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お葬式から考える

皆さま、こんばんは。
今週は陰山です。
年末から父の入院に始まり、生まれて間もない赤ちゃんのお葬式、いつも私を元気付けてくださった90歳の御門徒さんのお葬式と続き、老病死、様々なご縁に遇わせて頂きました。

赤ちゃんのおじい様がおっしゃっていました。
「順番が違う」
その時、私の頭の中には「老少不定」という言葉が浮かびました。
老いも若きも、いつ命を終えていくのか定まっていない、ということです。

朝には紅顔(こうがん)あって、夕べには白骨となれる身なり

『御文章』

蓮如上人が残してくださった「白骨の御文章」、いつもお聞かせ頂いている言葉です。
いつ終わってもおかしくないこの命なんだ、ということです。

よくよく聞かせて頂いてはおりますが、私はそのおじい様に「そうですね。」としか答えることが出来ませんでした。
誰がその場で、「この世は老少不定です。あなたのその見方が間違えているんです。」と言えるでしょうか。

私の目が見る現実は、残酷です。
大切な方の死、自身の老病死、苦しみのつきないこの命。
「順番が違うやないか」と嘆くことしか出来ないのです。
その苦しみは、私の執着から生まれます。
私は自身の命に、自身の思いに、執着するように生まれてきました。
その生まれながらに持ち合わせている執着から離れなければ、この苦しみはなくならないと聞きます。

お釈迦様は、この世は
諸行無常(すべての作り上げられたものは移ろい変わり、一時として常なるものはない)
諸法無我(すべてのものは私でない。個人的には私の所有ではない。という方がしっくりくる気がします)
であるとおっしゃられました。

一方、私は、家を、家族を、友人を、私に関わっているものを、そして自分自身を、自分のものだと思っています。
ここでいう「自分のもの」とは、完全に自分の思い通りになるものということです。
当然ですが、どんなものであっても、自分自身であっても、「自分のもの」というものはありません。
「自分のもの」など何一つとしてないのに、勝手に自分のものだと思い、その勝手に自分のものだと思ったものだけが、都合よく常に変わることなく、ずっと存在していて欲しいと願うのです。
だから、苦しいのだ。その一つ一つの執着から離れなさいということです。

お釈迦様が、真理に目覚め仏と成られ、菩提樹の下でその真理を味わっておられた時に、天から梵天が降りてきて、「その教えを皆に広めてほしい」と請われます。「梵天勧請」という有名なお話です。

梵天から「その教えを広めて欲しい」と言われたお釈迦様は、「この教えを皆は理解できない。」と初めは断られます。しかし、梵天は「この世の中で生きることは本当に苦しいことである、と実感し体験した人が世の中にはいる。あなたの教えはその人々を救えます。皆を救おうと思わなくてもいい。あなたの教えを必要とする人を救ってください。」と続けます。
それを聞いたお釈迦様は、「では、私の救える者を私は救おう。」と思い直し、布教の旅に出られます。

理屈はふわっとでも分かっているつもりです。しかし、現実には難しいです。
いつ命終えるか分からない、という事も、分かっているつもりです。
何でも思い通りにはならない、それも分かっているつもりです。
それでも、その現実を受け入れることの出来ない私です。
先ゆく命を嘆き、老いる肉体を嘆き、大切なものとの別れを嘆くのです。
煩悩の火にこの身を焼かれながら、グルグルと苦しみの泥の中に溺れていくしかないこの身です。

「私は当時お釈迦様にお会いできたとしても、その教えを受け入れ実践することは出来なかっただろうな」と思います。
梵天が言った、お釈迦様の教えに救われる人の中に、私は含まれていなかったのか。などと考えてしまいます。

そんな私に阿弥陀仏の救いが届きました。

よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり

『顕浄土真実教行証文類』「正信偈」

お正信偈の中の一句です。
「他力の信心を頂くと、煩悩を断たずに涅槃を得るのである」
煩悩が邪魔をして、物事をきちんと見ることが出来ず、現実を受け止めることが出来ないこの私が、他力の信心を頂き、涅槃というさとりの領域に入るという意味です。

煩悩と涅槃は反対の言葉ですので、一見矛盾しているように感じます。
私は執着・煩悩によって現に苦しみ、様々に悩みを抱え、涅槃とは真逆の存在です。

浄土真宗では「そのままの救い」ということがよく言われます。
阿弥陀仏はそんな私を必ず仏にすると誓ってくださいました。
命終えるその時まで煩悩は決して消えないけれども、本願力によって浄土に往生させて頂き仏と成らせて頂きます。
また、このいのちは必ず浄土に往生することが定まった「正定聚」という位であると聞かせて頂きます。

梯和上は、「正定聚」とは、煩悩の支配を受けているようだけれども、本質的には如来の支配下に置かれている位です。とおっしゃられました。
阿弥陀仏の智慧が本願のお言葉となって、私を包み込みさとりの領域を知らせてくださるのです。
そして絶えず過ちをおかしつつある自分に気付かされ、軌道修正されていきます。
現実を受け入れることが出来ないこの私を、本願のお言葉が、お念仏が私に気付かせ続けてくださいます。
それが如来の支配下に置かれるということでしょう。

昔の私から比べると、ずいぶんお育て頂いたんだろうと思います。
今こうして、お念仏もうしてお聴聞させて頂いていることも、ご本願のはたらきです。
私がしようと思ってなったのではありません。
少しずつ少しずつ修正されていっているのです。

少しずつ少しずつ。

なんまんだぶ

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