の顔を覚えておきたかったので、髪を切り、秋元と同じ髪型にした。
 毎日風呂に入ると、鏡に写っているのは秋元の顔。
 あいつは今も、俺のことを見ている。朝目が覚めると、すぐ秋元のことを思い出す。鏡を見ると、秋元の顔がこちらを見て、ニヤニヤと笑っている。
 そして、ふつりふつりと、俺の中の濁った感情が湧き上がってくる。その感情は、性欲に少し似ていたが、性欲ではなかった。秋元が俺を襲った瞬間に味わったものにも近い。
 いつでも自分を殺せる力を持った、秋元という人間への恐怖。その恐怖からやってくる、純粋な興味。秋元という人間への征服欲。そして倒錯的だが、壊されたいという気持ちもあった。
 俺は、秋元の顔面に射精するところを想像した。
「っ……」
 秋元の顔に自分のペニスを押し当てて、乱暴に擦り付ける。そんな想像をするのは、とても倒錯的で、気持ちがよい。
 俺が腰を前後に動かすと、秋元の顔は俺のペニスでグズグズに崩れる。皮が、肌にジリジリと擦り付けられるのを何度も何度も確認した。擦れていく様子を観察しながら、秋元の顔を少しずつ歪ませていく。
 俺があいつを壊しているのか、あいつが俺を壊しているのかは、既によくわからなかった。こんなことをしてしまう自分の情けなさや、この感情を行き場がないからと言って秋元にぶつけていると言う事実が、何より破滅的で、背徳的で、でも、最高に気持ちがいい。
 もし、秋元が死体になったら、その血はどんな味がするのだろう。1度舐めて確かめてみたい。生きたまま、痛がる姿を眺めながら流血させて、皮膚から直接舐めるのもいいかもしれない。
 脳髄に直接釘でも打って固定したい。
 腕を縛って血液の流れを止めて、膨れ上がっていく様を眺めたい。
 あの笑顔が、無表情が、苦痛と絶望で満ちる所が見たい。
 秋元を、殺したい。

「秋元っ……! 殺すっ……秋元っ!」

 何度か絶頂に達するまで、秋元の顔で抜こうとした。しかしどうしても、達する寸前に萎えてしまう。
 あいつが俺にトドメを刺さなかった時のことを、思い出してしまうからだ。
 俺に対して、秋元は、哀れみの感情を抱いていたような、そんな気がした。それは俺にとって屈辱的で、見下されたも同然だった。俺が秋元のことを、そして秋元が俺のことを、全く理解出来ていない証拠だった。
 どんなにこいつの顔面をペニスでぐちゃぐちゃにしても、俺は秋元に理解されない存在なのか。
 そう思うと、もう何もかもが、どうでもよく感じるのだった。

 ふいに、秋元がよく見ていた音楽が流れる。

 瞬間、前後不覚。

 腹部の生ぬるいところがぐるぐると回って、顎の少ししたのところから、線で繋いだようなワイヤーがピン、と立った、ように見えた。

 幻覚だ。

 俺は、その場に尻もちをついてしまった。

「まず、日銀を潰す」

「だから俺は、金のない世界を作った」

「才能がないやつほど、努力でなんとかしようとする。才能がないから、努力する必要があるんだ」
「だが、天才ってやつは大抵、意味不明なんだ」
「ほんの少しやれば、凡人の数億倍の燃費の良さを発揮するのに、それをやらない。」
「自分に利益のあることだって、平然と放棄する。人に迷惑をかけようが、自分の名誉が汚されようが、てんで無頓着だ。」
「天才は、自分の中で、完結した世界を作っている。」
「完成した世界に住んでるから、人に与える必要も、理解される必要も無い。やる意味が無い。」
「そうして、自分の力を無意識にセーブする。自分の心を守ろうとする。努力という、寿命を削る行為を忌避する」
「だから、そういうやつを動かすには、まず尻を蹴っ飛ばしてやればいいのさ。嫌がっても泣き叫んでも、やらざるを得ない状況へ立たせる。心を破壊する。」
「守るべき心を破壊されれば、なりふりを構わず自身の才能を発揮しようともがくだろう。そうしてようやく、我々は天才の実力を見ることが出来る。」

 矛盾同盟のサイバー攻撃によってインターネットを破壊。
 貨幣、流通、労働を全世界同時に禁止。
 違反者は禁固刑、最悪死刑に処される。

 資本主義は終わりを迎え、Googleを含めた大企業は倒産し、AIの台頭によりシンギュラリティの時代を迎える。
 物流は原始的な物々交換へと逆行し、人々の監視の目は消え、他人の幸せにやっかむ事の無意味さを認知していく。

「お前が見せたかった世界はこれなのか」
「……」

「本当にこの世界でお前は生きていて楽しいのか」
「……いいや。まだ終わってない」

「でも、もう勝負はついたんだろ。なあ、早く殺してくれよ。世界を支配して、全てを破壊して……それでもまだ何かあるって言うのか?」

「お前はあの時、俺を殺さなかった」

 俺の言葉に、秋元が目を丸くする。

「あの時……? あの時ってまさか、俺がお前の家に行った時の話か?」

「そうだ。……今度はお前の番だ」
「俺の番?」

「この世界を変えて見せろ」
「無理だ」

「いいや、簡単なことだ。なぜならお前は、もう既にその鍵を手にしている。」
「出来ない」

「なあ、殺してくれよ」
「出来ない!」

 秋元は感情的に、そう、激しく否定する。

 ああ、そうだ。その冷静でない顔が見たかった。

 ああ、なんて、気持ちがいい。

 俺は穏やかな気持ちで、声色で。

「……ほら」
「……」

 自身の首元へ、秋元の手を。

「そのまま力を入れてみろ、そ、う……もっ、とだ……」
「……っ」

 全てを破壊する、気持ちよさ。

「はは……っ、幸せ、だな、ぁ……っ!」
「…………っ!」

 まだ、沢山歩くということが出来ない俺は、とにかく少しずつ歩くということを目標にした。
 塵も積もれば山となる。それも、コツコツと毎日やること。結果を急いではならない。
 繁華街で歩いていると、いろんな人が歩いている。お陰で歩き方を知ることは出来た。
 しかし、それでは俺は、まだ満足できなかった。
 目標としている、真っすぐ歩くということを、とにかく極めたかった。
 地元の近くにある小さなペンション。
 俺にとっては、繁華街よりも歩いていて、面白さに欠ける。が、歩く練習をするには丁度いい、そんな簡素な立地。
 ここ何日か、俺はこのペンションへ、通い詰めている。ペンションには俺と同じように、真っすぐ歩けないような奴もいる。
 特に、昨日は最悪だった。
 2時間以上の時間を費やしたのに、俺は周りの人間に足を引っ張られ、一切前に進むことが出来なかった。
 なかなか空回りばかりしているという、自覚はあった。時々、歩くことすら諦めそうになる。このまま歩くよりは、なにもしないほうがいいのではないか、とか、いっそ死んだほうが、前よりも早く歩けるのではないか、などと思ったりもした。
 しかし、俺は諦めるわけにいかない。
 死なんて、一種の逃避でしかない。それは、停止か、後退だ。
 前よりも歩けるようになる方法。それは、歩き続けること。それしかない。
 膝をつくたびに、足の裏に痛みが走るたびに、ずっと、しっかりと、心に刻み付けた。
 あの高みへ、彼らの居る場所へ、俺はどうしても行きたい。
 まっすぐ歩き、誰もが崇拝し、尊敬する。そんな彼らのように。
 俺はまだ、その一歩すら進めていない。どんなに歩く練習をしても、ちっとも前に進めていない。
 努力が足りていないのだ。これは、単なる怠慢だ。
 人は誰しも、最初は真っすぐに歩けない。世の中にはまっすぐ歩いている人は沢山いる。その人たちがどれだけ歩くことに苦労しているか。この数年間で、俺はたくさん見てきた。
 中には、本当に歩く才能というものを持っている人間も沢山いた。
 反対に、歩く才能が全くないような奴もいた。
 そのどちらも、歩く努力をして、自由に歩けるようになっていた。
 だから、俺だけが、真っすぐ歩けないなんてことが、あるわけがない。
 俺は、真っすぐ歩くことから逃げ続けてきた。彼らは違う。まっすぐ歩く努力を続けてきた。
 今は、まっすぐ歩けなくてもいい。とにかく、進むことだ。
 まっすぐな歩き方は、頑張っていれば、絶対にできるようになる。
 そのためなら、誰にも理解されなくてもいい。
 誰にも認めてもらえなくてもいい。
 真っすぐ歩いて、前に進めるようになりたいだけなんだ。
 人の歩いているところを見るのは、歩き方を学ぶのに好都合だ。
 俺が歩こうとしているところを見た人間も、きっと俺の姿を、歩くための参考の一部にするに違いない。
 大事なのは、歩けると信じて、歩みを進めることだ。
 歩けると信じた時、必ず前に進むことが出来ることを、俺は知っている。
 このペンションは、俺の第二の家だ。
 ペンションのドアを叩く。

「こんばんは」

 キィィ。

 ペンションのドアから、男が姿を現す。

「今日は帰ってくれないか」

 男はドアを開いたまま、無表情で語る。

「誤解しているようなら言っておく。さっきの事故は、俺のせいではない」

 慎重に言葉を選びながら、返答する。
 俺は、もしかしたら、この人が失望するようなことをしてしまったのだろうか。

「君とは一緒に遊びたくないから、今日は帰ってくれないか」

 神妙な面持ちで語る男は、帰ってくれとは口でいうものの、ドアを強制的に閉めようとしたりすることはなかった。

「それはみんなが嫌がるからですか? だったら、貴方に一切迷惑の掛からないように振舞いますよ」

 慎重に、慎重に言葉を選んだ。
 俺は、まだ諦めてはいけない。俺は、まだなにも成すことが出来ていない。
 こんなところで、終わるわけにいかないんだ。

「見ず知らずの他人を虐めるようなやつと、僕は一緒に遊びたいとは思えない。今日は帰ってくれないか? 別に、もう二度と来るなってことじゃないんだ」

 この人とこんなやりとりをしていることが、既に苦しくてならない。どうしてうまくいかないんだろう。いや、うまくいかないと思い込んでいるだけだ。もう少し頑張れば、きっとうまくいくはずだ。

「考えを改めますので、そこをなんとか」

 長々しく言葉を並べても、聴衆の不安を煽るだけだ。

「今日は無理だ」

 きっぱりと断られた。これ以上は空気を悪くするだけだ。

「……わかりました。諦めます」

 俺は彼へ、持っていた小さな手土産を渡し、ドアを閉めた。

 キィ、バタン。

 大丈夫だ。俺はまだ死んでいないし、足を失ってもいない。

 それでも大きな絶望で、しばらくは、ひたすら虚空を見つめることしかできなかった。
 今までやってきたことが全て無駄だったようにすら思えてきて、そして、誰にも理解されなくていいと思っていたはずなのに、理解されないということが、これほど辛いことだと改めて感じた。

 本当に自分は、どうしようもない存在なのだと。

 どこへ行ってもまっすぐ歩くことが出来ない、そんな人間なのだと。

「帰ってくれて本当によかった、もうこれ以上、悠一がこのペンションで、苦しむ姿は見たくない。あいつがいるべき場所は、こんな安っぽいボロペンションなんかじゃない。本当のことを言えば、繁華街にも来てほしくはないんだ。……光一みたいな人がいてくれて、本当に助かるよ。俺一人だったら、悠一にこんな態度をとることも、無かっただろう……」

<了>


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