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光の誘惑

2024年、カメラにおける私の今年のテーマはライティングである。
でも、そもそもライティングをしようと思った原点は何だったのか。
この記事は、その点について振り返る極めて内省的なものである。


最近の出来事

先日、幼少期によく遊んだ田舎に、久しぶりに立ち寄った。
そこには、既に主の亡い家がある。親戚が管理しており今も昔のままの姿を留めており、この春、久しぶりに多くの笑い声が戻ってきた。
この歳になると親戚の集まりと言えば慶事か法事のどちらかである。

あれからもう13年も経つのね、なんて「川の彼岸」を偲びながら「川の此岸」の人々は再会を喜び、互いの近況を称え合う。
そのような集まりでは、大概、集合写真がつきものである。
親戚に一人くらいカメラ好きが居て、という役割を私が有難く担っている。
今回は室内で集合写真を撮ることになったが、そういうこともあろうかと思い、ストロボを持参していた。

場の流れの中で

このような「現場」では、往々にして撮影者の意向とは無関係に、自然の成り行きで場が整う。
この時、複列に並んだ面々の顔に対し、光がほぼ真横から当たる状態だった。持参したストロボだけで全員の顔に均一な光を当てることは不可能だと悟るのに1秒も要らなかった。
一先ず、場の空気に従い一枚撮影した。

こういう場では老”幼”男女、様々な人が集う。来客もある。
時間の猶予はあと数分。
どうしても一枚、自分のエゴを押し付けてでも撮りたい写真があった。
全員の顔が均一に明るい写真を撮りたい。
久しぶりに一堂に会し、愉快な気持ちが滲む表情を、撮りたい。

調度品

部屋は和室。
和室と言えば障子。
南向きの大きな窓からは、曇りがちな空から顔を出した太陽が光を送ってくれている。

その時私の“頭”では、障子が巨大なモノボックスに見えていた。
光源は大きいほど柔らかな光になる。障子を閉め、外からの光を障子で一様に拡散することで、全員の顔が一様に照らされる。カメラは光源に対し十分に小さい。タイマーをセットし、撮影者の自分も被写体になるため、光を遮るものはない。

果たして、その場に集まった人の柔和な表情を写し出すために、その場で使える最善の道具はストロボではなく、障子であった。
つまるところ、写真撮影とは「機材ありき」ではなく「使い方」なのだ。
産物たる一枚の集合写真は、その日その時その家に集った人たちの過去の思い出であり、ストロボだの障子だの、は何の意味も持たないのだ。

出来上がった写真を見て、反省点は幾つも浮かぶ。
ただ私は、出来る限りの判断を行ったと自負している。

手段と目的、課題と問題、そして全体像

前回の記事において、自分の中のライティングという言葉に、「光による演出」という和訳を与えた。

もともと今年のテーマを「ライティング」に据えた経緯は、テレビを見ていたときに目に飛び込んできた、とある写真作家の作品に感動を覚えたからであり、その作品によりライティングの必要性を(再)認識したからである。

ストロボを使った撮影を試行すると効果が分かり易い。効果が分かり易いと、何やら自分の実力が上がったように錯覚するのは言うまでもない。その機材に関する満足度も上がり、撮影が楽しくなる。
手元にある機材で多灯ライティングにも挑戦したりと遊ぶうちにパワーのあるストロボやアタッチメントが欲しくなった。

最近買ったもの

結局お前もか。お前もGodoxを買うのか。
そんな感じですね。左がGodox TT600。

GodoxのTT600。
TTLできそうな名前だがTTL機能は無い。
TT600は、右に並べたLUMIX DMW-FL360Lと比べ若干暖色寄りな気がする。

安いけど一応スプリングのクッションが入っているスタンド。
Amazonで「最後の1個」になっているブラケットとのセットを購入。
改めて考えるととてもお買い得なセットだった。

Neewerのスタンド。非常に活躍の機会が多い。

立ち止まるべき時

さて、ここにきて、冒頭に記した「最近の出来事」があったのである。

どうやってストロボを使って「イイシャシン」を撮ってやろうか、と思っていた私にとって、障子という”解”は衝撃的だった。
ストロボで光に弄ばされ、障子で光に導かれた。
まさに今、ライティングに取り組もうと思ったきっかけを大事にするべき時が来たのだ。

ライティングとは、元来「手段」であり、その手段を講じる「目的」は写真で何かを表現することだ。これはストロボに限らず、カメラ本体だってレンズだって、表現するという目的に対する手段だと思う。RAW現像だって表現したい「何か」が明確でないと方向性が定まらない。

今の私にとって、「課題」とは写真表現手法の習得と実践であり、何故なら《自分が写したいこと》を表現する精度が低い、という「問題」があるからである。先述の写真作家の素晴らしい作品を見て、ライティングに取り組む思いを持ったのは、この課題解決という目的の手段としてライティングが必要だと考えたからに他ならない。
その作家が表現したかったこと(それは私なりの解釈ではある)はストレートに私の心を揺さぶった。その作家は写したいことを表現するために光を操り、目的を果たしたのだ。

自分が写したいこと

自分が写したいこと。
もの、ではなくて、こと。
自分が写真に求めていること、即ち自分が写真撮影という行為を通じて実現したいことの全体像がまた一段、明確になった気がする。

写真、とは真を写す、と書く。
真実を伝えるために写す、という解釈もできる。
代表例は、記録写真や報道写真であり、起きたことの証明である。私にとっての「集合写真」はまさにこれであり、「そこに居た」ことの記録でしかなかった。

しかし一方で、「真」という漢字には、「本質」という意味もあると思う。ここでは被写体という言葉が指す範囲を広く捉え、ものや人に限らず、その場の空気感も含めるが、私が写真撮影で求めているのは、被写体の魅力、即ちその「本質」を焼き付けたい、という思いなのかもしれない。
人は何に魅力を感じ何を本質と捉えるか。それはまさしく、人それぞれのパーソナリティの発露であり、私が烏滸がましくも「表現者」としてカメラを構えたい、と思うモチベーションなのである。

まとめ

私は、集合写真は無感情で無機質なものと忌諱していた。
しかし今回、親戚同士の「再会の感動」を、私は撮影者ではなく表現者として、その感情を一枚の写真に焼き付けたいと思った。
自分が写したいことに対し、どのような手段を講じるのか。
今回、自分の中に無意識に存在していた「撮影プロセス」の中に、筋が一本通ったと思う。

ライティングを考える、というきっかけが生んだ今回の気付き。
光には魔力がある。
これは、光の誘惑だったのだ。

noteの余白

目的と手段の混同や問題と課題の混乱は、日常に溢れている。
何を隠そう、私は問題と課題の分離が苦手だ。
日々の生活において、問題と課題を取り違える。問題だと思ったことは実は課題であり、問題はもっと深いところにある。そもそも「手段と目的、課題と問題、そして全体像」なのではなく、「全体像、問題と課題、目的と手段」なのだ。今回の記事は、今一度、このことを自分に言い聞かせておくためのものでもある。

なお、撮影において「表現者」ではなく「撮影者」に徹するべき場面があるかもしれない。そこは、自分の出し入れというべきまた大きな命題だと思うが、少なくとも、今回通った撮影プロセスの一本の筋は、大事にしていきたい。

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