【ぎょうざ雑記】みにくいアヒルの子が「白鳥」に覚醒めることができたのはナゼか~「イキる」という在り方
※※※ご注意※※※
本記事は、心理学者カール・グスタフ・ユングの考えに大きく影響を受けています。
また「多様性」に関してデリケートな話題についても言及しています。
ご視聴の際、不快な思いをさせてしまう可能性あることをご了承くださる方は引き続きどうぞ。
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みなさんどうも、こんばんみ~。ぎょうざです。
『君たちはどうイキるか』というタイトル案もあったのですが、無難に本タイトルにしてみました。
余談はいったん脇に置きまして、例によってまずは結論から、
「イキらずにはいられない=無視することが出来ない他者の無意識的な理想を自己投影している」
イキることは、他者に求められていると感じている理想の自分へ、自らを導こうとする行為の一環だと思っています。
また、カッコつける、心の鎧を身に纏う、と言う表現もよく目にしますね。
今回は、なぜ人はイキらずにはいられないのか、について皆さんと一緒に考えていきたいと思います。
それでは、長文お付き合いくださいませ。
<第一章、求められる役割の数だけイキらずにはいられないポイントが貯まる>
私たちは普段の生活の中で数多くの役割をこなさなければなりません。職場では責任あるポジションを担い、家では家族を支える存在であることが期待され、友人関係やSNSでも「面白い」「魅力的な」人物であろうとするプレッシャーが存在します。こうした状況において、私たちは自然と「イキる」行動に走ってしまうことが多くなります。
「イキる」とは、自分を過剰に誇示し、他者に対して自己の価値をアピールする行為を指すようですが、なぜ人はこのような行動を取るのでしょうか?心理学者カール・グスタフ・ユングの思想にヒントがあります。ユングの理論によれば、私たちは「ペルソナ」という仮面を持っています。ペルソナは、社会的な役割に応じて形成される外面的な自己像であり、他者にどのように見られるかを意識して作り上げられるものです。このペルソナは、他者からの期待や社会的な役割に応じて変化し、自分を守るための一種の防御手段ともなります。
現代の複雑な社会では、役割の数が増え、期待される基準も高くなっています。そのため、私たちはますます多くのペルソナを持たなければならなくなり、それぞれの役割に応じて自分をアピールする必要が出てきます。イキることは、他者に対する自己表現の一環であり、自分の価値を認めさせたいという願望が無意識的に表面化する行動です。しかし、ユングの視点から見ると、こうした行動は自己の本質を歪める可能性があるとされます。社会的な役割に適応しすぎることで、私たちは自分本来の姿を見失い、ペルソナに依存するようになってしまいます。
イキる行為は、周囲の期待に応えるための無意識的な反応であり、自分の価値を証明するための手段ですが、その根底には自己への不安や他者からの評価を気にする心理が潜んでいます。私たちは、求められる役割に応じて自己を誇示する一方で、内面的には本来の自分を隠し、理想像を投影することになります。
<第二章、イキり仮面を被ると心の鎖が悲鳴をあげる>
「イキる」という行為は、一見すると自信に満ちた自己表現のように見えますが、その裏にはしばしば深い不安や葛藤が隠れています。ユングの思想において、「シャドウ」と呼ばれる無意識の側面があります。シャドウは、私たちが普段意識的に避けている、抑圧された感情や欲望の集合体です。イキることによって、私たちは自分の内なるシャドウを隠し、他者に自分の理想像を投影しようとしますが、その反動として心の中で鎖が悲鳴を上げることになります。
突然ですが、童話「みにくいアヒルの子」に登場するアヒルの子を引き合いに出してみます。アヒルの子は、自分が他者と違うことに苦しみ、疎外されますが、最終的には美しい白鳥へと成長します。この物語は、外部の評価や他者の目によって自分を抑圧することの危険性を示唆していると捉えています。アヒルの子が他者に受け入れられようと苦しむ姿は、私たちが他者の目を気にし、イキることで自己の価値を証明しようとする姿に重なります。
イキることは、自分を他者の目に映し出すための仮面を被る行為であり、その仮面は多くの場合、周囲の期待に応えるために作り上げられたものです。しかし、この仮面を被り続けることで、自分自身との乖離が進み、心の鎖が重くなっていくのです。ユングは、「シャドウとの対話」こそが本当の自己成長に必要なプロセスだと述べています。つまり、イキることによって仮面を被り続けることは、自己成長を妨げ、逆に心の負担を増やす結果となるのです。「みにくいアヒルの子」のように、他者の評価や期待に縛られず、自分自身と向き合うことにより、イキり仮面を外すことができれば、シャドウとの対話を促し、自己成長の鍵となりえます。
<第三章、無意識から個性だけを亡命させる救世主になる>
ユングは、人間の心の深層に「集合的無意識」という概念を提唱しました。集合的無意識は、個人の経験を超えた、人類全体に共通する無意識の領域であり、そこには「元型」と呼ばれる普遍的なシンボルやイメージが存在しています。元型は、私たちが自分自身を理解し、自己を超越するための手がかりを提供します。イキることは、無意識の世界から理想の自己像を投影し、その理想を外部に反映しようとする一種の行動ですが、それは多くの場合、本当の自己を見つけるためのプロセスを阻害してしまいます。
無意識の中には、私たちが気づかない個性や創造性が眠っています。これを認識し、自己の一部として統合することで、私たちは真の意味での自己実現に向かうことができるのです。ユングはこのプロセスを「個性化」と呼び、人が自分の無意識と向き合い、自己を統合することで、本当の自分を見つけ出すプロセスだと考えました。
少し乱暴ですがこれを飛躍的に捉えてみると、多様性という概念を考える材料にもなる可能性を捨てきれないと思っています。私たちは無意識からくる自己の個性を認識することで、自分自身を本当の意味で理解することができます。多様性の課題を考える際も、無意識からのメッセージを尊重し、自己の本質に従って生きることが大切です。(読者の方に不快な思いをさせてしまっていたら大変恐縮なのですが)例えば、LGBTQ+を公表されてる方々が抱えられている葛藤は、無意識の中にある本当の自己と社会的な期待との間での闘争を反映していると捉えています。そして最終的に、自分の真のありたい姿を受け入れる選択をされているのだと解釈しています。これもまた、ユングの理論におけるシャドウとの対話の一部であり、無意識からのメッセージを受け取ることが、真の個性を発見するプロセスと重なると感じています。
ユングは、個々の人間が自己の無意識に潜む個性を認識し、それを統合することが「個性化」のプロセスであると述べています。イキる行為は、無意識からのメッセージに対して過剰な反応を示し、外部に自己理想を投影する行動ですが、それが必ずしも本質的な個性に結びついているわけではありません。むしろ、私たちは無意識という世界から自己の真の個性を「亡命」させ、その個性に基づいて行動することで、理想の自分を自然に表現できるようになるのです。
〆のひと言
ここまで長文読んでいただき、ありがとうございました。
以上、ぎょうざでした。
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