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【読書メモ】人新世の「資本論」

「新書大賞2021」第1位、大賞受賞作。人類の経済活動が地球を破壊する「人新世」=環境危機の時代。「100年に一度」級の異常気象が毎年、世界中で起きている。気候変動を放置すれば、この社会は野蛮状態に陥るだろう。それを阻止するためには資本主義の際限なき利潤追求を止めなければならないが、資本主義を捨てた文明に繁栄などありうるのだろうか。ヒントは、著者が発掘した晩期マルクスの思想の中に眠っていた。

人任せでは超富裕層が優遇されるだけだろう。本書は、マルクスの資本論を参照しながら人新世における社会と自然の絡み合いを分析し、豊かな未来社会への道筋を具体的に描きだす。気候危機の時代により良い社会を作り出すための想像力を解放してくれるだろう。読みやすい内容なのでページ数は多いが一気に読めてしまう。忘備録としてメモしておく。

・気候変動と帝国的生活様式

資本主義は、常に「外部」を作り出し、そこにさまざまな負担を転嫁することで生き延びてきた。たとえば、私たちがワン・シーズン着ただけで気軽に捨ててしまうようなファスト・ファッションの洋服を作っているのは、劣悪な条件で働くバングラデシュの労働者たちであり、原料である綿花を栽培しているのは、インドの貧しい農民たちだ。彼らはグローバル化によって被害を受ける「グローバル・サウス(=グローバル化によって被害を受ける領域・住民)」の住人である。

先進国の豊かな生活は、このグローバル・サウスという「外部」によって支えられてきた。だが、こうした地域はいま二重の負担に直面している。たとえば、南米のチリでは、先進国の「ヘルシーな食生活」のために輸出用のアボカドを栽培してきた。アボカドの栽培は多量の水を必要とするのに加え、土壌の養分を吸いつくすため、一度アボカドを生産した土地では、他の種類の果物などの栽培が困難になるという。そのチリを大干ばつが襲った。これも気候変動の影響のひとつだ。チリの人々は、先進国のために自らの食料生産や生活用水を犠牲にしてきた上に、気候変動による被害にも晒されているのである。

そして問題は、このような収奪や代償の転嫁なしには、帝国的生活様式は維持できないといということだ。グローバル・サウスの人々の生活条件の悪化は、資本主義の前提条件であり、南北の支配従属関係は、例外的事態ではなく、平常運転なのである。帝国的生活様式による生産と消費に依存しているグローバル・サウスも、グローバル資本主義の構造的理由から、自らの生活のためにこの平常運転に依存せざるを得ないのである。産業の市場は拡大していき、世界中の需要を満たすために生産続行が強制される。そして、犠牲が増えるほど、大企業の収益は上がる。これが資本の論理である。

・地球環境からの収奪

ところが、資本主義のグローバル化が地球の隅々まで及んだために、新たに収奪の対象となる「フロンティア」が消滅してしまった。そうした利潤獲得のプロセスが限界に達したということだ。利潤率が低下した結果、資本蓄積や経済成長が困難になり、「資本主義の終焉」が謳われるまでになっている。

ただ、本書で指摘されているのは、その先の話である。搾取対象は人間の労働力だけでなく、もう一方の本質的側面、地球環境にも及ぶ。資本主義による収奪の対象は周辺部の労働力だけでなく、地球環境全体なのだ。資源、エネルギー、食料も先進国との「不等価交換」によってグローバル・サウスから奪われていくのである。人間を資本蓄積のための道具として扱う資本主義は、自然もまた単なる掠奪の対象とみなす。そして、そのような社会システムが無限の経済成長を目指せば、地球環境が危機的状況に陥るのは、いわば当然の帰結なのである。

・外部化される環境負荷

すなわち、中核部は、資源を周辺部から掠奪し、同時に経済発展の背後に潜むコストや負荷を周辺部に押しつけてきたのである。加工食品やお菓子、あるいはファストフードなどで頻繁に使われているパーム油は、価格が安いだけでなく、酸化しにくいため、欧米人や我々の食生活の影の主役になっているが、これを作るためにアジアの熱帯雨林が大量に破壊されている。他にも、アマゾンの開発による森林火災や、大規模農業のための大量の地下水の吸い上げなど、地球環境から収奪し、その転嫁されたものは一番弱い人たちが最初に被害を受け、最近ではそれが先進国にも及ぶほどに気候変動が毎年起こっている。外部の消尽が行き着くところまできた今、日本のスーパー台風やオーストラリアの山火事など、その被害が先進国でも可視化されるようになっているのである。

このように、中核部での廉価で、便利な生活の背後には、周辺部からの労働力の搾取だけでなく、資源の収奪とそれに伴う環境負荷の押しつけが欠かせないのである。それゆえ環境危機が引き起こす被害に、地球上の人々がみな等しく苦しむわけではない。食料やエネルギーや原料の生産・消費に結びついた環境負荷は不平等に分配されているのだ。

「外部化社会」として先進国を糾弾するレーセニッヒによれば、「どこか遠く」の人々や自然環境に負荷を転嫁し、その真の費用を不払いにすることこそが、私たちの豊かな生活の前提条件なのである。

ここには、資本の力では克服できない限界が存在する。資本は無限の価値増殖を目指すが、地球は有限である。外部を使いつくすと、今までのやり方はうまくいかなくなる。危機が始まるのだ。これが「人新世」の危機の本質である。

短期的かつ表面的にだけ物事を見る限りでは、資本主義社会はまだまだ好調に見えるかもしれない。だが、中国やブラジルといったこれまで外部化の受け皿となっていた国々も急速な経済発展を遂げるようになった結果、外部化や転嫁の余地が急速に萎んでいる。あらゆる国が同時に外部化することは論理的に不可能なのだ。ところが、「外部化社会」にとって、外部がないのは致命傷となる。実際、廉価な労働力のフロンティアが喪失した結果、利潤率は低下し、先進国内部での労働者の搾取は激化している。同時に、環境的負荷のグローバル・サウスへの転嫁や外部化も限界を迎えつつあり、その矛盾が先進国にも現れるようになっている。労働条件の悪化は、先進国に住む私たちも日々実感しているのと同様に、気候危機のような環境破壊の報いを私たちが痛感するようになるのも時間の問題である。

転嫁が困難であることが判明し、人々の間に危機感や不安が生まれると、排外主義的運動が勢力を強めていく。右派ポピュリズムは、気候危機を自らの宣伝に利用し、排外主義的ナショナリズムを煽動するだろう。そして、社会に分断を持ち込むことで、民主主義の危機を深めているのが昨今である。

・経済成長の罠、生産性の罠

経済成長しながら二酸化炭素量を十分な速さで削減するのはほぼ不可能である。デカップリングは幻想であり、緑という言葉をいくら飾ろうが、経済成長は環境負荷を必然的に増大させる。経済成長を求める政策では気候変動に代表されるグローバルな環境危機から脱却できない。

また資本主義はコストカットのために労働生産性を上げようとする。労働生産性が上がると、経済規模が同じままなら失業者が出てしまう。だが資本主義の元では失業者たちは生活していくことができないし、失業率が高いことを政治家たちは嫌う。そのため、雇用を守るために、絶えず、経済規模を拡張していくような強い圧力がかかる。こうして生産性を上げると、経済規模を拡大せざるを得ない。

すなわち、筆者は技術革新がいくら起きようとも、グリーンニューディールによって気候変動危機を乗り越えようとする「気候ケインズ主義」では、乗り越えられないと主張する。また日本で暮らす私たちも帝国的生活様式を享受しているので、これを抜本的に変えていかないと気候変動には立ち向かえないと指摘する。

気候変動対策の時間切れが迫るなか、果たして私たちはなにをなすべきなのか。グリーンニューディールが目指すべきは、破局につながる経済成長ではなく、経済のスケールダウンとスローダウンなのだというのが筆者の主張だ。

・脱成長、経済成長に依存しない経済システム

一例として、ケイト・ラワースの提唱するドーナツ経済が紹介されている。地球の生態学的限界の中で、どのレベルまでの経済発展であれば、人類全員の繁栄が可能になるかに問いを発し、社会的な土台となる内縁と環境的な上限の間、この中にできるだけ多くの人を入れることで、持続可能で公正な社会を実現できるという考えである。

途上国の人は社会的な土台に満たない生活に苦しんでいる一方、今の先進国の人々は、プラネタリーバウンダリーを大きく超える暮らしをしており、また社会的な閾値を満たすほど、ほとんどの国が持続可能性を犠牲にすることで社会的欲求を満たしている。いくら経済成長しても、その成果を一部の人が独占し、再分配を行わないなら、多くの人は不幸になっていく。経済成長は、ある一定を超えると、幸福度の増大をそれほどもたらさない。逆に、経済成長しなくても既存のリソースをうまく分配さえできれば、社会は今以上に繁栄できる可能性がある。

ここまで読んできて、誰もが疑問に思うだろう。果たしてそれが可能なのだろうか。公正な資源配分が、資本主義システムのもとで恒常的に達成出来るのか。一国内だけでなく、グローバルな公正性と持続可能性を保ちながら。外部化と転嫁に依拠した資本主義で可能なのだろうか。環境危機すらも商機に変える、惨事便乗型資本主義。あらゆる状況に適応し、利潤獲得の機会を見出し、環境危機を前にしても、自ら止まりはせず、無限の経済成長を追い求める資本主義システムで、可能なのだろうか。

・脱成長と経済成長という人類の生存をめぐる対立

ノーベル経済学賞受賞者のスティグリッツは、自由市場信仰を非難し、公正な資本主義社会実現のため、労働者の賃上げや富裕層大企業への課税、独占の禁止を強化する必要があり、民主的な投票によって法律と政策を変更すれば経済成長が回復し、万人が豊かなミドルクラスになれるProgressive Capitalism(進歩的な資本主義)を提唱している。以前このnoteでも紹介した。スティグリッツは正しい資本主義を既存の「偽の資本主義」に対置している。しかし筆者はこれを痛烈に批判している。

彼が見落としているのは、次のような可能性である。つまり、彼が憧憬を抱く、戦後から1970年代までの「黄金期」の方が、むしろ例外的な「偽の資本主義」だったのではないか。そして、スティグリッツが指弾する現在の「偽の資本主義」こそが、実は、資本主義の真の姿なのである。その意味で、スティグリッツが求めている「改革」は、資本主義そのものを維持することと相容れないからこそ、絶対に実現できないのではないか。にもかかわらず、そのような「改革」を資本主義を維持するために大真面目に掲げるスティグリッツは、真の「空想主義者」というわけだ。

つまり資本主義的生産様式を本質的問題として見ていない。私的所有や階級といった問題に触れることなく、資本主義にブレーキをかけ、持続可能なものに修正できるとでもいうのだろうか。だが、そのような態度では、資本の力の前に屈し、資本主義の不平等や不自由がいつまでも保存されてしまう。結局、脱成長資本主義はとても魅力的に聞こえるが、実現不可能な空想主義なのだ。

脱成長を擁護したいなら、資本主義との折衷案では足りず、もっと困難な理論的・実践的課題に取り組まねばならない。歴史の分岐点においては、資本主義そのものに毅然とした態度で挑むべきなのである。労働を抜本的に変革し、搾取と支配の階級的対立を乗り越え、自由、平等で、公正かつ持続可能な社会を打ち立てる。これこそが、新世代の脱成長論である。

資本主義のもとで成長が止まった場合、企業はより一層必死になって利益を上げようとする。ゼロサム・ゲームのなかでは、労働者の賃金を下げたり、リストラ・非正規雇用化を進めて経費削減を断行したりする。国内では階級的分断が拡張するだろうし、グローバル・サウスからの掠奪も激しさを増していく。実際、日本社会では、労働分配率は低下し、貧富の格差はますます広がっている。ブラック企業のような労働問題も深刻化している。そして、パイが小さくなり、安定した仕事も減っていくなかで、人々はなんとか自分だけは生き残ろうと競争を激化させていく。「上級国民・下級国民」という言葉が流行語になったことからもわかるように、社会的な分断が人々の心を傷つけている。下記はZ世代、ミレニアル世代の声を代弁しているのではないか。

家賃、携帯電話代、交通費と飲み会代を払ったら、給料はあっという間になくなる。必死に、食費、服代や交際費を切り詰める。それでも生活を維持するギリギリの低賃金で、学生ローンや住宅ローンを抱えて、毎日真面目に働いている。これこそ、清貧でなくて何なのか。いったいあとどれくらい経済成長すれば、人々は豊かになるのだろうか。経済成長を目指して「痛みを伴う」構造改革や量的緩和を行いながら、労働分配率は低下し、格差は拡大し続けているではないか。そして、経済成長はいつまで自然を犠牲に続けるのだろうか。

ただ残念なことに日本では、経済成長を享受してきた恵まれた団塊世代と、困窮する氷河期世代との対立へと矮小化され、脱成長は緊縮政策と結びつけられていった。団塊世代の脱成長のアンチテーゼとして、リフレ派やMMT理論が最先端の反緊縮思想として紹介され、就職氷河期世代の支持を集めるようになっている。反緊縮は欧米ではグリーン・ニューディール、即ち気候変動対策としてのインフラ改革だが、日本に紹介される際、この視点が抜け落ちており、金融緩和や財政出動で資本主義のもとでの経済成長をひたすらに追求する、従来の理論と変わり映えのしないものになっている。

気候変動問題への関心が低い日本では、脱成長は旧世代の理論だという固定観念が定着してしまっている。新しい脱成長理論が世界で出てきているにもかかわらず、日本では紹介すらされない。これでは世界の潮流から取り残されてしまう。気候危機の今、大胆な政治を可能にする扉が開かれているはずである。しかし別の社会を思い描く想像力を解放する代わりに、環境破壊を引き起こした原因である経済成長を、以前と同様にひたすら追求してしまう。EV化の潮流にも乗り遅れているガラパゴス国家日本だけが二酸化炭素を排出し続け、諸外国から三流扱いされる未来が近づいている。

・晩年のマルクスの思想

マルクスが目指していたものは、生産力至上主義(共産党宣言など)、エコ社会主義(資本論など)が有名だが、晩年のマルクスは、社会主義における持続可能な経済発展の道を模索していた。資本主義のもとでは、持続可能な成長は不可能であり、自然からの掠奪を強めることにしかならないと。つまり、資本主義のもとで闇雲に生産力の向上をはかっても、それは社会主義への道を切り拓くことにはならない。むしろ、社会の繁栄にとって不可欠な「自然の生命力」を資本主義は破壊する。資本主義がもたらすものは、コミュニズムに向けた進歩ではない。このように、マルクスの思考は転換していたのである。

すなわち、資本主義での生産力上昇を追求するのではなく、先に別の経済システム、すなわち社会主義に移行して、そのもとで持続可能な経済成長を求めるべきだと最晩年のマルクスは考えるようになったそうだ。

・資本主義がもたらす恒久的な欠乏と希少性

ブランド化と広告が生む相対的希少性が、人々を無限の消費に駆り立てる。広告はロゴやブランドイメージに特別な意味を付与し、人々に必要のないものに本来の価値以上の値段をつけて買わせようとするのである。その結果、実質的な「使用価値」(有用性)にはまったく違いのない商品が「魅力的な」商品に変貌する。そしてこの人工的に生み出された希少性は、人に「満たされない」という感覚を植え付け、終わりなき競争を生む。自分より良いものを持っている人はインスタグラムを開けばいくらでもいるし、買ったものもすぐに新モデルの発売によって古びてしまう。消費者の理想はけっして実現されない。私たちの欲望や感性も資本によって包摂され、変容させられてしまうのである。

こうして、人々は、理想の姿、夢、憧れを得ようと、モノを絶えず購入するために労働へと駆り立てられ、また消費する。その過程に終わりはない。消費主義社会は、人々を絶えざる消費に駆り立てることができる。「満たされない」という希少性の感覚こそが、資本主義の原動力なのである。これでは、人々は一向に幸せになれない。この悪循環から逃れる道はないだろうか。

・脱成長コミュニズム

この悪循環は希少性のせいである。資本主義の人工的希少性に抗する、潤沢な社会を創造する必要がある。それが脱成長コミュニズムである。地球全体を〈コモン〉として考えることを推奨しており、すなわち水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として、自分たちで民主主義的に管理することを目指し、人工的希少性の領域を減らし、消費主義・物質主義から決別した「ラディカルな潤沢さ」を増やすことなのである。

「ラディカルな潤沢さ」が回復されるほど、商品化された領域が減っていく。そのため、GDPは減少していくだろう。脱成長だ。だが、そのことは、人々の生活が貧しくなることを意味しない。むしろ、現物給付の領域が増え、貨幣に依存しない領域が拡大することで、人々は労働への恒常的プレッシャーから徐々に解放されていく。その分だけ、人々は、より大きな自由時間を手に入れることができ、相互扶助への余裕が生まれ、消費主義的ではない活動への余地が生まれるはずだ。余暇を充実させることで、コミュニティの社会的・文化的エネルギーは増大していく。

私たちは経済成長からの恩恵を求めて、一生懸命に働きすぎた。一生懸命働くのは、資本にとって非常に都合がいい。だが、希少性を本質にする資本主義の枠内で豊かになることを目指しても、全員が豊かになることは、ここまで見てきた通り不可能である。

だから、そんなシステムはやめてしまおう。そして脱成長で置き換えよう。その方法が「ラディカルな潤沢さ」を実現する脱成長コミュニズムである。そうすれば、人々の生活は経済成長に依存しなくても、より安定して豊かになるのだというのが、本著の主張である。

・ブルシット・ジョブvsエッセンシャル・ワーク

脱成長コミュニズムの柱として、①使用価値経済への転換(大量生産と消費からの脱却)、②労働時間の短縮と生活の質の向上、③画一的な分業の廃止(労働の創造性の回復)、④生産プロセスの民主化(経済の減速)、⑤エッセンシャル・ワークの重視(労働集約的)、の5つを掲げている。

また現在高給を取っている職業(マーケティング、広告、コンサルティング、金融業や保険業など)は重要そうに見えて、実は社会の再生産そのものにはほとんど役に立っていない。デヴィッド・グレーバーによると、これらの仕事に従事している本人さえも、自分の仕事がなくなっても社会に何の問題もないと感じているという。世の中には「ブルシット・ジョブ(クソくだらない仕事)」が溢れているのである。しかし、使用価値をほとんど生み出さないこれらの労働が高給であるため、人が集まってきてしまっている。

一方、社会の再生産にとって必須なエッセンシャル・ワーク(使用価値が高いものを生み出す労働)が低賃金で、恒常的な人手不足になっている。いわゆるやりがい搾取である。だからこそ、使用価値を重視する社会、エッセンシャル・ワークが評価される社会への移行が必要である。経済成長を至上目的にしないなら、男性中心型の製造業重視から脱却し、ケア労働を重視する道が開けるのだという。そして現在、ケア階級の叛逆といった抵抗運動が世界各地の都市で勃興し、国の政治を動かすまでになっている。脱成長コミュニズムの萌芽を秘めた運動が広がっているのだ。

一例としてスペイン語圏を中心とした「Buen Vivir(ブエン・ビビール=より良く生きる)」や、欧州の小さな自治体での「Municipalism(ミュニシパリズム=利潤と市場の法則よりも市民を優先する)」の活動が紹介されている。このような試みの先駆性を正当に評価し、学ぶ姿勢が必要なのではないか。

もう新自由主義には、終止符を打つべきだ。必要なのは、「反緊縮」である。だが、単に貨幣をばら撒くだけでは、新自由主義には対抗できても、資本主義に終止符を打つことはできない。資本主義の人工的希少性に対する対抗策が、〈コモン〉の復権による「ラディカルな潤沢さ」の再建である。これこそ、脱成長コミュニズムが目指す「反緊縮」なのだ。

たとえ、総量としては、これまでよりも少なくしか生産されなくても、全体としては幸福で、公正で、持続可能な社会に向けての「自己抑制」を、自発的に行うべきなのである。無限の経済成長を断念し、万人の繁栄と持続可能性に重きを置くという自己抑制こそが、「自由の国」を拡張し、脱成長コミュニズムという未来を作り出すのである。

もちろん、資本主義とそれを牛耳る1%の超富裕層に立ち向かうのだから、エコバッグやマイボトルを買うといった簡単な話ではない。無限の経済成長という虚妄とは決別し、私たちは連帯して資本に緊急ブレーキをかけ、持続可能で公正な社会に向けて、信頼と相互扶助、自治に基づいた脱成長コミュニズムを打ち立てなければならないのである。

これは旧来の(官僚や専門家が意思決定権や情報を独占していた)ソ連型社会主義とは全く異なる。市民の自治と相互扶助の力を草の根から養い、持続可能な社会へ転換を試みる「参加型社会主義」なのである。


・まとめと所感

本書は帝国的生活様式の批判とともに始まり、グローバル・サウスからの富の収奪と環境負荷の転嫁によって、先進国が豊かな生活を享受していることを批判している。私たちは不公正さに目を瞑り、資本主義の夢を見続けてきた。だからこそ、持続可能で公正な社会を目指すなら、資本主義システムからの脱却に挑まなければならない。帝国的生産様式に挑む、グローバルな連帯が必要なのだ。

根深い分断が続く社会で、果たしてこのような利他的なことが可能なのだろうか。元サッカー日本代表の中田英寿氏は、3度出場したW杯において、2002年の日韓W杯、2006年のドイツW杯は楽しめなくなっていったと語っていた。高騰する年俸や移籍金に目が眩み、チームプレーよりも個人プレーに走る傾向の選手が増えていったからだそうだ。信頼や相互扶助といった綺麗事を述べるのは簡単だが、いざ実行していくというのは難しいだろう。

しかし、気候変動や世界の潮流を認識し、筆者の意見を踏まえ、未来に備えて個人として準備をしていくことは誰にでもできる。政府に頼ろうとしても全く助けてくれないということを、我々日本人はコロナ禍で改めて再認識したはずだ。パンデミック発生時に社会を守るために不可欠な人工呼吸器やマスク、消毒液は十分な生産体制が存在しなかった。コストカット目当てに海外に工場を移転したせいで、先進国であるはずの日本が、マスクさえも十分に作り、供給することができなかった。ワクチン摂取率も現時点で1%未満であり、他の先進国から大きく劣る。

社会基盤が大きく揺らぐ来たるべき危機に備えて、平次の段階からコミュニティの自治と相互扶助の能力を、個人として育んでおく必要があると感じた。



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