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昔語り:恩師との出会い

年寄りの独り言として読んでいただきたい。

1990年代の終わり頃。

その先生との出会いはある街のアメリカ系のインターナショナルスクールだった。

10月から高等部に通うことになっている学校。どんな所なんだろうと、その学校がやっているサマースクールに出席することにした。家にいても大して勉強はしないだろうし、行って損にはならないだろう。それよりも自分がこれから通う学校にそこはかとない興味があったからだ。

サマースクールの始まった9月のある日、地下鉄で初めてその学校に向かった。

あまり治安の良くないとされていたロンドン西部のノッティング・ヒル。地下鉄の駅を降りて徒歩五分とかからない住宅地にその学校はひっそりと建っていた。言われなければ学校とは分からない普通の住宅を学校として使っており、小さな看板を見過ごせば通り過ぎてしまうような場所だった。

イギリスで言う所のデタッチドハウスという一戸建ての建物だろうか。外から見ると地下一階もあるようだが,正面から見ると小さく見える。一体ここに何人の生徒が通っているんだろうと不思議になった。

時間より早く到着してしまった私は、恐らく正面玄関と思われるドアを叩いてみた。呼び鈴もあったので鳴らしてみたが、誰かが出てくる気配はない。
ドアの前にあった石段に腰かけ、誰かがやってくるのを待った。

しばらくすると、日に焼けた比較的小柄でスリムな男性がやって来た。

日本でいう所のサーファーの様なイメージの人だった。目元にかかるくらいまでのストレートヘア、薄手のシャツを着ていらっしゃったのを覚えている。L先生と言う名前だった。

サマースクールに来たことを告げると、先生は快く中に招き入れてくれた。
近くで見ると少し厳しそうな、それでいて温和な雰囲気のある方だった。

建物の中に入って左の廊下の奥にある大きな部屋に行くと、先生がおっしゃった。
「まだ時間があるからここで待っていなさい。あと何人か来ることになっているから」

部屋の中には机がいくつかくっつけて置かれ,その周りには五脚のいすが並べられていた。
これまでに語学学校でもサマースクールに通ったことはあったが、こんなに小規模のサマースクールに出るのは初めてだった。

開始時刻になり、生徒たちがぱらぱらと入って来た。
皆で机を囲む席に座り、お互い簡単な自己紹介をした。

イギリス人の生徒が二人、アメリカで育ったという日本人の生徒が一人、メキシコから来た生徒が一人,そして筆者だった。

年齢はどの子も筆者より二歳から三歳ほど下の子達だった。

でもここでは年齢は関係ない。男子四人女子一人で、二週間をあるテーマに基づいてディスカッションしたり、資料を読んでそれについてフリートークで話し合ったりなど、とにかく話すことに重点を置いたクラスだった。参加者の英語のレベルはてんでばらばらで、英語が母語の子もいれば流暢なアメリカ英語を話す子もいた。

メキシコの子は少し単語が分からない事が多かったので、ディスカッション中は分からない単語を皆で教えあいながら話を進めた。イギリス人の子達は性格の違いがはっきりしていて、寡黙な子とおしゃべりな子の二人に分かれていた。

その時参加していた生徒の年齢や、これまでの経験値もあったのだろうか、筆者は自然と議論を回す役目になり、発言が少ない子に意見を聞いたり、英語で苦労をしている子には、話している内容や単語の意味を自分なりに分かりやすく説明してみた。

生徒たちの自主性を重んじてか、先生は教室の隅で私たちのディスカッションをただ聞いていることが多かった。先生が主体になって物事を進めて行くのではなく、あくまで議題ややるべきことを指示し、後は参加者がどの様に課題に取り組むかを任されていた。

グループでやるものが大半で、どちらかと言うと大人しい子が多かったので、新しい事に着手するとまず皆静まり返ってしまう。余計な事をやるようだが筆者はそこでもまず自分で発言し、その後で会話を回す役目をすることが多かった。

先生はやはり教室の隅で我々が課題に取り組んでいるのを見ているだけだったが、少し厳しい表情を浮かべておられたのが印象的だった。

サマースクールの時点でははっきりは分からなかったのだが、若干フェミニンにも見える先生は、現代で言う所のLGBTの方だった。

二週間のサマースクールが終わり、しばらくして10月が来て学校が本格的に始まった。

学校が始まって、第二週目にはActivity Weekという修学旅行に出ることが決まっていた。
まだ右も左も分かっていない筆者はある日L先生に呼ばれた。

先生は学校の職員室の一つに筆者を招きいれてこういった。

「Anna、今度の修学旅行ではあなたにグループリーダーを任せたいと思っている。前回あなたが通っていた学校の指導教員から提出された推薦状にも、あなたはリーダーシップがあると書いてあって、サマースクールを担当していた私も同意見だ。やる気はあるかい?」

いきなりのことに驚いた。多分しばらくの間はぽかりと口をあけていただろう、でもそれは光栄な事なので候補が他にもいないのならやらせてほしいと言った。先生から言われてリーダーになるのはこれが初めてだった。

するとL先生は少し眉頭を曇らせて言った。

「ただ、ちょっとここの学生には問題があってね。まず、病人がいても対応できるかい?」
と聞かれた。

問題ないと思った筆者はすぐに首を縦に振った。

「そうかい。あともう一つ。あなたがリーダーをやることを快く思わない生徒もいる」

一瞬人種差別を懸念した筆者は聞いてみた。

「人種差別ですか?」

「いや、そうでは無いけど、男子生徒の中にはあなたがリーダーのポジションに着くのを快く思わない人もいる」

そっちか。一瞬安心はしたが、男女でのリーダー争いがあるのは日本の小学校や中学校では少し経験をしたことはあるが、それから二年近くが経っている。10歳から13歳の頃の経験と、17歳での経験はまた違うものになるかもしれない。

筆者はこう行ってみた。

「それはこの学校の男子がどれだけ保守的かによるのではないでしょうか?」

L先生は口ごもりながら、「いや、何人かいるけれど、彼らがどう出るかは分からない」
と仰った。

「それじゃ、当日までどう対処するべきか考えてきます。ただし,男子数名に対して私だけ女子だったら的にされるのが目に見えているので、せめてあと一人女子でリーダーに付ける人がいるとしたら嬉しいです。男子のリーダー三人に対して女子のリーダーが三人とか二人とか。女子のリーダーが複数いるのなら、男子も何も言わないのではないでしょうか」

先生は黙って頷いてくれた。

修学旅行の日が来て、私たちの学年はバスに揺られてイギリスの南西部のデボンに向かった。

車酔いが酷かった筆者は酔い止めを飲み、バスに揺られる間は昏倒したかのように眠って過ごした。

目的地のキャンプ場に着いたときは若干ふらふらしながらも、これから宿泊するロッジに荷物を預け、集合場所の部屋に行った。

そこでL先生から三日間の修学旅行と注意事項の説明を受け、各グループのグループリーダーが呼ばれた。筆者や他のグループリーダーが出て行くと、結局男子三名、女子二名のグループに分かれることになっていた。各グループが課題に取り組む時の順番を決めるために各リーダーがくじ引きをし、順番が決まった。筆者のグループは二番目のグループになった。

その時だった。別のグループリーダーが筆者の目の前に立ち、「女子のグループリーダーかよ。何も出来ねえんだろ」と言った。

筆者は,それに答えて、「この国は首相はマーガレット・サッチャーだし、国を統治してるのはエリザベス女王だよね?そんなリーダーがいるんだし、たかが学校のグループリーダーに女子がなってもおかしくないんじゃないの?」と言った。

それを聞いていたL先生は喧嘩になりそうな時に止める表現で「いちゃいちゃするのはやめなさい」とおっしゃった、それを言われた筆者は、
「大丈夫です。この人とはたった今離婚しましたから」と言った。
L先生が「どんだけ結婚してたんだい」と聞いたので、「20秒くらいです。お互いの合意の上で離婚しました」と返した。

くだらないジョークの連発ではあったが、「女子のリーダーにはなにも出来ねえんだろう」と言った男の子には「じゃーね,Hubby」と夫婦者の呼び方で声をかけて席に戻った。
その子が凄い顔をしてこちらを睨みつけていたのが印象に残っている。多分,本当にむかついたのだろう。

リーダーと言ってもごり押しするタイプのリーダーが嫌いだった筆者は、あくまでみんなと一緒に行動して何かあったら手助けするから、と前置きをして、自分の名前と日本から来た新入生だと自己紹介した後,グループの全員の名前と出身国を教えてもらった。

アメリカ系の子が三人、北欧系の子が三人。残りの二日間のスケジュールを共有し、チームワークが試されるから、誰かが助けが必要そうだったらお互い助け合ってあとは楽しもう、と言う趣旨の事を言ってその場は終わりにした。ついさっき「女子のリーダーには何もできねーんだろう」と言っていたチームにリーダーは「こうすれば勝てる、ああすれば勝てる」と大騒ぎしていたのが印象に残った。

二日目が来て、課題のチームワークの日が来た。いわゆるアスレチックをチームでこなしてくと言うもので,縄に捕まって川を超えるとか、大きな障害物を越えるなど様々な課題があった。

アスレチックの道具は小高い丘のそちこちに置かれており、課題をこなしてあとは小高い丘を攻略すればいい所まできた時だったろうか。一人の子が喘息の発作を起こした。筆者は幼馴染に喘息を持っていた子がいたので、喘息を起こした子の薬を見て、すぐに喘息だと分かった。ちょうどきつい坂を上っていた最中だったので、先を行く子達に呼びかけて五分休憩を頼んだ。喘息を起こした子が休憩をする必要があると思ったからだ。

ちょうど小高い丘から下を見られる場所で、喘息を起こした子が薬を吸引している間、「ヤッホー」など間抜けな事を言っていた筆者たちに、下から「ヤッホー」という声が帰って来た。

アメリカ人の子達が下から聞こえてきた「ヤッホー」の声の主としばらく大声で会話をしたところ、次のグループが間近に迫っていることが分かった。

「このままじゃ次のグループに追いつかれる。走ろう!」とチームの一人が言った。

しかし喘息発作はそうそう収まってくれるものではない。その子に肩を貸していた筆者は、このままでは命に係わるかもしれないと判断した。そして少し前を行く男の子達に声をかけて、喘息を起こした子を背負ってゴールまで行ってくれるように頼んだ。一人が快く応じてくれ、発作を起こした子とその子を背負おう子の荷物を筆者が引き受け、皆で走り出した。

一泊分の荷物を持ってきた割にしては,預かった荷物はとてつもなく重く、皆何を持ってきたんだろうと思いながら、精いっぱい走り、途中休み休み歩きつつゴールを目指して走った。

遠目に、チームの子達が時間通りにゴールにたどり着いたのが見えた。
筆者も急ぎ、喘息の発作を起こしている子に遅れたことを詫びて、その子の荷物と薬を渡した。

ゴールについて、しばらくの間休憩を取っていた筆者たちを、次に来たチームがどんどん通り過ぎていく。

具合の悪くなった子を背負って走った子は、筆者がその子の荷物を持って走ったことにお怒りで、「自分の荷物ぐらい自分で持って走れたのに」とカンカンだった。その内、その子はその日に起きたいやな事をどんどん遡って話だし、その日の朝ご飯が気に入らなかったとまで話し出した。筆者はその子の荷物を持って走ったことを詫びて何とかその子を立ち上がらせた。

時間的にはもう夕食が始まってもおかしくない。ゴール地点から続く道をたどっていくと、
小高い丘の上から別の友達が顔を出し、「早く早く!夕ご飯,皆食べてるよ!」と言った。

まだ丘を登らなきゃからないんだ。そう思った筆者は、右と左に分かれている道のどっちを行けばいいのか、その子に聞いた。すると帰ってきた答えは「どちらでも」だった。

何となく左側の道を選んで進んでいくと小さな壁のような所に辿り着いた。壁の近くには太いチェーンが吊るされており、これを引っ張って登ればいいんだと思った筆者は勢いをつけてチェーンを身体の支えにしながら壁を上って、丘の上に登った。一緒にいた子は結局右側にあった緩い坂から上ることにした。

L先生に到着を告げると、「あなたが最後か」と聞かれた。あと二人ぐらい後から来ると告げた所、「どっち側から丘を登ったか」と聞かれ、「左側です。チェーンのある方」と答えた。
するとL先生は、「誰かに助けてもらったか」と聞いてきた。誰かに助けてもらったわけではないので、一人で登ったと答えると、「だれか見た人はいるか」と聞かれたので、多分一緒にいた子たちが見たと答えた。

L先生は少し疑わしそうな顔をしながら「夕食をはこれ。あと左側から登れたご褒美にジュース。あ,だれの力も借りなかったなら、ジュースを選べる。どっちがいい?他の人の力を借りた子にはオレンジジュース。誰の力も借りなかったのならオレンジかカシスジュースのどちらかを選べるよ」とおっしゃった。先生の表情は厳しいままだった。

選べるなら美味しいカシスジュースの方が良いと思った筆者はそのままカシスジュースを貰った。

アスレチックのある場所は森や林が多いが、筆者たちが夕食を取った場所も木々が沢山ある場所で、木の枝に吊るされたブランコまであった。筆者はブランコに座って、夕食であるパンやリンゴを食べ始めた。日本人の子達が何人か集まってきて、一日ぶりに日本語で喋りながら楽しく夕食を取った。

その日は小さなキャンプファイヤーを炊き、キャンプでいうようなジョークを皆で言いながら、夜を過ごした。その日はそのまま野宿が決まっていたので、大きくて丈夫なナイロン製の寝袋を渡してもらい、寝場所を決めて横になった。

翌朝、目を覚まして起き上がると、チームメイトの一人とL先生が話している所が見えた。
他に起きている人はいなかった。筆者は寝袋を引きずりながら先生たちにおはようの挨拶をして合流した。しばらく他愛のない事を話していた時、L先生がおっしゃった。
「昨日、チェーンを使って上ったのを見たい」

朝ご飯を食べた後ではきついと思った筆者は、「朝ご飯の前にやりたいです」
と申し出た。他の子達も起き出してきて皆に朝ご飯が配られた後で、「さあ、昨日やったことを見せてごらん」とL先生がおっしゃった。私が嘘をついていないか確かめたかったようだ。

崖は中途半端に高く、誰かの助けを借りないで降りるには怪我をしないか怖かった筆者はなだらかな道を選んで崖の近くまで行くと、崖に作ってある壁とチェーンを使って崖を上って見せた。二回それを見せた所でL先生は「うん,確かに一人でやったんだね。崖の上から一人で降りれるかい?」とおっしゃった。

中途半端な高さからチェーンを使って降りると足に負担がかかりすぎる。これから今いる山の上から何時間かかけて降りるには怪我をしないで降りなければいけない。怪我をするのがいやだった筆者は、多少高所恐怖症があると言って、降りる方は勘弁させてもらった。
L先生は、二年ほど前に登るのも降りるのも出来る生徒がいたと教えてくれた。

「両方できると良いんだけどね。まあ、上る方だけでもできれば上等だよ」と声をかけて下さった。

朝食が終わり、みんなで小高い丘から下に下りた筆者たちは、元居たキャンプ場まで戻った。そこでは最後の課題が残されていた。

キャンプ場の中の建物の傍に、枝が大きく張り出した木の上にはお宝が沢山あるという。
そのお宝を沢山取ったグループが勝ち、という競争だった。

ガラス張りの部屋の中から、各チームが前のグループがどのように課題に挑戦するか見られるようになっていた。。

二番目のグループだった筆者たちのグループでは、木の枝に近づく役を筆者がやることになった。昨日喘息を起こした子を背負って走った子以外で一緒にペアを組んでくれる子を探したが、自信の無さか手を上げてくれる子がなかなか出てこない。

ただ最後に声をかけた男の子には、「悲惨な事にはならないから」と声掛けをしたところ挑戦してくれることになった。その子には筆者の骨盤の付け根辺りを持ってもらい、3カウントで筆者がまずジャンプし、一番高く飛び上がった所で上半身を目いっぱいに伸ばして体重を分散させる方法を取った。

これは上手く行き、木の枝の上のカラーボールが全部見える高さまで届いた。あまりの高さに怖気づきそうになった筆者は一本の木の枝につかまりながら、枝の上に仕込んであるボールの大半を下に落とした。右の方の枝にあったボールをほとんど落とし、左の方の枝にあったボールも半分ぐらい落としたところで止めにして、高い所から降ろしてもらった。

高い所に持ち上げられて少々ビビっていた筆者たちが室内に戻るとL先生が「大丈夫か」と声をかけて下さった。そして、どうやって持ち上げてもらったかについても聞かれた。
筆者は体重の逃がし方を知っていたので、やり方を簡単に先生に説明した。

お宝探しのゲームは結局筆者のいたグループの勝ちで終わった。

その後の結果についてはあまり覚えていないのだが、喘息の子を背負って走った子が「ベスト・レスキュー(救護)賞」という賞を貰ったことは覚えている。

修学旅行も終わり、本格的に授業が始まるころ、筆者たちの学年の生徒は学級委員を命じられた。希望した活動は、週に数時間かかわるだけ、というものだった。

筆者は本が好きだったので図書委員を選んだ。

偶然にも図書委員の担当はL先生だった。

週に90分図書館で本を棚に戻したりとやることは少ない、と言われてはいた。

しかし、その学校の図書室には英語の本以外にも多数の言語で書かれた本があった。
もう一人の日本人の子と分担しながら、フィクションとノンフィクションに本を分別する作業を進めた。しかしドイツ語、フランス語、北欧各国の本、スペイン語やポルトガル語、ヒンズー語やベンガル語、アラビア語やペルシャ語など言語の壁が立ちふさがり、筆者たちはとにかく次から次へと出て来る良く分からない言語で書かれた本と対峙し、少しづつ仕分けをしていった。

しかし、あまりにも筆者たちが一方懸命に図書委員の仕事をすると他の生徒で図書館で自習したい子たちが遠慮して図書館を使わなくなってしまう。

心配していた時、L先生に呼ばれて、図書委員はどのように活動しているか聞かれた。

二人で二日間づつ、決められている90分を使かって書棚の整理をしている。しかし遅くまで残ると先生方が帰れなくなる。といってプランBを導入し、休み時間をフルに使う事にした。そうすると図書委員が常に活動しているような印象を与えてしまって、図書館を利用する人がいなくなってしまったと報告した。そして今はプランCを考えていて、学校の始業前の時間を使って図書館の整理が出来ないか提案をするところだと報告した。

L先生は黙って聞いていたが途中で首を振って、朝早く来る必要はないと仰った。

その後、学校と話し合いが持たれたようで、図書委員の活動時間は90分から60分に減らされた。L先生が学校側と話し合ってくれた様だった。

その頃、筆者は別のことで頭を悩ませていた。

美術の授業を取っていた筆者は、宿題が出る度に外に行ってスケッチをするという事を繰り返していた。

80年代のロンドンでは、トラファルガー広場やコベントガーデンの様な芸術家の集まる所ではスケッチはし放題。しかしそんな時に様々な人から話しかけられる。話しかけてくる人の中にはホモセクシュアルの男性が多く、美術に興味のある人が多かった。

始めは絵画の話で始まった会話は、いつしかボーイフレンドとのディープな関係の相談や、ホモセクシュアルに対してどう思うかなど、当時17歳だった筆者には手に負えないような話が沢山出てきた。筆者はそこまでの人生経験は無いので、「だれか好きだと思える相手に会えただけでも奇跡ではないか」と言って話を終わりにしていた。

美術の授業を一緒に取っていた一つ上の学年の人達に「街で宿題をしている時にホモセクシュアルの人達から色々質問を受けるけれど、この国ではホモセクシュアルは違法何だろうか。彼氏が見つかっただけでも幸運ではないかと言っているが、これでいいんだろうか」と相談をしていた。

この質問が、巡り巡ってL先生の所にも行ったようで、ある日L先生から聞かれた。
「Anna,ロンドンのゲイ・コミュニティと付き合いがあるのか」

コミュニティではないけれども,美術の話から始まって、個人的なボーイフレンドとの関係について意見を求められることがある、と説明したところ、L先生はおっしゃった

「そんな時,君はどんなふうに答えているのか」

筆者は、ゲイの人達にいつも答ええているように「だれか好きだと思える相手に会えただけでも奇跡ではないか」と返事をしていると答えた。L先生は何もおっしゃらず,ただ首を縦に振るだけだった。

高校も卒業し、30年近く経った頃,同級生の一人が日本に出張でやって来た。
昔話に話を咲かせる中、L先生の話になった。カナダ出身だったL先生が今どうしているかとても気になっていたので聞いてみた所、先生はもう何年も前に他界されていたという。
原因はAIDSだった。80年代から90年代、AIDSが猛威を振っていた頃、恐らく30歳~40代だった先生が当時不治の病だったこの病気に出会うリスクは大きかったのだと思う。

同級生からこの話を聞いて、正直その場ですぐ呑み込めなかったものの、何かあれば細やかに気を使ってくれ、私が何か壁にぶつかっている時にいつもそばにいてくれたL先生には、思い返してみれば感謝しかない。

私が人種差別にあった時も、同級生から誤解を受けておかしな噂を流された時も傍にいて見守ってくれた先生。

何よりもサマースクールの時からしっかり筆者の事を見てくれて、筆者に修学旅行のグループリーダーという役目を渡してくれ、その後も図書委員の活動をしっかり見てくださいった先生はある意味オアシスの様な存在だった。厳しいながらも生徒の行動をよく見て下さり、先生を慕う生徒は大勢いた。

それだけに同級生から先生が亡くなられたと聞かされた時は、しばらく立ち直れないくらいの喪失感を味わったものだ。

40年近く前の医療事情と今日では雲泥の差があると思われるが、それにしても若かった先生が亡くなられたのはショックでしかなかった。

今でもそうだが、厳しいながらも先生と過ごした楽しい時間しか思い出せない自分がいる。

40年前の不治の病で命を取られてしまった先生。

十代の自分に色々チャンスを与えてくれて、何かあればいつも見守ってくれていた先生には本当に感謝しかない。そんな先生にもう一度会って感謝を伝えられないのが本当に残念でならない。 

人はどんな出会いがあるか分からないものだ。まさか恩師がこんなに早くに鬼籍に入ってしまうとは思いもしなかったことだ。

この数週間、なぜか思い出すことは先生と過ごした楽しい時間ばかりだ。
真面目腐って堅物だった筆者に合わせて真面目に対応してくださった先生とは、思い出せば切りが無い程の思い出がある。

もう生きてお会いできない人ではあるが、せめて天国で安らかに過ごしていて欲しい。
そんなことを願う、忘れられない人との出会いだった

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