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如来さまのみのり

ようこそようこそ。今週は木山です。

先日4月8日はお釈迦さまのお誕生日、「はなまつり」でした。ある和上さんは、「2500年経った今でもお誕生日をお祝いするということは、お釈迦さまは生きておるということだ」とおっしゃっておられます。普通、私たちは亡くなった方のお誕生日をお祝いしませんで、誕生日よりも命日を特別な日として、法要をお勤めし、大切にします(今や危うくなっていますが…)。

仏教徒がお釈迦さまのお誕生日を今でもお祝いするのは、仏様は今も生きて、私たちを教え、導いて下さっているという立場からでしょう。確かにその肉体は滅んでいったのかもしれませんが、仏様のお説き下さった法の中に仏様は生き続けられている、また法を大切にする僧、僧伽の中に生き続けて、私たちを導き続けていてくださるんだ、ということです。

仏教は大変に壮大な世界を説いているんだ、と改めて思わされます。


さて、浄土真宗はお念仏のお救いです。私の声でお念仏を称え、私の耳でお念仏を聞く。亡くなった方に聞かせるためでも、お願い事をするためでも、幽霊が怖いから幽霊に聞かせるためでもない。如来さまの「間違わさんぞ、お前を必ず救います」のお喚び声を「私が」お聞きするんですね。
それができるのは、阿弥陀さまが法蔵菩薩の名の下に、五劫が間詮索なさり、兆載永劫のご修行をなさいまして、私の声のお念仏となることをお選び下さったから、であります。私のためのお仕上がりです。

ある意味で私を見切っておられるんでしょうね。「分からんのだ」と。

都合の良いものばかりを見ようとして、悪いものはなるべく眼中に入れないように努め、遠ざけようとする。縁を縁のままに受けいれず、私の心のままに生きるがゆえに、思い悩む私の姿。いやそこに悩むことも知らないままで、我賢いと表立って言いはしませんが、自分が「普通」だと思いながら生きておる。煩悩を煩悩とも分からずに生きておる私の有り様。その私の姿をご覧になり、「分からんのだ」と見切られた。

しかし、分からんやつやとしながらも、見捨てることはなさらない。「お前を放っておかん、私がお前の元まで参ります、あなたの力は使いません」と私のいのちにご一緒してくださる、私の声となることを選ばれた如来さまです。ご一緒するだけでない、いのち終えていくその時に、私を仏と成らしめるおはたらきを実現して下さっておるのが、お念仏なんですね。

これを先輩方は「浄土真宗のご法義」と、私の元まで届けてくださいました。


「ご法義」を「みのり(法)」とか「み教え」と先輩方はおっしゃいます。皆さんはどちらをよく使いますか?近頃は専ら「み教え」とよく聞くようになったですね。「みのり」という言葉はあまり聞かんようになった気がしますが、どうでしょう。


「みのり」と「み教え」。あくまで私の感覚ですが、この二つの使いようは微妙に違うような気がしています。ざっくり言えば、「みのり」は救済のはたらきに、「み教え」は仏道に視点を置いた言葉ではないだろうか。


「み教え」と言う時、どうしても教えられる関係、師弟関係があるような気がするんです。物事を教え、それを実践させていくような関係性。ですが、阿弥陀さまは私をお救いくださる方です。私とご一緒してくださり、私を抱いてかかえてお浄土へと連れて行ってくださるお方です。こう見た時、阿弥陀さまは、師というよりもやはり親と言うべきで。ご開山がお慈悲を親にお例えになるのも、昔から浄土真宗のご門徒方が阿弥陀さまのことを「親さま」と言うてきたのは多分そういうことなんでしょう。


子供が知っていようがおるまいが、親が子を思う心はずっと子供に向けられているように、そのおはたらきは、私が認識の有無に関わらず、「十方衆生」と如来さまがお誓いになっておられるからこそ、間違いなく私に至り届いてくださっています。

そのおはたらきを「みのり」と言うんだろうと思います。


一方で、私が勝手に「み教え」から連想している師弟関係も仏教で大切にされてきました。師弟関係があってこそ、脈々と私まで仏教が受け継がれてきたわけです。

先週岩田さんが「宗派の違いはあっても仏教は仏様に成るための教えです」と綴っておられました。仏とは「智慧」と「慈悲」の実現ですから、仏教徒は慈悲の実現を目指していると言うて良いと思います。

この仏教の「慈悲」はとてつもないスケールを持っているんですね。私程度のものでも、近くにおるそれなりに大切な人には、「苦しんでほしく無い」とか「平穏に過ごしてほしい」とかその程度は思うわけですが、仏様はすべてのものを慈しみ、そのいのちの現実に共感してくださるお方です。文字通り、「すべてのいのち」に働きかけるのが仏様のお慈悲です。

ご開山は『歎異抄』で「私は父母に孝養を尽くすためにお念仏を申したことは一度もない」とお話しくださいます。続けて、「あらゆるいのちは生まれ変わり死に変わりを繰り返して、この迷いの世界をへ巡っているから、あるときはお互いに父母であったいのちも、また兄弟となったいのちもあっただろう」とおっしゃるんですね。これがまさに仏教のとてつもないスケールを示したお言葉だろうと思うんです。「私に関係のないいのちはひとつもないんだ。すべてが関係しあっているいのちなんだ」というわけです。

さらに、早く仏となって、そのあらゆるいのちを救済するはたらきを実現すべきである、という内容のお言葉が続いていきます。それは仏教が、時を超えて空間を超えて、善を超えて悪を超えて、生も死も超えて、すべてのいのちに慈悲を実現させるという目標を持っているということでしょう。法蔵菩薩の「十方衆生」のお誓いにも、この広大なお慈悲の心が表れています。

そのとてつもないスケールの世界をお示しくださったお釈迦さまを師と仰ぎ、師匠の示して下さった通りに、仏にならんと自分の生活を律していこうとする人々を仏教徒と言うだろうと思うんですね。


間違えてはいけないのは、浄土真宗が如来さまの救済にすがって、慈悲の実現を投げ出していると思ってしまうことです。ご開山が浄土真宗のご法義を最も詳しく説かれたお書物を『顕浄土真実教行証文類(ご本典)』と言いますが、その中に


「弟子は釈迦・諸仏の弟子なり、金剛心の行人なり」


と述べておられます。金剛心の行人とは、如来さまの仰せを受け容れお念仏を申す人のことですから、明らかに念仏を申す人を、お釈迦さま、諸仏の「弟子」と見ておられる。お釈迦さまの弟子である以上慈悲の実現は投げ出してはいない筈です。むしろ、全てを救済するはたらきを持つ仏となることを、真剣に考えておられた方がご開山でしょう。ですから、浄土真宗もお釈迦さまの弟子として、慈悲の実現を目指す仏道であるというご開山の思いをそこに窺うわけです。

またご本典は、法然教学が仏道であることを示そうという意図があってお書きになられたわけですから、この選述意図から考えても、浄土真宗を仏道として強調していたのだろうと考えています。


この師弟関係、慈悲の実現という仏道を意識した時には、「み教え」という言葉の方がその内容を表しているんじゃないか、と勝手に私は思っているわけです。仏教徒としての生き方に視点があるように思う。


でもやはり、ご開山も「釈迦諸仏の弟子」と言われて、「阿弥陀さまの弟子」とは述べておられないのは考えておくべきことだと思うんです。


阿弥陀さまのテーマは明日をも知らんいのちを生きる私です。いつ終えていくかも分からんのに、漠然と死から目を逸らし、まるで死ぬことがないかのように振る舞って生きておるのが私です。その私の姿に涙を流し尽くし、どうしたら本当の世界へと目を向けてくれるか、と考え抜かれた方が阿弥陀さまなんです。まさにいのちを終えて行かんとするその時に、悠長に生き方を説いている暇はないんです。間に合わなかったじゃダメなんです。「どうかお念仏申してくれよ」の仰せを受け容れて「なんまんだぶ」とお念仏申す。如来さまがご一緒のいのちと聞き受け容れていく。そこに救いがあるんでしょう。


だから、私個人としては生き方が連想される「み教え」よりも、如来さまのお救いをそのまま表している「みのり」という言葉にこだわってみたいなと、今は思っているんですね。生き方はそれぞれが如来さまのお言葉に触れるにつけ、考えていくべきことです。


ただ、これまでグダグダ書いてきたことをひっくり返すようですが、どっちでも良い気もしています。

「みのり」の「のり」は「法」。「法」には「秩序」や「制度」、「存在」、「方法」…実に色んな意味があるようです。お釈迦さまがお説きくださった「法」は、「秩序」、つまり、仏教徒の生活の「規範」です。この時の「法」は「み教え」と言う方が落ち着きます。また「教法」という言葉もありますから、どちらの意味も込められているような気がする。法とは「み法」であり、「み教え」であると言えるんでしょう。

如来さまのおはたらき、お救いを「み法」と言うても「み教え」というても全く間違いではないと思います。仏道もまた「み教え」であり「み法」であるんでしょう。


そう考えてみても…やはり、如来さまのおはたらきは「みのり」と言っていたい私がおります。最近あまり「みのり」と聞かなくなったような気がするので、天邪鬼な私は「みのり」としばらくこだわって言い続けてみようかなと思っておる今日でございます。


称名

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